(10)
「バッカじゃないの」
電話口に心底軽蔑しきった言葉をかけられ、冨由馬はむっとした。
「はー、それでアキラちゃんに見られるとか……ほんとバカ」
文化祭が終わり今日は振り替え休日の月曜日であった。生徒たちはそれぞれ休日を謳歌しているか、あるいは遊びに出かけていることだろう。そんな中にあって、冨由馬は好ましからざるつばきと朝っぱらから電話をしている。
すべての元凶は冨由馬ではあるが、それを彼は認めはしても決して口に出しはしないだろう。冨由馬はそういう人間なのだ。
そんな冨由馬からつばきに電話をするのは珍しいことだった。この時点で彼からの着信を受け取ったつばきは、のっぴきならないことが起こったのであろうことを直感した。この異常にプライドの高い男から電話をして来るのだ。ろくでもないことに違いない。
果たしてその直感は当たった。
冨由馬は夏生にキスをした。そこは別にいい。最初からそういう約束なのだから。それをだれかに見られたってつばきには関係ない。それで冨由馬がゲイだのなんだのと疑惑をかけられたって、つばきはどうとも思わない。
しかし冨由馬はその場面をこともあろうにアキラに目撃されたと言うのだ。
だがつばきはアキラからそのような相談は受けてない。
「ねえー見られてないとかないのー?」
「あれは絶対見てたな」
「自信満々に言わないでよ~サイアクー」
先に述べたように別につばきは冨由馬と夏生がくっつくのはどうでもいいのだ。問題はアキラのことである。
「見られてもいいけどーもうちょっと盛り上げてから落としてよ~。でなきゃアキラちゃんばっきり折れないじゃん!」
「つーかもうめんどくせえ」
「はー? まだ降りるとか許さないんだけど」
「わかってる。……けどこれ来年まで続けるのは無理」
心底嫌そうな冨由馬の声を聞き、つばきもこれ以上引っ張るのは無理かと判断する。
つばきとていつまでも夏生と付き合って行くつもりはない。本命はアキラのほうなのだ。本音を言えば今すぐにでも夏生を捨ててアキラを
「しょうがないなー。じゃあクリスマスまでにどうにかしてよ」
それがつばきの最大限の譲歩だった。それを冨由馬もわかっているのか、それ以上なにも言わなかった。
つばきにとってアキラはどうしても手放したくない相手だった。できることなら、一生そばに置いておきたい。そんな相手が久木アキラなのである。
アキラはつばきと仲良くなったきっかけについてなにも疑問を抱いていないらしい。しつこい男を普段は使わない口調で手ひどく振ってやったとき、なにせアキラはそれをつばきの演技だと思ったのだ。
それに気づいたとき、つばきはアキラのことをバカだと思った。つばきが猫を被っていることなど微塵も考えはしない、底なしのバカ。女であれば真っ先にその可能性を思いついてもおかしくはないだろうに。
そういうわけでつばきは最初はアキラのことを心底バカにしきっていた。それにちょうどいいと思ったのだ。自分の可愛さを際立たせるには一段以上低い人間を周囲に置いておいたほうが良い。けれど不細工すぎる人間は御免だ。そういう点で、アキラはちょうど良かった。
日に焼けた健康的な肌をした十人並みの容姿のバカな女は、つばきにとって都合の良い存在でしかなかった。
けれどその認識以外に、別の感情が加わってしまったことを、ある日突然つばきは知ってしまった。
「そう言えばさー
放課後の教室に残ってお菓子を広げてだらだらとおしゃべりをしていたとき、不意に友人――つばきはまったくそうは思っていない――がそんなことを言い出した。つばきはその言葉の端から、嘲笑の色を鋭く感じ取った。
にぶいふりをしているが、その実つばきは他人の感情に敏感だ。バカなフリをしてにこにこ笑っているだけで、相手は油断して色々なことをしゃべってくれる。そうして得た情報を、いつだってつばきは上手く使って生きて来た。
