(11)

「今どき高校の修学旅行で京都はないよな」

「オレ小学校のときに行った……」


 貸切バスからぞろぞろと降り立つコートを羽織った制服の一団は、そんなことを言い合いながら長旅で凝り固まった体を伸ばしている。


 期末考査も無事終了した一二月。第二学年には二泊三日の修学旅行が待ち受けていた。先のようにすでに京都には行ったことがあるという人間も多い中での行事ではあったが、そこはやはり、否が応にもそこかしこで盛り上がりを見られる。


 盛り上がると言う点においてはアキラも例外ではない。


「アキラさん、忘れ物ない?」


 耳元で下の名前をささやかれ、アキラは肩を揺らした。そんな彼女の姿を見て冨由馬はくすりと笑う。


 相変わらずアキラと冨由馬が付き合っていることを知るのは、本人らを除けばつばきと夏生以外にはいない。


 そういうわけであるから、冨由馬は対外的にはいつもアキラのことを「久木さん」と呼ぶ。けれども先ほどのように、ときたまこうして戯れのようにアキラにしか聞こえない距離で下の名前を呼ぶときがあるのだ。アキラはそれをうれしく思い、またそのときを密かに心待ちにしていた。


 文化祭であった「疑惑の一件」はアキラの中ではほとんど気のせいであったことになっている。否、アキラは気のせいだということにしたかった。


 なぜなら文化祭以降も冨由馬との付き合いは順調だったし、彼におかしな点はひとつもない。それでもアキラが例の一件について直接冨由馬を問い質したことがないのは、その「気のせい」だと思っていたことが事実でなければ困るからだ。もしも希望を覆されれば、アキラは平静ではいられないだろう。


 あの瞬間、もしも冨由馬が夏生とキスをしていたということになれば、それが意味することはなんなのか。もしかしたら、深い意味はないのかもしれない。しかしあるとすれば、冨由馬は夏生を――好きだということになる。そうなれば、アキラはいったいなんのか?


 アキラは、そうなるのを恐れていた。だからあの一件はアキラの中では「気のせい」ということに無理やりしてあるのだ。


 ふたりきりでの水族館デート以降も、アキラは冨由馬とふたりでのデートを繰り返していた。とはいえアキラも来年には最終学年。部活動に打ち込める時間も限られて来るから、どうしても学校が休みの日ならデートが出来る……というわけにはいかない。それでも合間を縫うようにして、ふたりは着実に距離を縮めていた。


 それでもキスはまだ、ない。


 どういうきっかけで恋人たちがキスをするのか、アキラにはわからない。ネットで検索してみれば三ヶ月で性交渉まで及ぶのも珍しくないようだが、冨由馬とアキラの間柄では未だそれは想像すら出来ない領域にある。ふたりの付き合いは、どこまでも清いものであった。


 つばきにも聞いてみたが「そんな調子じゃアキラちゃんにはまだ早いよ~」と、いつもの間延びした口調で笑われてしまった。


「で、でもさーわたしからいけるなら……したいっていうか」

「えー。でもこういうのって男のほうにまかせたほうがいいよ~? 男のプライドってもんもあるだろうしー」

「そうなの?」

「そうそう。それに柊くんにも柊くんなりのペースってもんがあるだろうしねー。柊くんに任せてみたら?」


 そういうものか、とアキラは納得したが、やはりもう一歩恋人として進んでみたかった。そう考えるとこの修学旅行は絶好のチャンスのような気がした。いつもとは違う場所でふたりきりになれたら、もしかしたら――と、アキラの脳内は桃色である。


 しかし無論、修学旅行として京都に来ているのであるから、行動は班単位で行う。アキラの高校では一班四人の構成で観光タクシーを使って京都の各所をまわり、旅行後にレポートとして提出することになっている。


 四人一班であるから、当然そのメンバーは決まっている。


「さっそくいちゃついてる~」


 にやにやと笑うつばきに肩を叩かれて、アキラはとっさに自身の顔へと手をやる。それを見てつばきは吹き出した。


「だいじょうぶだってー。顔には出てないよっ」

「え? そーお?」

「ヤバかったら言うしー」

「うん、よろしく」


 いつものようにじゃれあうアキラとつばきの横では、夏生が寒そうにマフラーへと顔を埋めていた。


「カイロ持って来たか?」

「ああ……」

「お前寒いの苦手だもんな。風邪引かないようにしろよ」

「わかってる」


 そうして二言交わしただけで、冨由馬と夏生のあいだから会話はなくなった。


 アキラと冨由馬の付き合いが順調な一方で、どうも雲行きの怪しい一角があった。先ほどの様子を見てもクラスメイトたちはなにがおかしいのかは気づかないが、どうも冨由馬と夏生の空気はよそよそしい。


 どうしてそうなってしまったのか、アキラには心当たりがない。無理やり見出すとすれば、どうしたって文化祭の一件へと繋がってしまう。だからアキラは知らないフリをする。


 きっと、アキラにはわからないところで仲たがいをしてしまったとか、そんなところだろう。そう考えて夏生とのことについて冨由馬に聞くことはなく、アキラはふたりの仲を静観していた。


