(12)
冨由馬にとって、夏生は奴隷も同然である。
そんなふたりの出会いは彼らが五つのときまでさかのぼる。冨由馬の母親が経営する病院が主催するガーデンパーティーの場で、ふたりは出会った。
「夏生くんは冨由馬と同じ年なのね。それじゃあ小学校も同じかしら?」
品の良い顔でそんなことを話す母親を、五歳にして冨由馬は冷静に見ていた。
五歳のときにはすでに冨由馬は周囲の同年代の子供たちとは一線を画す存在だった。神童、ともてはやされたこともあるが、それらの言葉が冨由馬の心を動かすことはなかった。
どうしてそんな風に自身が成長したのか、冨由馬にはわからない。それらしい理由ならいくらでも見つけられる。幼少期からの親の不在、愛情の不足、それでいて金銭的には際限なく甘やかされる――。けれどもそのいずれも、決定的な理由ではないこともまた承知していた。
夏生がガーデンパーティーに連れて来られたのは、ひとえに母親が看護師の職に就いていたからだ。彼女は第一子の出産に伴って一度別の病院を退職しており、第二子である夏生が五歳になったのを期に、冨由馬の母親の病院へ再就職したのであった。
このときには当然夏生の兄も連れて来られていたはずだが、冨由馬の記憶の中では影が薄い。
このころの冨由馬は同年代の少年たちより、年上と話すことを好んでいたから、きっと会話はあったのだろうがよくは覚えていなかった。
そして同年代の少年たちと遊ばない冨由馬のことを、母親は心配していた。それは冨由馬のことを思ってというよりも、対面を慮ってのことだった。同年代の人間との接触に困らない中で、年下や年上としか交流を持てない人間には少なからず問題があるというのは、まま聞かれる論調である。
特に冨由馬の母親は医師という一般的に社会的地位の高い職についている。だからなおさら、冨由馬のそういう面には気を配っていた。
冨由馬には反抗するという選択肢もあった。親に反抗して、めちゃくちゃにしてやれば良かった。
けれども彼はそうしなかった。親に唯々諾々と従って、彼らの欲する「良い子」を演じた。反抗する手間よりも、冨由馬は「良い子」を演じる手間を取ったのである。
それに嫌気が差すことなく続けられたのは、夏生の存在が大きい。
冨由馬は夏生と出会って初めて、他人に自分の本性をさらけ出し、意のままに操る喜びを知った。
出会った当初から、大人しい夏生は冨由馬の言われるがままであった。絵を破り捨てても泣くだけで大人に言いつけることすら出来ない。そのくせ冨由馬が心にもない言葉で謝って褒めてやれば、額面通りに受け取って喜ぶ。夏生のそういう姿を見て、冨由馬はえも言われぬ感情を覚えた。成長した今ならそれがなんなのか、明確に理解できる。性的興奮だ。
けれども冨由馬はその嗜好を夏生以外には向ける気にはならなかった。夏生以外に本性を見せるにはリスクがある。対する夏生は親から冨由馬との付き合いを望まれていることもあって、彼から逃げられない。夏生は冨由馬の良いおもちゃだった。
冨由馬はそんな夏生を手放したくない。けれども話は単純なものではなかった。冨由馬は夏生との交わりの中で、彼を見下しながらも、同時に愛着を持つようになっていたのだ。そしてそれはおぼろげながら恋という形を取り、冨由馬を悩ませた。
同性愛を差別してはいけないというのは、しょせん未だ体面的なものに過ぎない。同性愛者に対する差別が未だ根強く残っている中で、冨由馬が夏生にそういう感情を抱いていると知られるのは、ほとんど破滅を意味していた。知られた瞬間、冨由馬は「良い子」ではなくなる。今まで築き上げてきたもののすべてがなくなる。
特に冨由馬の両親は決してそんな感情を許さないに違いなかった。今までのように、表では寛容に受け入れたように見せかけるだけだ。
だから冨由馬はひとり悶々と過ごすしかなかった。いつか夏生がだれかに奪われる未来を、ただ指をくわえて見ているしかないのだ。
「だから、さあ。キープしようよ。私は江ノ木くんと付き合って、柊くんはアキラちゃんと付き合うの。そうすれば私たち以外の人間には奪われない。――簡単でしょう?」
だから、つばきの提案には目の覚める思いだった。そうか、そうすればいいのか――と。
つばきを完全に信用していたわけではないが、けれども自身と同じ
けれどもやはり冨由馬は耐えられなかった。見せかけとはいえ夏生が自分以外の
それは前原が夏生に好意を告げたことで、一度頂点を迎えたのである。
――夏生はきっと初めてだろう。
そう考えると、乾いた心に水が滲みて行くような充足感を覚えた。
