(2)

「よろしくね、江ノ木くん」

「あ、うん。よろしく……」


 油彩独特のにおいがする美術室で夏生はつばきと向かい合っていた。ふたりのあいだにはそれぞれキャンバスが一枚ずつ。クラスメイトの似顔絵を描くという課題のためであった。


 組む相手は自由という、友人の少ない夏生からすると悩ましい課題である――はずだった。それがどういう風の吹きまわしか、新治つばきが夏生に声をかけて来たのである。


 面食らった夏生が思わず「僕?」と首をかしげてしまったのも無理はない。ふたりは特別親しい間柄というわけではないし、なにしろつばきは夏生と違ってクラスの人気者だ。わざわざ自分から声をかけなくたって、組みたいと言ってくる相手などごまんといる。


「つばきーどうしたの?」


 困惑気な視線をつばきの友人たちからちょうだいした夏生は、反射的に目を伏せた。幼馴染の冨由馬と違って、夏生は目立つのは苦手である。特に異性から注目を浴びることは皆無と言って良かったから、ことさらであった。


「ほらあ、五人だからひとり余っちゃうじゃん? だからあとは四人で組んで」

「えー? 三人でやればいいじゃん」


 そうしたら夏生が余ってしまうわけだが、彼女らはそこまで考えが回らないのか、あるいは取るに足らないことと思っているかは定かではない。


 どちらにせよ、夏生からすれば女子のごたごたに巻き込まれるのは心底ごめんであったから、控えめにつばきに断りを入れようとした。


「あの……友達とやれば?」


 こういうとき、冨由馬と違ってつっけんどんな物言いしかできないのが夏生である。自覚はしていても、どうしようもない。とかく彼は異性とのやりとりが苦手であった。


 つばきの友人たちがちらりと夏生へ視線をやる。そこに非難の色があるのではないかと、夏生は被害妄想的に考えてしまう。実際にどうであるかは置いておいて、彼女らがよく知らない江ノ木夏生というクラスメイトを、いぶかしげに見ているのは間違いなかった。


「三人じゃ収まり悪いしー。じゃ、私は江ノ木くんと課題するから! またあとでねー」


 だがつばきは周囲の視線などなんのその。笑顔で友人たちに手を振るや、反論の暇も与えぬうちに夏生の手を取って美術室の奥へとイスを持って行ってしまった。――そうして場面は冒頭に戻る。


「私あんまり上手くないけど……ごめんね?」

「え? あ、いいよ、べつに。そういうの、気にしないから」


 内心で「もっと言い方があるだろう」と自身に腹立ちながらも夏生は鉛筆を動かす手を止めない。


 脳裏に蘇るのは小学校のいつだったか、ぶっきらぼうな物言いのせいで女子を泣かせてしまったときのことだ。例に漏れずクラスの女子たちから「ひどい」といっせいに非難を浴びたのは苦い思い出である。当然、それを収めたのは幼馴染の冨由馬だ。夏生の肩を持ちつつもスマートに事を収める姿に夏生は冨由馬への憧憬と嫉妬を募らせ、同時に異性に対する苦手意識をも強く持つようになったのである。


 そうしてちらりとキャンバスの向こう側に座るつばきを見る。いかにも「女の子」といった風貌のつばきに対して思ってしまうのは、泣かれたりしたら面倒だなという思いである。彼女がもし夏生を非難すれば、きっと小学生の時とは比べ物にならないほど責められるだろうことは火を見るよりも明らかである。


 なにせ、つばきは一等級の美少女なのだ。モデルになるにはいささか背が低すぎるが、決して手足のバランスは悪くなく、造りもののようにすらりとしている。ちょっとすれば暗い印象になりがちな黒髪であるが、つばきにはよく似合っていた。まるで深窓の令嬢のような雰囲気すらある。


 性格は夏生と違って社交的で、おっとりと優しい空気をまとっている。いつだったかクラスメイトのひとりがつばきを「ポンコツ美少女」と評していたが、印象とは対照的に成績は悪くない。


