(3)

 天気は快晴。初夏を控えた気持ちの良い青空が頭上に広がっている。しかし生徒たちは勝手なもので、テントの下で「くもりが良かった」などとおのおの言い合っていた。


 近頃では珍しくなくなった一学期のうちの体育祭である。全体的に素のやる気は低いものの、しかし普段とは違う非日常感の中にあっては、自然と生徒たちのテンションは上向きになる。


「つばきって最近江ノ木と仲良いよね」


 二年三組のテントの下、障害物競争に出る夏生に手を振ったつばきを見て、彼女の友人が呆れたようにそう言った。それに同調して他の友人たちも口々にあれやこれやと好きなように言い始める。


「ええ~? でも話してみると結構楽しいよ?」

「それぜったいつばきが美人だからだよ!」

「下心見え見えだって!」

「柊ならともかく江ノ木はさあ……」

「あっ、ホラ、アキラちゃんの騎馬戦はじまったよー」


 友人たちの追及をかわすため、グラウンドに響き渡ったアナウンスにつばきは眼前を指差した。男子障害物競走のひとつ前、女子騎馬戦の始まりである。


 ほぼ一七〇センチという女子にしては高身長のアキラは、同じく背の高い女子バスケ部の部員たちと組んで騎馬役を務めている。


 つばきの目論見どおり、友人たちはすぐにアキラの応援に回った。


 いつになく真剣な面持ちのアキラの姿を見て、つばきは胸を高鳴らせる。それは決して凛々しい友人を誇らしく思うだけの感情ではなかった。


 スターターピストルが白い煙を上げ、発せられた鋭い音が空気を震わせる。それと同時に対峙した騎馬役たちは、騎手役を頂に前方へと足を踏み出す。女子競技とは言え、運動部員で構成されているせいか、ほとんどの生徒は血気盛んに相手へと突撃して行く。


 アキラの騎馬は比較的順調に生き残りながらも、相手の騎馬のハチマキを手に入れているようだ。接戦に自然と周囲の熱も上がって行く。


 それはつばきの周りも同様で、男子生徒からも声援が飛んだ。特にアキラは屈託なく男勝りな性格も相まって、男子生徒とも親しい。


「久木ー! 気張れよー!」


 そんな声につばきは密かに剣呑な色を目に宿らせた。


「つばきー! アキラたちが最後まで残ってる!」

「……うん。うん、ここは勝って欲しいなー」

「ねー。アキラーがんばってー!」


 しかし友人から興奮気味に肩を叩かれてつばきはグラウンドへと視線をやった。グラウンドの中心にはアキラが先頭を務める騎馬ともう一騎、相対する敵の騎馬が残っている。じりじりと距離を測りながら、かかってはかわすという一進一退の攻防にクラスメイトたちは固唾を呑んで見守っている。


 決着は唐突に訪れた。相手の騎馬が一歩踏み込んだところへ、つばきたちの騎馬が接近する。相手の騎手役の手をかいくぐり、つばきたちの騎手役が、見事相手のハチマキを奪ったのだ。


 しかし――


「あっ」


 友人のひとりが声を出す。同時に周囲も波紋が広がるようにざわめいた。つばきたちの騎手役が体勢を崩して地面に落下したのだ。


「アキラ!」


 つばきは思わず声を上げていた。こともあろうに、アキラが騎手役の女子生徒をかばい、その下敷きになったのだ。


 グラウンドの端からはすぐさま救護班が飛んで来るが、アキラは手を左右に振ってこともなさげに立ち上がった。しきりに救護テントに行くように勧められているようだが、アキラはどうも頑なに断っているらしい。


 つばきはひとまず無事なら良かったと安堵に胸を撫で下ろした。しかし次に去来したのは穏やかならざる感情である。


 アキラは私のものなのに――。そんな傲慢な考えに支配されたつばきの顔は、普段の穏やかさからはほど遠かったが、突然降って湧いたトラブルを前に彼女の異変に気づいたものはいなかった。否、ひとりを除いて。


「アキラ~だいじょうぶだった~?!」

「わたしはだいじょうぶだけど、みねさんは一応救護テントに行ってもらったよ」

「峰さんって次の女子障害物に出るんじゃなかったっけ? どうするの?」

「あ、それじゃあ私が――」

「ダメだよ」


 予想外の出来事で選手を欠いてしまいざわつく周囲に、アキラは自ら選手に志願しようとした。しかしそれはすぐによく通る男の声でさえぎられてしまう。


「え? あ、柊くん……?」


 アキラは思ってもみない相手からの横槍に動揺した。しかもアキラが淡い恋心を抱いている相手だ。普段用もなく言葉を交わさない間柄というのもあり、アキラはにわかに緊張を高まらせる。アキラにとって好都合だったのは、顔に熱が集まったとしても競技を終えたばかりであるから、特段不審に思われない点であろう。