そしてもっと欲しいと、冨由馬は思ったのである。
「こうやってさーおばあちゃんになってからもまた来たいよね~」
他愛ない会話に恋心を隠してアキラに話しかけるつばきを見ながら、冨由馬はちらりと横に立つ夏生を見やった。ふたりのあいだに流れる空気は昨日より明らかによどんでいる。
アキラもそれに気づいているのが、何度も心配そうなまなざしをこちらへと向けてくる。冨由馬はそれが、鬱陶しくて仕方がなかった。
昨日集めた資料を補う形で寺社を回ったあとは、土産物を選ぶために観光客向けの店舗が並ぶ通りへと四人はやって来ていた。明日も自由時間はあるが、ごく短いものであるから、生徒のほとんどは二日目に土産物を買い込むのである。
例によってアキラはつばきが確保していて離さない。冨由馬としてはそちらのほうが楽で良かった。つばきとしても本命のアキラと過ごせるほうがうれしいだろう。
「夏生」
白い息を吐き、冨由馬はマフラーで口元を隠した夏生に声をかける。夏生は緩慢な動作で冨由馬を見上げると、「なに?」とぶっきらぼうに問うた。明らかに夏生は機嫌を損ねている。そうしたのが己だと思うと、冨由馬はまた背筋を快感が駆け上っていくのを感じるのである。
「ちょっと来い」
「は?! ばっ……新治さんと久木さんは?!」
夏生の腕をつかんで無理やり店から出る。夏生は冨由馬の手をほどこうとするが、力の差は歴然としていた。なにせ夏生は運動はからっきしなのである。勉強どころかスポーツも抜け目なくできる冨由馬が相手では、彼に勝ち目はない。
「ごめん、ちょっと夏生と話があるから」
主につばきに向かってそう言えば、彼女はいつもの無邪気な顔で「わかった~」と答える。「ゆっくりね」とも。つばきにはどうもお見通しのようだ。しかし、今は嫌な感じはしない。
「とうとう仲直りする気になったのかなー?」
「仲直りできるといいね……」
すっとぼけたつばきの声と、それにすっかり騙されているアキラの会話が背にかかる。
けれども今の冨由馬の頭を支配しているのは、夏生の存在だけであった。
「なんなんだよ、お前……」
近くにある公園まで夏生を引きずって連れて来た冨由馬は、そこでやっと彼の腕を解放した。夏生はこれ見よがしに腕を撫で、抗議の眼差しを冨由馬へと送る。けれども冨由馬からすればそんな視線は痛くも痒くもない。それは夏生にもよくわかっていることだろう。それでも彼は自身が気を損ねているというポーズを取らずにはおれないのである。
それは愚かだと思うし、同時にひどく愛らしいと、冨由馬は思った。
「昨日も今日も……文化祭のときだって。……いい加減にしろよな」
夏生の声は震えていた。怒っている。けれども、それだけではないことを冨由馬は見透かしていた。その証左とでも言うように、夏生の瞳がみるみるうちに濡れて行く。
「なんなんだよ……僕をからかって面白いか?」
「……ああ、面白いな」
「……最低だ」
夏生のまなじりから、ぽろりと涙がひとしずく落ちる。
「最低だ」
「……お前が俺のことを好きなのを認めないから悪い」
「――はあ?」
素っ頓狂な声を出し、夏生は冨由馬を凝視する。目も鼻先も赤くなっているのを見て、冨由馬は吹き出した。
「はあ? は? なに笑ってるんだよ?!」
「いや、だって目も鼻も赤くなってるし。……不細工だな」
「い、今はそんな話してなかっただろ!」
「ああ、お前が悪いって話をしてたな」
「――だからっ、なんなんだよそれ?!」
眼鏡を外して夏生はコートの袖で目じりを乱暴にぬぐう。
「あんまりこすると目の周りが赤くなるぞ」
「うるさい。……だから、なんで俺が悪いんだよ? どう考えたって悪いのは冨由馬だろ?!」
憤る夏生に、冨由馬はいつものにやにやとした笑みを浮かべたまま、しごく普通のことのように言う。
「だってお前、俺のこと好きなくせに他の女と付き合うわ、キスひとつで騒ぐわ……いい加減ハッキリさせたかったんだよ」
「だから、前提条件がおかしいんだって! 僕がお前を好き? そんなことあるわけないだろ!」
「嘘つけよ。じゃあなんでお前新治のこと好きになれなかったんだ?」
冨由馬の言葉に夏生はあからさまに動揺した。客観的に聞けば、冨由馬の言葉はなんら致命的なものではない。けれども夏生にとってはそれに等しい威力を持つ言葉であったのだ。
「新治は優しかっただろ? おまけに顔もいいし胸もでかい。まあ、表向きは嫌になる要素はないな。完璧すぎるのが嫌になるくらいか? ――でも、お前は一度たりとも新治のことを好きにはならなかっただろ?」
