ビター・スイート・ダーク Bitter Sweet Dark

やなぎ怜

(1)

「おはよー」


 おしゃべりの声が幾重にも重なり喧騒となったその端で、久木ひさぎアキラはいつものように二年三組の教室へと足を踏み入れた。新しい学年へと上がり早一ヶ月と少し。真新しいこの光景にも少々見慣れて来る頃合いである。


「おはよーアキラ。ねえねえこの前の競技会で告白されたってマジ?!」

「……は?」


 人の合間を縫って自分の席へとたどり着き、一息つけるとばかりにカバンを置いたアキラは、よくつるむクラスメイトからの言葉に固まる。ハッとしてすぐ左隣の席の新治にいはるつばきへと視線を飛ばせば、貞淑さを体現したような美少女がにっこりと微笑んだ。


「――つばき!」

「アキラちゃん、ごめんねえ~」

「ごめんじゃないよ! 言わないでって言ったじゃん!」

「まあまあ、落ち着きなよアキラ。で、どうだったのよ? ねえねえ」

「もー!」


 やや乱暴にイスへと腰を落としたアキラは、じっとりとした抗議の目で隣に座るつばきを見る。つばきは申し訳なさそうな顔をしてジェスチャーで謝るが、その表情、仕草のひとつをとっても彼女は素晴らしく美しかった。ほうっと見とれて、ついつい許したくなってしまうほどに。


 新治つばきは非の打ちどころがないほどに美しい。さらさらと毛先まで艶やかに流れる黒髪とのコントラストが美しい、きめ細かでしみひとつない白い肌。小柄で華奢な体躯ながら、ずんぐりむっくりとはならず、手足はすらりと長くバランスが良い。


 極めつきはその美貌である。丸く大きな瞳とそれを縁取る長いまつげはマスカラいらず。ぽってりとした薄桃色の唇は蟲惑的ですらある。そしてそれらは一切の破綻なく顔の上に配置されていた。


 対するアキラは日に焼けた肌が健康的な、いかにも活発な少女と言った風貌だ。日焼けのせいであまり目立たないものの、顔にはそばかすが散っているし、髪の毛は容赦のない太陽光を受けてくしの通りは少し悪い。顔は十人並み。可もなく不可もない、どこにでもいる平凡な容姿である。


「……断った」


 ぽつりとアキラがぶっきらぼうにそう言えば、すぐさま周りに集まった友人たちから「えーっ」という声が上がる。次に来るのは詮索だ。アキラはそれを鬱陶しく思いながら、しかしおくびにも出さずに困った笑顔を見せる。


「え~もったいない」

「ってかどんなひとなの? 他校のひとなんだって?」

「ためしに付き合ってみればよかったんじゃない?」

「わたし今は部活に集中したいし……。両立できるほど器用じゃないからさー」


 そんなことを言いながらアキラは適当に友人たちの攻勢をいなす。元凶たるつばきはそれを面白そうに見ているだけで、アキラは内心でちょっと彼女を恨んだ。それでも怒る気になれないのは、そんな顔をしていても、おおよそ嫌味な部分をつばきから感じないせいでもある。


 あとは自分の「キャラ」を考えれば、この反応は仕方がないと、そう思ってしまう面もあった。


 アキラの周囲からの評価は「ちょっとおバカでガサツだけど、底抜けに明るい男勝りな女の子」といったものである。今までそれを嫌だと思ったことはなかった。そういうキャラクターが確立されていれば、日々のコミュニケーションの面で楽なことも多い。


 けれど今は――それが少し嫌だった。自分にだって女の子らしい面はあるし、決して図太い神経の持ち主ではないのだと言いたい。


 なぜそのような心境の変化が訪れたのか。それはひとえに彼女が恋を覚えたからであった。


 アキラはちらりと右斜め前にある席を見る。そこには女であれ男であれ、ひと目見れば妙にどぎまぎしてしまう美少年――否、美青年がいた。このクラスの学級委員長を務めるひいらぎ冨由馬ふゆまだ。色っぽい切れ長の瞳を後ろの席――つまりアキラの右隣――に座るクラスメイトへと向け、形の良い唇を動かしてなにか楽しげにおしゃべりを繰り広げている。


