(9)

「私さ、江ノ木くんのこと好きだったんだよ」


 小道具係が教室に道具を置き忘れたという話を聞き、実行委員の前原と共に取りに戻った夏生は、不意にそんな言葉をかけられて固まった。前原に同行したのはこの日の日直が夏生だったからである。前にもこんなことがあったな、とどこか他人ごとのように思いながら、夏生はぼんやりと前原を見る。


「そうなんだ」


 かろうじてそれだけ言うことができた。


 二年三組の教室は静まり返っている。ただ、隣の四組の教室は模擬店をしているから、壁を通して文化祭特有の喧騒が伝わって来る。四組の模擬店は繁盛しているようだ。


 日は過ぎて今日は文化祭当日。夏生の高校の文化祭は休日の一日だけである。だからこの日に保護者から他校生などの外部の人間まで、いっしょくたになってやって来る。そういうわけで今は学校全体が騒がしい嵐の中にいるような状態であった。


 けれども夏生は、奇妙な沈黙の中で小道具係が忘れた一〇〇円ショップで買ったリンゴの模造品を捜していた。


「あ、あった」

「ほんと? よかった」


 夏生が声を出すと前原が顔を上げて安堵の表情を見せる。リンゴは紙くずを無造作に突っ込んだダンボールの上にあった。なんでこんなところに、と夏生は思う。キャッチボールでもしていたんだろうか? しかし真相はわからない。


「あのね」

「うん?」

「さっきの、気にしないで。ただ……私が言いたかっただけだから。ひどいけど」


 夏生はリンゴを片手に前原を見た。黒髪をボブカットにした、大人しそうな少女である。鼻の上には薄くそばかすが散っていた。つばきとはその容姿を比べるべくもない。けれど、夏生は今の前原をつばきを見るように見ていた。


 愛着のようなものは薄っすらとある。それは言いかえれば連帯感というものかも知れない。だが、そこには恋情だとか、ときめきだとかは存在しない。まったくの赤の他人というほどの冷たさもないが、しかし知人以上の親しさもない。


 それはつまり、どうでもいい人間だと言うことだ。


「気にしないで。そうしたいことも、あると思う」

「ありがとう。……新治さんと仲良くね」


 前原からつばきの名が出たことに、夏生はおどろいた。彼女と付き合っていることを知っているのは、幼馴染の冨由馬と、つばきの親友であるアキラのふたりだけのはずだ。


 なぜ恋人同士であることを公表しないのかと言われれば、夏生からは「なんとなく」としか言いようがなかった。もっともらしい理由ならいくらでもでっち上げられる。「恥ずかしいから」「他人の目から見たら釣り合わないし」「つばきは人気者だから恨まれたくない」。……けれど、たしかにそれぞれの中に夏生の気持ちのかけらはあっても、いずれの中にも真実は存在しない。


「知ってたんだ」


 平静を装って夏生は前原に問うた。なぜか心臓が早鐘を打ち始める。バレたくなかったと、なぜか夏生の心は強く、そう思っていた。


「うん。……江ノ木くんのこと見てたから」

「そっか」

「あ、だいじょうぶ。だれにも言ってないから」

「そっか……」


 ふたたび、ふたりを奇妙な沈黙が包む。


 ――そうだ、体育館に戻らないと。


 黒板の上にかけられた時計を見やる。二年三組の出し物まではまだ三〇分以上時間があった。けれど舞台裏にはもうクラスメイトたちが集まり始めている頃合いだろう。


 夏生は前原の名を呼ぼうとした。


「前原さん、ここにいたんだ」


 教室のスライドドアが控えめに開けられ、そのあいだから冨由馬がひょいと顔を出す。首から上はいつも通り、惚れ惚れするような整った顔立ちである。そしてそれより下ははっきりとした配色のきらびやかな衣装をまとっている。けれども決して衣装負けはしていない。それどころか彼のためにあつらえられたように、衣装はぴたりと冨由馬に似合っていた。