 ただそれでも親友であるつばきにはそれとなく聞いたことがあった。答えは「男の子のことなんてわかんない」であったが……。つばきは冨由馬と夏生のあいだに漂う穏やかではない空気については、特に関心はないようだった。夏生がいれば、彼女はそれでいいのかもしれないとアキラは思う。なぜならアキラ自身、そうだからだ。


 酷かもしれないが、そもそもアキラと夏生は元から親しい間柄ではない。愛の反対は無関心だというのは、存外的を射ているのだなと実感するくらいだ。冨由馬と夏生が仲違いしたって、アキラには関係ない。つばきにも関係ない。なら、どうでもいいと思ってしまうのは仕方がない。――そう胸中でだれに言うでもなしに言いわけをする。


「最初はクラス単位で御祈祷だっけ」

「来年にはもう受験生だからね」

「あー受験なんて嫌だな~もう」


 学業成就の北野天満宮にいると、自然と会話の内容は来年から再来年に控えた大学受験の話になって来る。


「柊くんてやっぱ医学部あるとこ受けるの?」

「そうだよ」

「やっぱ将来的にはお父さんの病院とか継ぐ感じー?」

「さあ、どうなるかな。父は厳しいからね」


 そうやって聞きながらも合間に「受験なんて嫌だなー」と言っているつばきであったが、本気で憂鬱なのは実はアキラのほうであった。つばきの頭ならば国公立大に入ることくらい楽であろうことは想像に難くない。おバカな雰囲気をまとってはいても、彼女が勉強が出来るのは事実である。


 冨由馬と夏生については言うまでもない。ふたりとも成績上位者として職員室前の張り出しの中にいつも名前がある。模試の成績も良かった。


 本気で神頼みでもなんでもしないといけないのは自分だな、とアキラはちょっと落ち込む。


 それでも御祈祷が終わっていよいよ班行動の時間になれば気持ちが上向きになるのだから、現金なものだ。恋とは偉大なものである。


 一日目はつばきの希望で寺社仏閣を中心に回ることになっていた。最大の目的は清水寺きよみずでらである。言うまでもなく清水寺敷地内の、恋愛成就に御利益のある地主じしゅ神社に行くのが目的であった。


 寺社めぐりとレポートのための資料集めは順調だった。不満はと言えば、冨由馬とふたりきりになれない点であった。しかし周囲は同じ学校の生徒ばかりである都合上、ふたりきりになっても逆に困るかとアキラは密かに断念する。


 となれば自然アキラはつばきといっしょにいることのほうが多かった。特に恋愛成就のお守りだのなんだのといった話題は、男とするよりも女としたほうが楽しいものである。あれこれと会話を交わしていれば、冨由馬たちには悪いが時間が過ぎるのを忘れてしまう。


 改めてアキラは、つばきとは相性が良いのだなと思った。無理に会話をひねり出そうとも思わないし、話に合わせようとも、愛想笑いをしなければとも思わない。いつまでも自然と会話が続いたし、趣味は違えど感性が似ているせいか話をしていて楽しい。そしてなにより、いっしょにいると笑顔が絶えなかった。


 アキラたちがそうしている反対側では、当然のごとく男ふたり――冨由馬と夏生が残されることになる。しかしふたりのあいだは、相変わらずよそよそしい空気が当然と横たわっていた。その理由を知るのは本人たちだけであったし、その異変に気づいているのはつばきとアキラくらいであった。


「あのふたり、放っておいていいのかな……」


 土産物屋で根付のついたイヤホンジャックを選びながら、アキラはつばきにそれとなく話しかける。彼女の視線の先には、並びあいながらも一切の会話がない冨由馬と夏生がいた。正確には冨由馬は話しかけているのだが、夏生は返事をしないかしても上の空というような曖昧な声しか出さない。会話として成立していないのはたしかだ。


「ケンカしてるならそれはそれでいいんじゃない~? 幼馴染なんだから今までケンカくらいしたことあるだろうしー」

「でもさ……」

「ケンカには当事者以外入らないほうがいいってー。余計ややこしくなるよ?」

「そっか……。でも、ふたりには仲良くして欲しいなーって思っちゃって。わたしはつばきといると楽しいし、前のふたりもそんな感じだったからさ……」


 アキラは左腕に熱が触れるのを感じて、思わずそちらを見やった。そこには頭ひとつぶん小さいつばきがいる。彼女はアキラに体を寄せてその腕に抱きつき、にっこりと満面の笑みを浮かべていた。うれしさが抑えきれない、といった顔である。


「アキラちゃんってば~わたしを口説いてどうするつもりー?」

「えーっ、口説いてないよ」

「ふっふっふー。まー暗い話はヤメにしようよ? どうにかしたいならきっと向こうから相談してくるだろうしさ。ね?」

「……うん」

「でねでね、この根付おそろいの買おうよー。記念にさ、色違いのにしよ!」



 夕方には宿泊先のホテルへと到着した四人は、おのおのルームキーを担任から受け取る。与えられた部屋はふたり一部屋。それぞれアキラとつばき、冨由馬と夏生が同じ部屋である。