 対する冨由馬はしごく冷静にアキラを見やる。色っぽい切れ長の目に見つめられ、アキラはどうしてもどぎまぎしてしまう。


「久木さん、さっきので足をひねったよね?」

「え? そんなことないと思うけど……」

「アキラやっぱり怪我してたんだ?!」

「だいじょうぶ?」

「歩き方が少しおかしかったよ。今はだいじょうぶかもしれないけど、やっぱり救護テントに行ったほうがいい」

「でも、私借り物競争にも出る予定だし――」

「――笹倉ささくらさん、ちょっといい?」


 なおも言い募ろうとするアキラから顔をそらし、冨由馬は二年三組のテントに戻ってきたばかりの体育委員を呼び止めた。


「峰さんと久木さんが怪我したから、あとの競技に出てくれる人を決めてくれないかな?」

「え? 久木さん怪我したの? だいじょうぶ? 競技のことなら気にしないでいいよ。こっちで決めておくから」


 アキラが口を挟む間もなく、とんとん拍子に冨由馬の思うままに状況は整えられて行く。ここまで来てしまえば、救護テントに行かないと言う選択肢を取らないことは、かなりの勇気を必要とすることは間違いない。


 アキラはとうとう白旗を揚げた。そうするとにわかに右の足首のあたりが熱を伴った痛みを訴え始める。冨由馬の言ったとおり、足をひねってしまっていたらしい。陸上部員として体の管理には気を配っているアキラからすると、このことに気づけなかったのはなんだか無性に悔しく思うと同時に、少し恥ずかしかった。


 先輩たちに怒られるかなと思いながら、怪しい足取りで救護テントへと向かおうとしたアキラの肩をだれかが叩いた。


「久木さん、よかったら俺が送って行くよ」

「え? い、いや、いいよ別に! 柊くんだって競技まだ残ってるでしょ?」

「いや、次の競技まで時間あるからだいじょうぶだよ。――はい」


 物腰柔らかにかわされただけでも、次にどうしようかと悩んでしまうアキラであったが、次の冨由馬の行動には今度こそ腰を抜かしそうになった。


「え? え? あ、あの、柊くん……」

「おんぶして行くよ。久木さんって陸上部だろ? 大事な足になにかあったら困ると思って」


 屈んで背を見せた冨由馬を前に、アキラの頭はパンク寸前であった。密かな思い人が自分を気にかけてくれたのみならず、救護テントまでおんぶして行くなどとまで言っているのだ。アキラの胸中では嬉しさと恥ずかしさがない交ぜになり、喜んでいいやらあせっていいやらわけがわからなくなっていた。


「久木さん?」

「えっと……わ、わたし、ひとりで、行けるから……」

「ダメだよ。足に負担をかけたら。――ほら、早く」


 アキラはしばらく逡巡したあと、とうとう観念して冨由馬に負ぶわれることにした。幸いにもクラスのテントからは少し離れた場所でのやり取りであったから、クラスメイトたちには目撃されていなかったようだが、それでも別のクラスの生徒からはしっかりと視線をちょうだいしてしまった。


 冨由馬の背中はアキラのものよりずっと大きく、しっかりとしていた。考えてみれば当たり前なのだが、身長一七〇近いアキラはともすれば男子よりも背が高い。だからこうして間近で男女の差を痛感すること自体が少ない。けれどもそれを予想だにしない場所で意識するハメになり、心臓の高鳴りを止められなかった。


 おまけに密着しているせいでジャージ越しにも冨由馬の体温がわかってしまう。それは翻ってアキラの体温も伝わってしまうということを表していた。


 だというのに体の温度はどんどんと上がっていってしまう。柊くんに気づかれませんように。アキラは心の中でそう願った。


 そんな感じでいっぱいいっぱいであったが、冨由馬からいくらかかけられた言葉にいったいなんと返したのか、アキラはさっぱり思い出せなかった。



「それ押せば行けるんじゃない?」

「無理だって!」


 体育祭も終わり次は中間考査が控えていた。教科書の範囲を終えたためにテストに向けた自習の時間となった場で、左隣のつばきと机を寄せ合っていたアキラは声を潜めながら張り上げるという、器用なことをやってのけた。


 あわてるアキラとは対照的に、つばきは妙に楽しげだ。


「ああいうタイプは意外と受身だから行けるって~」

「行けないって」

「なんで?」

「むしろこっちが『なんで?』だよ」

「アキラちゃん可愛いから行けるよー」


 アキラは内心で無邪気なつばきの言葉に少し落ち込んだ。自分が決して容姿に優れているわけではないことはわかっている。特につばきと並んでしまえば、立派な日本人形と手作りのみすぼらしいぬいぐるみくらいの差はある。


 つばきのことは好きだが、それでも彼女をうらやましく思う気持ちがないわけではなかった。つばきくらい、可愛かったら――と。それは冨由馬に恋をしてから特に思うことであった。