 そうなると本当につばきは非の打ちどころがなかった。明るく、友人も多く、勉強もできて、その上容姿に優れている。まるきり夏生の幼馴染である冨由馬を女にしたような感じであった。


 ――いや、違うか。


「わー江ノ木くんって絵が上手いんだね!」


 不意にかけられた言葉に夏生は肩を揺らす。


「あっ、ごめん、おどろかせちゃった?」

「あ、いや、僕が悪いから……」

「ごめんねー、でも本当に上手いね! びっくりしちゃった」


 お世辞でも褒められれば悪い気はしない。しかしいかんせん相手は異性。おまけにクラス一どころか、学校一と言ってもいいくらいの美少女である。突然降ってわいた交流に夏生はどんな態度を取ればいいのやら、皆目見当がつかなかった。とりあえずは口元にぎこちない笑みを浮かべて、せいいっぱいの愛想笑いをするばかりだ。


「そ、そんなことないと思うよ。美術部のひととかのほうが、もっと上手いと思うし……」

「江ノ木くんって美術部じゃないの? こんなに上手いなら入ればいいのに」

「いや……勉強で忙しいから……」

「そっかー。江ノ木くんって頭いいもんね。テストの上位者貼り出しでよく名前あるし」

「あ、いや……」


 つばきが意外にも自分の名前を知っていたという事実に、夏生は動揺した。誇張も謙遜もなく言って、夏生は勉強ができるほうである。ただ、いつも幼馴染の冨由馬には負けるから、なんとなくそういう意識は薄い。つばきに言われて久しく「そういえばテストの点数は良いのだ」と思い出す始末であった。


「ねえねえ、江ノ木くんってイラストとかは描ける? キャラクターものとか」

「えっと、まあ、それなりに……」


 夏生は実は絵を描くのが好きであった。特に好んで描くのは風景画であったが、いわゆるマンガ絵というやつも描けないことはない。だから正直にそれをつばきに伝えれば、彼女はぱっと顔を明るくさせる。


「じゃあ描き方教えて……くれたりしない?」


 わかってやっているのか、美少女に上目づかいに首を傾げられては、男としてはぐっとくるものがある。なにせ思春期ど真ん中の男子高校生なのだ。恋愛感情のあるなしに関わらず、やはり可愛い異性に頼まれては断りづらいものがあった。


「いいけど……課題は?」

「もう終わるよー。ほら。……どうどう?」


 そう言ってくるりと紙をめくってつばきは夏生の似顔絵を見せてくれる。想像していたよりはいくぶんかちゃんとしたものが現れ、なんとなく夏生はほっとした。絵の描き方を教えて欲しいと言うからまるきり描けないのかと思えば、そうでもないらしい。


 幸いにも授業が終わるまで時間はまだ余っていた。周囲を見やればちらほらと課題を終えたクラスメイトたちが、おのおのすでに休憩を取り始めている。


「えっと、キャラクター? を描きたいの?」

「うん。『まじろー』っていうキャラなんだけど……知ってる? こういうの」


 つばきはペンケースにぶら下げているキーホルダーを夏生に見せる。小さなフィギュアがついたそれは、夏生もよく見知ったものであった。


「ペットボトルのおまけについてたやつだよね」


 わざわざ言うことではない内容だと自分でもわかっていたが、それでも気がつけば口をすべらせていた。そこにはにわかに湧いた仲間意識から来る高揚があった。


「えー?! 知ってるの?!」


 それはつばきも同じだったのか、目を輝かせて夏生を見やる。


「そうそう。紅茶のおまけでついてたんだよねー。最近は見ないけど。これでハマちゃってさあ。でもこれどのキーホルダーか袋開けるまでわかんないからダブりまくって。で、それを姪っ子にあげたらずいぶん気に入ってくれたんだよねー。とりあえず機嫌の悪いときは『まじろー』のキャラもの見せたらいいってくらい。……でさあ、よく絵を描いてってせがまれるから『まじろー』も描けたらいいなーって思って」