 部屋に入ってすぐ、つばきはひとり掛けのソファに勢い良く腰を下ろし、靴をそこらに放り出した。


「はーっ、つーかーれーたー!」

「えー、体力ないなあつばき。移動なんてほとんどタクシーだったじゃん」

「つばきちゃんは可憐なんですうー」

「あはは、つばきが言うと本当っぽく聞こえる」


 荷物を置いたあとは夕食と入浴の時間をチェックし、デジタルカメラで撮影したデータを見ながら話に花を咲かせた。


「アキラちゃん、写真撮ろうよ! ツーショットツーショット」

「つばきって写真撮るの好きだよね」


 つばきが好きなのはアキラ写真を撮ることだとは気づかないまま、ふたりは顔を寄せ合い、レンズに向かってピースする。それはなんてことのない旅の一枚。だれが見ても親しい友人ふたりの旅の思い出の写真だ。その写真から受け取れる意味はなんの変哲もないものである。――ただふたりを除いて。



「なあ、冨由馬」


 夕食後の入浴を終え、大浴場から帰って来た夏生は、意を決して幼馴染の名を呼んだ。ひとり掛けのソファに悠然と座る冨由馬は、テレビの天気予報から目を離さずに「なんだ」と冷え冷えとした声で応える。


 だがそれにひるむような夏生ではない。冨由馬とは長い付き合いであるから、彼の突き放すような言い方には慣れていた。


「文化祭のあれ……どういうつもりだったんだよ」

「あれって?」


 とぼける冨由馬に夏生はいらだつ。しかしそんな姿を見ても、冨由馬が意に介する様子もない。


 いつだって冨由馬はそうだった。夏生がどれだけ泣こうがわめこうが、冨由馬が彼より優位の存在であることに揺るぎはないのである。そしてそれをわかっているからこそ、冨由馬は夏生に対して傲慢に振舞うのであった。


「……言わなくても、わかるだろ」

「さあ? なんのことだか」

「……だからっ……だから、あれ……僕に、キス、したの。……どういうつもりだよ」


 テレビから平坦な女性アナウンサーの声が聞こえる。それが今、ふたりの空間における唯一の音だった。


 一分か、二分か。そう長い時間ではなかった。けれども夏生からするとその時間は無限に続くようにすら感ぜられた。


「どういう、つもりなんだよ。なにか言えよ」


 たまらず、重ねて言葉を吐く。


 ややあってから、冨由馬は背の低いテーブルにリモコンを置いた。テーブルのガラス部にプラスチックが当たる軽い音が響く。


「どういうつもりもないけど」

「は……?」


 冨由馬の言葉に、夏生は意表を突かれた。彼はもっとあからさまに自分を嘲るだろうと、夏生はそう思っていたのだ。


「答えになってねえよ」

「夏生はどういうつもりだと思ったわけ?」

「質問に質問で返すなよ!」


 夏生がついに怒りを爆発させても、冨由馬は眉ひとつ動かさない。それが妙にいらだたしくて、同時に夏生は悲しくもなった。かき乱されているのは自分ばかりで、冨由馬は超然と上から夏生を見下ろしている。いつだって、そうだった。そして今もそれは変わらない。


「ああいうのは……好きなひととするもんだろ」


 そう言ってから、冨由馬はバカにするだろうなと夏生は思った。


 けれども、冨由馬が嘲笑わらうことはなかった。


「ああ、そうだな」

「そうだなって……」

「違うのか?」

「違わない……違わないから、だから僕は……」


 夏生はにわかに混乱する。


 ――「だから僕は……」?


 その先をなんと言おうとしたのか、夏生自身にもわからなかった。ただ頭の中が嵐に巻き込まれたようにぐちゃぐちゃになっているのだけはたしかだ。これではまともな思考は期待できそうにない。


「……じゃあ、久木さんとはしたのか?」


 夏生の問いに、冨由馬はなんてことのないことだとでも言うように、淡々と答える。


「しない」


「していない」ではなく、「しない」――。冨由馬は感情のない声でそう答えた。


 冨由馬がそう答えたことの意味がわからないほど、夏生はにぶくない。


「最低だ」


 それだけ言い捨てて、夏生はベッドの中に潜り込んだ。掛け布団を頭まで被り、きつく目を閉じる。早く寝てしまいたい。眠りの底に落ちて、平穏を得たい。それだけが今の夏生の望みであった。


「もう寝るのか?」


 冨由馬のその声には、奇妙な優しさがあった。それを敏感に感じ取ってしまう自分に、夏生は嫌気が差す。


「寝る」

「そうか。おやすみ」

「……おやすみ」


 先ほどのやり取りなどなかったかのような会話に、夏生はまた心がささくれだつのを感じた。


「……そういう律儀なとこがバカだよな」


 冨由馬のつぶやきは、夏生の耳には届かなかった。

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