「皆本が捜してたよ」

「え?! ご、ごめん。ありがとう柊くん。すぐ行くね。それじゃ江ノ木くんまたあとで」

「あ……」


 夏生はリンゴを前原に渡そうとした。しかし彼女の頭からはすっかりそのことは抜け落ちてしまっていたらしい。振り向くことなく足早に教室をあとにして、その背はあっという間にひとの波へと飲み込まれてしまった。


「リンゴ……」

「とろいから」


 名残惜しげに教室の前で夏生がそうつぶやけば、うしろから冨由馬の嘲笑がかかる。夏生が振り返れば、例の柔和な笑みを浮かべて冨由馬が手招きをしている。抗うすべのない夏生は、しぶしぶ教室に舞い戻る。恐らくはなにか言いたいことがあるのだろうと、開きっぱなしのスライドドアを後ろ手で閉めた。


「なに?」

「前原となに話してた?」


 冨由馬はにやにやと笑っている。そこで初めて夏生は彼がいつから教室の外にいたのかを考えた。冨由馬は夏生と前原の会話の内容を盗み聞きしたに違いない。でなければこんな意地の悪い笑みを浮かべる理由がないだろう。


 夏生は心の中でそっとため息をつく。


「聞いてたんだろ」

「だったら?」

「だったら僕がわざわざ言うことはない」


 いつもの調子で返した夏生はしかし、冨由馬の顔を見て固まった。そこに、いつもの余裕しゃくしゃくとした姿はなく、じっとねめつけるような目をして冨由馬は夏生を見据えていた。夏生はそんな冨由馬を見て――怖いと思った。


 なにが彼の癇にさわったのかはわからない。けれども現実に冨由馬は明らかに機嫌を損ねていた。こういうことはめったにない。だから、夏生はどうすればいいのかわからず、立ちつくすよりほかなかった。


「俺が新治に言うって言ったらどうする?」


 質問の意図が理解できず、夏生は困惑した。


「……やめろよ。僕が困る」

「嘘つけ。言われたって、お前、困らねえだろ」

「困るよ」

「だってお前、別に新治のこと好きじゃないんだろ」


 夏生は反論できなかった。


 いつかの夏祭りのとき、アキラに言った通り、夏生はつばきのことを好きかどうかはわからなかった。嫌いではないのはたしかだ。少なくとも、夏生がつばきを嫌う要素はない。美貌は言うまでもなく、性格も好ましい。きっと、ふつうだったらあっという間に好きになってしまったに違いない。


 そう、ふつうだったら。


「……そんなわけないだろ。付き合ってるのに」


 苦し紛れにそんな言葉を吐いたが、そこにある空虚な響きは冨由馬にはお見通しのようだ。


「嘘ばっかりだな」

「……なんで怒ってるんだよ」

「自分で考えたら?」

「――新治さんのことが……好きだから?」


 夏生の言葉に冨由馬は鼻で笑った。さすがにむっとした夏生だったが、冨由馬が大股でこちらへと向かって来るのを見て、反射的に目をつむってしまった。別に冨由馬から暴力を振るわれたことはない。それは冨由馬が夏生には優しいから……というわけではなく、単に証拠となるようなものを残したくないから、であることは考えるまでもない。


 けれど冨由馬の気配はちょうど前で止まったまま、動かない。恐る恐るまぶたを開ければ、鼻と鼻が触れそうなほど近くに冨由馬の顔があった。


「――な」


 夏生はなにか言おうとした。「なんでそんな近くに」とか、そういうことを言おうとした。けれどその言葉はおどろきで引っ込んだまま、二度と出て来ることはなかった。


 冨由馬の唇が、夏生の薄い唇に触れた。


 それはほんの一瞬の出来事だった。


「……あ」


 喉から気の抜けた音が出る。手にしていた模造品のリンゴは、いつの間にか夏生の足元に転がり落ちていた。


 夏生は冨由馬を見る。その顔がいつ悪戯っぽく、嘲笑に満ちた表情へと変わるのか、見つめた。


 けれどもそんな瞬間は訪れはしなかった。ただどこまでも冷え冷えとしていて、それでいてどこか熱っぽくもある、相反する感情が渦巻く双眸が、まっすぐに夏生の姿を貫いていた。


