幼馴染の許婚さまは、女が怖くてしかたない。 ※ただしわたしを除く

やなぎ怜

前編

「あなた、ご自分が慶一郎けいいちろうさまと釣り合うと思って?」


 くいっと顎を天へと仰がせ、傲慢とも言える瞳でこちらを睥睨へいげいする。淡く艶やかな蜂蜜色の髪をゆるくウェーブさせ、これまた色素の薄いハシバミ色の瞳を長いまつげが彩る。肌は陶器のごとくすべらかできめ細かくシミひとつない。わたしの前に腕を組み仁王立ちをする姿は女王そのもの。


 彼女こそ東條とうじょうグループの社長令嬢、東條アンナである。


 彼女は五人の取り巻き――いずれも東條グループの役員クラスを父に持つお嬢様ばかり――を引きつれて、圧迫面接も真っ青の圧力をわたしにかけている。


 だがわたしは気のない返事をするしかない。


「はあ……まあ父とおじさまが決められたので……」


 いかにもやる気なさげなわたしの返答に、アンナお嬢様はこれみよがしに深いため息をつかれる。


「はああああ……あなた、そこはね、身の程を知って辞退するのが淑女というものですよ」

「はあ、そうですか」


 わたしが淑女かと問われれば疑問を呈さずにはおれない。なにせわたしはこの世に生を受けてから現在に至るまで、英才教育とか淑女教育だとか、そういったものは一切受けていないのだから。


 けれどもそれはそしられるべきものではない。たしかにこの鳳凰ほうおう学園は良家の子女が多く通う名門校。しかし一般の子弟にも門戸を開いて久しいのだから、わたしのような生徒がいたとてなんら不思議はないのだ。


 しかしアンナ嬢が問題にしているのはそこではないということもまた、わたしは承知していた。先ほどから執拗にアンナ嬢が身を引けとうるさいその原因――すべては慶一郎さまのせいである。


 わたしこと三橋みつはし容子ようこ鷹城たかしろ慶一郎さまは幼馴染である。それでもって維新以前は三橋家から見て鷹城家は主家であった。つまり世が世であればわたしと慶一郎さまは主君筋と家臣筋という間柄であったわけである。


 しかし世が世ではないので本来であれば身分は平等であるのだが、二十一世紀に入って久しいというのに我が家は未だに鷹城家を主家と仰いでおられる。


 だがそれにも一応理由はある。わたしの父は鷹城家の御当主であるおじさま――つまりは慶一郎のお父さまの運転手をしていて、母は本宅のハウスキーパー。代々三橋の人間は鷹城家に仕えることで養われて来たと言っても過言ではないのだ。そういうわけで父も母も一人娘のわたしに鷹城家には敬意を払えと幼い頃から言い聞かせて来たのである。


 それを良いとも思わないが嫌だとも思わないのは、ひとえに鷹城のおじさまがそういうことを強要しない鷹揚な性格であるからだろう。加えて慶一郎さまの存在だ。


 慶一郎さまは非常におモテになる。それはもう、バレンタインデーともなれば学園中の女子おなごが大挙して押し寄せ、校門には他校の女子生徒がずらりと顔を見せるほどの――ちょっと見ないくらいのモテ方である。わたしの親友は「こんな漫画みたいなモテ方をするひとは初めて見た」と言っていたくらいであるから、やはり慶一郎さまのモテ方は尋常ではないのだろう。


 涼やかな容姿とひとことで言ってしまうのは簡単だが、顔のパーツがほぼ左右対称に近い均整の取れた位置にあり、それらすべてが調和して芸術的なまでの美貌を演出している……ううーん、わたしの語彙ではこれが限界。とかく慶一郎さまはイケメンってやつなのだ。


 イケメン過ぎて近づきがたい雰囲気すらある慶一郎さまは、だれにも媚びない孤高の人でもある。それがまた女子からすると良いらしいのだが、慶一郎さまの素顔を知るわたしからすると失笑ものである。それでいて同性に対しては気安い態度なので、孤高ではあるが孤立しているわけではない。


 スポーツをさせても勉強をさせても平均以上の成績を悠々と取るともなれば、いよいよ慶一郎さまは天下無敵のイケメンさまである。


 そしてそのイケメンさまとわたしはなぜか許婚いいなずけなのであった。


「――とにかく、あなたが慶一郎さまの許婚だなんてわたくしは絶対に認めませんからね!」

「はあ……」


 いかにわたし、三橋容子が慶一郎さまにふさわしくないかを並べ立て終えたアンナ嬢が居丈高にそう言い放つも、やはりわたしは気のない返事をするよりほかない。


 いくら彼女や周囲の人間がわたしが慶一郎さまにふさわしくないと言い立てたって、わたしの家と慶一郎さまのお家とのあいだでの決めごとだ。そこに第三者が口を挟む権利はないし、すべもない。そしてわたしにもどうしようもできない。


 どういった経緯でわたしが許婚となったのかは詳らかではない。ただいつの間にかわたしは慶一郎さまの許婚になっていて、おじさまは息子をよろしくとか言って来るし、両親は盆と正月が一度に来たとかいう程度でない喜び方をしていた。そういうわけで異を唱える暇もなく、わたしが慶一郎さまに嫁ぐことは決定事項となったのである。