だからこのときもつばきは軽い女のフリをして返してやった。
「ええ~ホントー?」
「マジで? ヤバくない?」
「いやいやマジだって。あたし聞いちゃったもん」
「へーアキラにねー」
「どこに惚れたんだろ。アキラってブスじゃん」
「うわ、それ言っちゃう?」
上がった嘲笑の渦の中で、つばきは胃の腑がむかむかとしている自分に気づき、動揺した。
――アンタたちのほうが一〇〇倍はブスだよ。
思わずそう言ってやりたいとさえ思うにいたり、察しの良いつばきは気づいてしまったのだ。自分にとってアキラがどれほど大きな存在になっていたのか。
そして彼女に対する途方もない独占欲と、執着心。それらふたつがないまぜになり、つばきの中で醸成された結果、それはいびつな恋心となった。
アキラを自分のものにしたい。
彼女をそばに置いておきたい。
そして彼女を心の底でバカにして、それから惜しみなく愛してやりたい。
それは他人を常に有象無象の存在としか認識して来なかったつばきにとって、ほとんど革命的と言って良い感情であった。
「だいじょうぶだよアキラちゃん」
つばきはラックに飾ってある香水瓶をひとつ手に取る。それは誕生日にアキラに送ったものと同じ品であった。
そうして香水瓶の腹へ、つばきはうやうやしく唇を落とした。
「アキラちゃんがどれだけ傷ついたって……わたしが癒してあげるからね」
陶然としたつばきの表情は、筆舌に尽くしがたいほどに、美しかった。
*
月初めに行われた秋季記録会でのアキラの成績は散々なものであった。先輩やコーチからは叱責されるどころか、逆に心配される始末である。それほどまでに、アキラの状態はひどいものだったのだ。
どうしたのかと口々に気にする部活仲間を振り払って、アキラは逃げるように部室を飛び出した。
橙と紫紺がグラデーションを描く空には、早くも星が瞬き始めている。夜の帳が降りるのはすぐだろう。日が暮れるのもずいぶんと早くなった。
秋の訪れを感じさせる冷え冷えとした風が、ハーフパンツから伸びる素足のあいだを吹きぬけて行く。
「さむ……」
ジャージのファスナーを一番上まで上げ、襟を立てる。顔の半分が隠れたことで、アキラはなんとなくホッとした。
不調の原因はわかっていた。冨由馬だ。
先月行われた文化祭で二年三組は出し物として演劇をやった。それ自体は成功のうちに終わった。ただ、劇が始まる前に見たもののことをどう消化すればいいのか、未だアキラはわからないままだ。
ジャージの襟の上から、唇に触れる。
文化祭実行委員の前原を捜しに出た冨由馬が戻って来ないと聞いたとき、アキラは真っ先に彼を捜しに出かけた。朝から劇の準備で忙しく、まともに顔を合わせていなかったので、そのときのアキラは冨由馬に会いたくて仕方がなかった。
見つけたら、帰り道で劇が終わったらどうするか話そう。そう思いながら二年三組の教室を通りかかったアキラは、スライドドアに設けられた小さな窓から目ざとく冨由馬の姿を認めた。
そうしていつもの調子で声をかけようとしたとき、アキラは目を疑った。
冨由馬と夏生が顔を寄せ合って――まるでキスをしているような格好をしていたのだ。
「でも……」
――でも、わたしが声をかけたときはふつうだった。
そう、アキラが思い切ってスライドドアを開けて声をかけたとき、冨由馬はいたっていつも通りであった。横にいる夏生も同様だ。いつも通り、むっつりと不機嫌そうにも見える仏頂面のまま、冨由馬のあとについて教室を出た。
キスをしていたところを見られたかもしれない、という状況であそこまで平静を保っていられるのだろうか? アキラにはわからなかった。自分だったらあわててしまうだろうけれど、他のひとはどうなのかまではわからない。
――つばきならわかるのかな?