 ふたりのあいだに言葉はなかった。


 その静寂を破ったのはまたしてもスライドドアの動く音であった。


「柊くんいたー! 皆本たちが捜してたよー。って、江ノ木くんもいっしょだったんだね」


 顔を出したのはアキラだった。走って来たらしく、その顔は薄っすらと紅潮している。


「ああ、ごめんごめん。ちょっと夏生と話し込んじゃってて。それじゃ、戻ろうか」


 冨由馬はいつも通りのあの笑顔を張りつけて夏生を振り返る。「そうだな」そんな冨由馬に夏生はそう返すしかなかった。


 床に落ちた模造品のリンゴを拾い上げる。つるりとした人工的な表面は、夏生の歪んだ姿を映し出していた。



 美形ふたりの組み合わせの劇は、オーソドックスながら外れなく盛況のうちに幕を閉じた。その後、夏生はつばきと模擬店を回ったのだが、そのあいだの記憶は曖昧だ。


 打ち上げで騒ぎたいクラスメイトの輪を抜けて、夏生は足早に自宅へと帰った。とかく追いかけて来る喧騒から、今は逃げたかった。


「僕はホモじゃない」


 ベッドに疲れ切った体を横たえて、夏生はだれに言うでもなくそうつぶやいた。


「いつもの趣味の悪い、いたずらだ」


 冨由馬の行動に深い意味なんてない。自分に言い聞かせるように、夏生はそうつぶやいた。


「僕はホモじゃない」


 ――そんなわけない。


 だから、すべては気のせいなのだと夏生は言い聞かせる。なぜかつばきを好きになれない理由も、性悪としか言いようのない冨由馬から離れられない理由も――。


 気のせいなのだ。


 ただの、気の迷いなのだ。


 だから、違う。


 違う。


「夏生ー、帰って来てたんなら言いなさいよー」


 ノックの音と共に扉越しに母親の声がかかる。


「ご飯いる?」

「いらない」

「そう。じゃあ早くお風呂に入っちゃいなさい」

「わかった」


 母親が扉の前から去る音を聞いて、夏生は体を起こした。


 夏生の両親からすると、彼は反抗期もなく、大人しく、成績の良い出来た息子だった。それは夏生も自覚していることだ。なぜなら夏生がそういう風に振る舞っているから、彼は自身の姿を正しく理解していた。


 夏生には四つ上の兄がいる。兄もかつては夏生と同じだった。親に反抗することもなく、従順で、頭の良い出来た息子だった。けれども兄はある日突然、大学を辞めてひとり暮らしを始めた。


「やりたいことがあるんだ」


 兄はそう言った。けれども夏生の両親はそんな兄を受け入れなかった。兄は夏生の前から姿を消し、代わりに両親は夏生に期待を寄せるようになった。


 だから夏生は己の欲望を出すことは許されない。そうすれば両親は悲しむだろうし、自己を主張するということは、すなわち両親から捨てられることを意味していた。


 だから夏生は絵を描くことを隠すようになった。


「もう絵は描かないの?」


 母親にそう問われたとき、夏生は恥ずかしそうな顔をしてこう言った。


「絵はもういいよ」


 嘘だった。絵を描くことをやめることなどできなかった。物心ついたころから絵を描いて来たのだ。それはそう簡単に捨てられるものではなかった。けれど、表向きは絵などもうやめたように振る舞った。


 両親は、夏生が冨由馬といることを喜んだ。冨由馬は言うまでもなく優等生で、成績はいつだって学年随一を誇っていた。そんな「良い子」である冨由馬といっしょにいれば「安心」だと、両親が思っていることを夏生は見透かしていた。


 ――そうだ、冨由馬といっしょにいるのは、そうしていれば両親が安心するから……。


 だから、離れられないのは自分のせいではないと夏生は自分に言い聞かせる。決して、それ以外の理由はないし、あってはならない。


「僕は……」


 湯船の中で足を腕の中に抱き込み、まぶたをきつく閉じた。


 今日のことは忘れてしまおう。そう決めて。

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