 ちなみにもう片方の当事者である慶一郎さまがどう思われているのかは知らない。ひとつたしかなのは、彼はわたしのことを女だとは思っていないだろうと言うことだ。


「はあっ……なぜ慶一郎さまはあなたのような女をそばに置いておられるのかしら?」


 ――それは慶一郎さまに近づける女がわたししかいないからですよ。


 みな、それを不思議に思う。なぜ鷹城慶一郎ほどのウルトライケメンさまが、わたしのようなパッとしない女をそばに置いているのか。大抵のひとは「幼馴染だから」と言う。またあるひとは「許婚だから」と言う。けれどもそれは他の女を決して近づけない理由にはならない。


 バレンタインデーでどれほどの美女がチョコレートを差し出しても、慶一郎さまは受け取らない。体育の授業のあと、素晴らしい美女がタオルを差し出しても慶一郎さまは受け取らない。目を疑うような美女に告白されても、泣かれても、慶一郎さまは決して受け入れないし、近づきもしない。


 ゲイ疑惑も飛び出す中、「それでも三橋容子だけはそばにいることを許している」という事実は、みなの頭を悩ませた。


 しかしみんな、どうしてこの結論にたどりつけないのか、わたしには不思議で仕方がない。


 慶一郎さまは女性恐怖症なのだ。


 どんな美女だろうが、どんなブスだろうが、慶一郎さまは等しく女性がダメなのであった。苦手とかいう程度ではない。「ダメ」なのだ。


 美女に迫られてはあとでわたしに泣きついて幼子のように恐怖を訴えるくらい、ダメなのだ。――そしてわたしはそんな慶一郎さまの背を優しく撫でて話を聞いてやって慰めてやらねばならない。


 本宅のポストに慶一郎さま宛の菓子類が入っていたら、ゴキブリが出現したときもかくやというほどに大騒ぎする。――そしてわたしはお菓子が手作りならばゴミ箱へシュートし、既製品であればおやつ代わりに黙々と消費してやるのである。


 外で偶然女子生徒に行き合えば、孤高にクールにいなしたあと、しばらくはわたしの手を強く握りしめて離さない。――そしてわたしは手が痛いのを我慢して黙り込んだままの慶一郎さまに付き合わなければならない。


 これだけ聞けばいかに慶一郎さまが女性を恐怖の対象としているかおわかりだろう。


 ――だというのに、なぜか慶一郎さまはわたしだけは大丈夫なのである。


 その上、女性に行き会って恐ろしい目に遭ったときは、真っ先にわたしのもとへとすっ飛んで来るくらいであった。


 わたし、女なんですけど?


 そう思ったのは一度や二度ではないし、百や二百でも足りない。


 わたしが先ほど「慶一郎さまはわたしのことを女だとは思っていない」と述した理由がおわかりだろう。


 しかしまあ、なぜわたしだけが大丈夫なのか。なぜわたしを真っ先に頼るのか。その原因の一片についてもわたしは承知している。


 あれはわたしたちがまだ鳳凰学園の初等部に上がる前の話であった。


 今のような他人を寄せつけない雰囲気をまとっていなかった慶一郎さまは、控えめに言っても天使であった。ひとによっては妖精とか言うかもしれない。


 まあとかく宗教画から抜けだして来た天使の如き類い稀なる容姿を持っていた慶一郎さまは、その見た目に比例した純粋無垢さを持つ天真爛漫な御仁であったのだ。要は人を疑うことを知らない人間だったのである。


 この歳であれば、それは仕方のないことであろう。特に慶一郎さまはひとり息子として、それはもう大切に大切に育てられたのだから、なおさら警戒心は人一倍薄かった。


 その頃は慶一郎さまのお母さまの方針もあり、彼はごく普通の幼稚園に通っていた。もちろんわたしもいっしょだ。そうなのだ、物心ついたときから常にわたしは慶一郎さまのおそばに置かれて来たのだ。


 閑話休題。幼稚園の毎週恒例、公園へのお散歩で事件は起きた。幼稚園のすぐそばにある広大な緑地公園の一角でわたしは遊んでいたのだが、あるふたつのグループが滑り台をめぐって大喧嘩を始めてしまったのだ。三人ついていた教諭は両の手では足りない園児をなだめるのにかかりきりで、他の園児に構っている暇がなくなったのは不幸な話だった。


 わたしは砂場にいてそんな大騒動を傍観していたのだが、気がつけば慶一郎さまがどこにもいないという、重大な事実に気がついてしまった。いつも両親から慶一郎さまをよく見ていなさいと言い聞かされていたまだ純粋なわたしは、律儀に慶一郎さまを捜しに行ったのだが……。


「おとうさまのところにいくの?」

「そうよ。おとうさまが慶一郎くんのことを呼んでたから」


 わたしはまがうことなき誘拐の場面に遭遇した。それはもう息を呑むほどのすらりとしたモデルのような見知らぬ美女が、天使のような慶一郎さまの手を引いていたのである。ちょっとすれば「きれいな親子ね」とスルーされてしまいそうな光景である。けれどもわたしは彼女が我が家とは縁もゆかりもない女だと――実際は違っていたのだが――看破した。


 わたしは周囲を見回したが、園児たちのいる一角からはだいぶ離れていた上に、広大な緑地公園内には平日の昼間ということもあってひとらしい影もない。仕方なくわたしは息を殺し、ふたりのあとを追跡することにしたのである。


 今のわたしならそのときの自分にこう言ってやりたい。「まずは先生を呼びましょう」と。


 しかし当時のわたしの脳みそは、残念なことにその選択肢は浮かばなかったのであった。

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