「この話は終わり! 勉強しようよ」

「はーい。でもあとで覚えておいてね?」

「忘れるから」

「アキラちゃんのいじわるー」


 相手が嫌がることはきちんと見極めて、しつこくないのはつばきの美点である。先ほどの言葉もお遊びのようなもので、きっとあとで再び追求して来ないであろうことは、短いながらも彼女との付き合いの中でよくわかっていた。


「ボタンどうしたんだ」

「ん?」


 右隣に座る夏生の言葉にアキラはちらりと横目で隣を見やる。冨由馬が右腕を上げてブレザーの袖の下をのぞいていた。袖の端からはボタンを留めている糸が緩み、金属製のボタンがだらりと下に垂れていた。


「外れかけてる」

「ほんとだ。どこかに引っかけたかな」


 それと同時に授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。教師が去ると教室内はにわかにさわがしくなる。交わされる話題はたいていが迫る中間考査のことであった。


 それとは外れているのが冨由馬と夏生で、ふたりは冨由馬のボタンについての会話を続けていた。


「ボタン今のうちに取っておけば? どっかに落としそう」

「そうだな。そうするよ」


 そう言って糸をちぎろうとした冨由馬に声をかけたのはつばきであった。


「それくらいならアキラちゃんが直せるよ」


 春の陽気を思わせるほがらかな声色で発せられた言葉に、アキラの背は一瞬にして冷えた。さっとつばきへ視線をやるが、こういうときに限って彼女はアキラを見ていない。


「ね、アキラちゃん」


 ようやくこちらを見たと思えば自信に満ちたウィンクつきだ。


 ――『ね』、じゃないよ!


 内心ではそう叫んでいたアキラであったが、現実ではぱくぱくと何度か口を開閉するのが関の山であった。


「アキラちゃん裁縫道具持ってるしー。ね、してあげたら?」

「え? あ、いや、でも、わたしじゃ嫌かもしれないし……」


 苦し紛れにそう言うも、冨由馬からは追い討ちをかけるような言葉をぶつけられる。


「久木さんに頼めるなら嬉しいけど……でも迷惑じゃない? クラスメイトのボタン留めなんてさ」

「い、いや、そんなことないよ! 柊くんが嫌じゃないなら!」


 冨由馬に嫌われたくない一心でそんなことを勢いで言ってしまったアキラは、すぐに後悔した。


「本当? じゃあ頼めるかな?」


 だが冨由馬にそんなことを言われてしまえばもう断るすべはない。腹を括りアキラは冨由馬のブレザーを受け取った。耳元ではつばきが「やったね!」と言っていたが、アキラは素直に喜べなかった。


 そして遅まきながら冨由馬の「久木さんに頼めるなら嬉しいけど」という言葉を思い出し、アキラは頬が熱くなるのを感じた。たとえ世辞だとしても、好きな人にこんな言葉をかけられて嬉しくないわけがない。


「久木さんって結構裁縫とかするの?」


 夏生は飲み物を買いに教室を出て、そしてなぜかつばきもそれについていってしまった。「なぜか」なのかはアキラにはよくわかっていたが……。


 そうすると自然、冨由馬との距離が近くなる。渡してあとは終わるまでよろしく――というようなタイプではないことはわかっていたが、しかし作業が終わるまで会話を続けなければならないのかと思うと、アキラは気が重くて仕方がない。


「あ、うち下に弟妹きょうだいがいて、それで親は共働きだからさー。弟たちの面倒見てるんだよね。それで裁縫とかもちょくちょく」

「へえー久木さんはすごいな」

「いや、ぜんぜんすごくないよ?」

「いや、部活も大変でしょ。それなのに弟くんたちの世話もしてるなんてすごいよ」


 自分のしていることをえらいなどと思ったことはないが、それでも褒められたこともあまりないのでアキラはくすぐったくて仕方がない。このときばかりは裁縫を含め家事全般をしていて良かったとアキラは思った。


「……はい、終わり」


 糸を切りしっかりボタンが留められているのを確認してアキラは冨由馬にブレザーを返す。冨由馬はそのままブレザーに袖を通してアキラに礼を言った。


「ありがとう。こんなこと引き受けてくれて。助かったよ」

「いいよー別に。たまたま手が空いてただけだし……」

「お礼はなにがいい?」

「えっ……」

「あ、断るのはナシね」


 笑顔でそう言われてしまっては、アキラに断るという選択を取ることはできない。


「えーっと……じゃあ、昼食一回分……」


 あまり間を空けても冨由馬に迷惑がかかると深く考えもせずにそう言ったアキラであったが、言ってしまったあとであまりにも色気のない答えに絶望した。


 ――こういうとき、つばきだったらさっと女子力の高い答えが出せるんだろうな。


 そんなことを思うも後の祭りである。


 しかしそこは冨由馬である。アキラの答えに笑うこともなく「わかった。じゃあ昼食一回分ね」と快く引き受けてくれる。


 アキラは、少なくともあと一度は冨由馬と会話をする機会があるのだと思うと、なんとなくふわふわした気分になった。

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