アキラよりずっと女の子らしくて、惚れたはれたに通じている彼女ならば、アキラの疑念を氷解させることができるのかもしれない。
けれどアキラはつばきには文化祭の日にあったことを言っていなかった。あなたの恋人とわたしの恋人がキスしてるように見えたんだけれどどう思う? ――などとは、奥手なアキラにはとても聞けそうになかった。
気のせいだと言ってしまうのは簡単だ。見間違いだと思ったほうが楽だ。けれども一度胸中に芽吹いた違和感はなかなか消せそうになかった。
「久木さん?」
だから冨由馬から電話がかかってきたとき、アキラはなにを言われるのか気が気ではなかった。けれども電話の内容は今度の部活休みにデートに行かないかという、至極恋人らしい、他愛のないものであった。
いつも通りの冨由馬の声を聞いてアキラは安堵した。やはり、あれは見間違いだったに違いない。いや、きっとそうだ。
そうでなければ今、アキラの横でごくふつうに笑っていられるはずがない。
「久木さん? さっきから上の空だけど、だいじょうぶ?」
冨由馬はアキラの顔を覗き込み心配そうな顔をする。急に冨由馬の顔が視界に入って来たことで、アキラは思わず赤面した。そしてあわてて手のひらを左右に振る。
「え? え?! あ、うんうん、だいじょうぶ。ごめんごめん、ちょっとぼーっとしてた」
「体調悪いのかと思っちゃったよ。あ、でも人酔いしたらすぐに言ってね」
ふたりは電車を乗り継ぎ、隣の市にある水族館へと来ていた。今は入場口から入ってすぐにある大水槽の前だ。分厚いアクリルガラスの向こう側ではサメやエイといった巨体を持つ魚が悠然と水中を泳いでいる。日曜日ということもあって、周囲には家族連れやカップルであふれ返っていた。
「あーたぶんそういうのはだいじょうぶ。わたし体が丈夫なのが自慢だし」
言ってしまってから「女子力低すぎない?」と心の中で叫んでしまうが、口から出た言葉は戻せない。
けれども冨由馬は変わらず「でも体調悪くなったら言ってね」と優しく笑んでくれる。アキラはその微笑に思わず見とれてしまう。そうして無意識のうちに目が向くのは冨由馬の唇だった。
「あの、さ」
「どうしたの?」
「あの……な、名前で呼んでいい?! 下の……名前で」
アキラは魔法にかけられたように、じっと冨由馬の目を見つめる。無言の時間が無限のように感ぜられた。けれども実際はほんの一分にも満たない時間であったのだが。
ややあってから冨由馬が口を開く。
「いいよ。――アキラさん」
その甘美な響きに、アキラは舞い上がらんばかりだ。今この場で転げ回りたいほどにうれしい。頭が熱くなり、脳みそがふわふわと飛んで行ってしまいそうだった。
「ふ、ゆまくん」
「なに?」
「うん……ありがと」
「どういたしまして」
ごく自然に冨由馬の左手がアキラの右手を取ったので、アキラはしばらく彼と手を繋いだという事実に気がつかなかった。
気がついたあとはもう大変だ。顔は熱くて仕方がないし、手汗が気になって仕方がない。恋人らしい行為のひとつひとつに、アキラの心臓は大忙しであった。
きっと気のせいだったんだ、とアキラは思う。冨由馬はいつも通り。気にしているのはアキラだけ。それなら、あれはきっと見間違いだった。アキラはそう結論付けようとした。
「あーアキラちゃんだ~」
良く知った声に振り向けば、ちょうど大水槽のあるエントランスホールへと入って来たばかりのつばきがいた。そして当然のようにその一歩うしろには夏生がいる。
――邪魔しに来たの?
真っ白になったアキラの頭の中にそんな言葉が浮かんだ。だが我に返ってあわててその言葉を打ち消そうとする。
――邪魔? そんなわけない。
そんなわけないと思おうとしても、アキラの目は夏生を追う。いつもと変わらない、感情をうかがわせない顔をしている。それは眼鏡をかけているせいでもあるかもしれない。しかしそれを差し引いても、やはり夏生は表情の起伏に乏しかった。
「あれ? 夏生たちもデート?」
「そうそう! 私から江ノ木くん誘ったんだ~。でもせっかく初めてふたりきりのデートなのに会っちゃうなんてねー」
「まあ、デートスポットだからな」
「あ、江ノ木くん私が単純だって言うのかな~?」
「いや、そうじゃないけど……」
三人の会話の外で、あいまいな笑みを浮かべながらもアキラは気が気ではなかった。冨由馬とのせっかくのふたりきりのデートを邪魔されたくなかった。
今までは四人でいることを嫌だと思わなかったアキラは、この日初めてつばきと夏生の存在を疎ましく思った。
「私たちはこれからペンギンのおさんぽ見に行くんだけど、ふたりも行かない?」
「いや、俺たちはゆっくりして行くよ」
「そっかー。じゃーまた会えたらよろしくね! 江ノ木くん早く行こっ」
「ああ。じゃあ、冨由馬、久木さん」
嵐のようにつばきたちが去った背を見送り、アキラは心のうちで安堵した。
「それじゃ、俺たちも行こうか。アキラさん」
冨由馬に声をかけられ、アキラはやっと笑うことができた。
初めてのふたりきりのデートは至極順調であった。恋人として一歩次に進めたという実感も得られた。しかし浮き上がる気持ちの底に、針山があるような焦燥感をアキラは覚えずにはおれなかった。
結局、冨由馬に文化祭のときを聞くことはできないまま、アキラは冨由馬とのデートを終えることになる。
きっとあれは見間違いだと、気のせいだからだいじょうぶだと、自分に言い聞かせて。
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