「姪っ子いるんだ……」

「あー私お姉ちゃんと結構年離れてるんだよね」

「へー」


 言われてみればつばきにはなんとなく末っ子らしいというか、妹のような雰囲気はある。しかし姪っ子の面倒を見ているというのは夏生からすると意外に映った。それは教室ではいつも彼女は可愛がられたり、甘やかされたりする側だからかもしれない。だが年下に対しては存外面倒見がいいのかもしれないのだと思うと、夏生はなんだか新鮮な気分になった。


 そうして簡単ではあるが絵のレクチャーをしているあいだにも、ふたりから会話がなくなることはなかった。これはつばきが話上手の聞き上手ということもあったが、一番は多少なりとも夏生が彼女に心を開いたせいでもあった。可愛らしいキャラものが好きだと言っても、つばきがバカにしたりしなかったからだろう。夏生は単純にもつばきへの好感を深めていた。


 授業が終わるころにはつばきに請われメッセージアプリのIDを交換するまでに、ふたりは打ち解けていた。幼馴染の冨由馬とくらいしかこの手の連絡手段を使わない夏生からすれば、これは革命的と言っていい出来ごとである。


 しかし夏生はと言うと、授業が終わったあとはふと魔法が解けたように我に返り、少しだけ後悔した。どうしてうっかり「まじろー」が好きなどと、学校一の美少女に漏らしてしまったのか。絵を描くのが好きということも、夏生は周囲からひた隠しにしていた。それは夏生に勉強面の期待を寄せる両親から、この趣味を良く思われていないせいでもある。


 とかく自分の一番柔らかい部分をあまり親しくもない相手に晒してしまったことを、夏生は後悔した。つばきが悪意を持ってそれらを振りまく姿は想像しにくかったが、しかし無邪気に口を滑らせてしまいそうな雰囲気はある。


 そんな他人からすると取るに足らない事柄で、夏生はその後の一日を鬱々と過ごすハメになったのであった。


 そんな風に一日の出来ごとを思い返していたところに、夏生のスマートフォンが震えた。その音はまぎれもなくメッセージを受信したことを教える。冨由馬からかと思いながら緩慢な動作でスマートフォンを手に取ってアプリを立ち上げる。しかしメッセージは冨由馬からではなく、先ほどまで夏生の頭を支配していたつばきからであった。


 思わず勢い良く身を起こした夏生は、つばきからの「起きてる~?」という簡素なメッセージにどう返信するか悩んだ。そして結局「起きてる」と愛想のかけらもない返事になってしまうのは、さすがと言うべきか。


 それでもつばきは気にした風でもなく――といってもテキストメッセージから読み取れる部分などたかが知れているが――他愛のない会話が続く。


 それは夏生にとって初めての体験だった。冨由馬はであるから、やり取りは常に必要最低限な上、気づかいの欠片もない淡白なものばかりだ。


 そうであるからこうしてとめどなくテキストでの会話を続けていると、なんとなく「高校生らしいな」などと間の抜けたことを考えてしまう夏生であった。


 話題は課題のこともあったが、すぐに「まじろー」へと移る。


『そういえば江ノ木くんはあのおまけ最近見た??』

『最近は見てないな。期間終わったのかもね』

『あーやっぱり?? あつめてたのになー><』


 夏生は考え込んだ。実は「まじろー」のキーホルダーはだいぶ余らせていた。学校へ行く途中にあるコンビニで地道に買っていたのだから、当たり前と言えば当たり前だ。


「余ってるしあげようか」――。その文章を打ち込んだあと、「送信」のボタンの上で親指を揺らめかせる。しかし結局「もう少し親しくなれるかもしれない」「感謝されるかもしれない」という誘惑には抗えず、夏生はその文章を送った。


 つばきからの返事はすぐに送られて来る。


『ほんとう??? でもなんかわるいなー』

『余っててもしょうがないから、もらってくれるとうれしい』


 そのたった一文すらも夏生はだいぶ頭を悩ませた。常から愛想がないと言われているのだ。これでも夏生からすると十二分に気をつかった文章なのである。


 果たしてその思いは届いたのかどうなのか、つばきからは「ありがとう~>< じゃあ楽しみにしてるね♪」というメッセージが返って来たことで、夏生はひとまず胸を撫で下ろしたのであった。

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