「……それは、そうだけど。でも、これから好きになるかもしれないし――」
「それはないな」
「なんでだよ」
「さっき言ったじゃねえか。お前は俺を好きだから、新治を好きになれなかったんだよ」
「……僕はホモじゃない」
「ああ、そうかもな。けどじゃあ、なんでお前は俺から離れないんだ? 俺はお前には優しくないよな。なのになんで離れない?」
「親の目ってのが、あるんだよ」
苦虫を噛み潰したような顔をして、夏生は言う。
「じゃあ、なんでキスのこと今さら聞いたんだ?」
「はっきりさせたかっただけだ。あのままじゃ、ずっともやもやしたままだから……」
「忘れちまえば良かったじゃねえか。気のせいってことにすりゃ良かったんだ」
「だから、ハッキリさせたかったって言ってるだろ」
「俺がお前を好きだって? だからキスをしたって?」
夏生は口つぐみ、黙り込んだ。
そんな夏生の前に冨由馬は立つ。そして口角を上げて夏生を見下ろした。
「お前、顔真っ赤」
冨由馬の言葉に、今度こそ耳まで赤くした夏生は、またまなじりから涙をぽろりとこぼした。
「嫌じゃないなら、泣くな」
「嫌に、決まってるだろ……」
「なんで?」
「ホモじゃないから」
「他の男を好きにならないなら同性愛者じゃないらしいぞ」
「男ひとり好きになった時点で、世間じゃホモなんだよ」
「……それが嫌なのか?」
夏生にかけた冨由馬の言葉は、先ほどまでの嘲笑も挑発もない、優しいものだった。
夏生はややあってから、こくりとうなずいた。その瞳からは、絶え間なく涙がこぼれ落ち始めていた。
「だって、お前、男だから……男なんて好きになったら、どうすりゃいいんだよ……。だって、兄貴はもう家にいないんだから……僕は、僕は
「……バカじゃねーの。お前の人生、親のものなのかよ」
「でもさ、育ててもらった恩とか、あるだろ」
「恩を要求する親とかろくなもんじゃねえよ」
「でも」
「バカ。お前はバカなんだから俺の言うこと聞いてりゃいいんだよ。親の言うことなんて聞くな。俺だけを見ろ。親なんて先にいなくなる。だから俺を選べ」
夏生の手の甲に、冨由馬の手が被さる。指がからまり、痛いほどに夏生の手を締めつけた。
「俺のこと好きって言え。そうしたらずっと俺のものにしてやる」
「……最低だ。そんな告白、あるかよ」
「で?」
「最低だけど――」
夏生の最後のひとことは、冨由馬の耳にだけ届いた。
「あ、おかえりー」
アキラのスマートフォンにメッセージが届いたのは五分ほど前のことである。ふたりは消えた冨由馬と夏生のことは置いておいて、いっしょにスイーツめぐりをしているところであった。そこでちょうど入ったばかりの店で冨由馬と夏生を待つことにしたのである。
店に現れたふたりを見て、アキラはちょっと固まった。なぜか冨由馬が夏生の手を引いていたのである。けれども凝視するようなアキラの目にさらされても、ふたりは顔色ひとつ変えない。
よくよく見れば夏生の目は赤かった。恐らく泣いたのだろう。
手を引いているのもきっと幼馴染だからで、泣いたあとがあるのはきっと仲直りが出来たから。
アキラはそう思おうとした。けれども喉に引っかかって、上手く飲み込めない。形容しがたい違和感が、アキラの理解を阻害していた。
「仲直りしたんだ?」
抹茶パフェの白玉をスプーンですくいながら、つばきが率直に言う。あわてたのはアキラだけで、冨由馬はちらりと夏生を見るだけだ。そして当の夏生は、
「うん、ごめん」
と簡潔に謝罪するのみである。
アキラはなにかを問いたかった。けれどもなにを問いたいのか、どう問いかければいいのか、雲をもつかむような感覚で、はっきりとしない。
そうこうしているあいだに、夏生はつばきの横に、冨由馬はアキラの隣に腰を落ち着ける。
「ごめんねアキラさん。しばらく放っておいちゃって……」
「え? いいよいいよ、話すことがあったんでしょ? ……上手く行った?」
「おかげさまで」
そう言った冨由馬の顔はほがらかで、後ろめたさを読み取ることは出来なかった。
「じゃ、仲直り記念にスイーツはいかが~?」
「いや……僕あんまり甘いの得意じゃないし……」
「俺も遠慮しておこうかな」
「ちょっとーふたりともノリわる~い!」
つばきの明るい声が響く中、アキラは釈然としない思いを抱えたまま、しかしそれを言葉にすることも叶わず、パフェをすくって口の中に放り込んだ。舌の上で甘く溶ける抹茶クリームは、あとにかすかな苦味を残し、溶けて消えた。
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