 アキラは友人たちが彼女を置いて恋愛談議に花を咲かせているのをいいことに、この近くにいる思い人の会話に耳を傾けた。


夏生なつおはだれか好きな人はいないの?」

「いないけど」


 冨由馬の問いかけに愛想の欠片もない声音で返すのは、彼の幼馴染である江ノ木えのき夏生である。


 冨由馬は勉強をさせてもスポーツをさせても平均以上の成果を見せ、裕福な家庭に育ち容姿も整っている。しかしそれを鼻にかけることのない、人当たりの良い冨由馬は交流関係が広い。そうであるから彼の周囲から人が途切れることはないのだが、冨由馬はたいてい幼馴染の夏生と行動を共にしていた。


 江ノ木夏生はクラスにひとりやふたりは必ずいる、勉強はできるがそれ以外に取り立てて目立つところのない生徒であった。社交的な幼馴染とは対照的に性格は内向的で、寡黙と言えば聞こえはいいが、内実は無愛想で無口というだけだ。加えて眼鏡をかけているものだから、クラスメイトたちの評価は「根暗なガリ勉」といったところである。


 ふたりの共通点は男であること、勉強ができること、歳が同じであることの三つだけだ。それ以外は驚くほどに対照的である。


 それなのになぜか冨由馬は彼にご執心なのだ。これは冨由馬の周囲はたいそう不思議がっていたが、夏生を気づかってのことだろうと、おおむねそういった結論に落ち着いている。


「じゃあ好きなタイプは?」

「別に……好きになった人がタイプじゃないの」


 他人事のように答える夏生は、冨由馬の寄越した話題にとことん興味がないようだ。


「うーん、夏生は清楚なタイプが好きそうだよな。新治さんとか」

「ばっ……」


 どうしたって席が離れているとは言いがたいクラスメイトの名前を出され、夏生はあわてた。その拍子にさっと周囲に視線をめぐらせたものだから、アキラはうっかり夏生と目が合ってしまう。


 アキラはすぐさま視線をそらし、左隣から聞こえて来る会話に耳を集中させる。それでも心臓はどくどくと鼓動を速めているのがはっきりとわかってしまい、バレるわけがないのにそれが周囲に聞こえるのではないかと、アキラは気が気ではなかった。


「つばきって彼氏いないの? モテるのに~」

「ええーそんなことないよ?」

「またそんなこと言っちゃってさあ。この前も先輩に告白されてたじゃん。サッカー部のキャプテンだっけ?」

「だってよく知らないひとだったんだもん」

「そう言っちゃってさあ、実は年上の彼氏とかいそうだよね」

「あーわかるー。大学生か、社会人とかの彼氏いそう!」


 つばきを中心とした他愛のない会話に、しかしアキラは飛び込む勇気はなかった。まともに恋などしたことのなかったアキラには、かたわらで空気のように友人たちの話を聞いているのが関の山である。


 他方、冨由馬と夏生は声を潜めてなにごとかをやり取りしている。夏生の眉間にはわずかにしわが寄っているが、対する冨由馬はいつも通りのにこやかな顔のままであった。


「おーい席につけー。ホームルーム始めるぞー」


 教室の前の出入り口から担任の教師が顔をのぞかせ声をかける。その途端に空気はいっそうざわつき、教室の中をクラスメイトたちが縫うようにして自分の席へと戻って行く。


 どこにでもある、高校生のありふれた一日の始まりだ。


 数日前にこのなんの変哲もない教室で、とある密約が交わされたことなどだれも想像したりはしないし、考えつきもしないだろう。知っているのは新治つばきと柊冨由馬、このふたりだけである。


 そしてそこに自分たちが関わっているなどとは、久木アキラと江ノ木夏生は知る由もない。


 つばきと冨由馬は、端的に言ってしまえば人気者である。


 見た目は清楚美人なのに中身はおっちょこちょいのポンコツで、クラスの女子たちからはマスコットのように可愛がられている新治つばき。


 秀麗な美貌に社会的に成功した両親を持つ上流家庭に育ち、文武両道ながらもそれに驕ることなく人当たりよく、周囲からの信望を集める柊冨由馬。


 この一見すればなんの問題もないふたりは――その性格に大きな欠点を抱えていた。


 自分の美しさを自覚しているつばきは、それを妬まれないようにちょっと抜けたキャラクターを装っている。しかし内心ではそれをバカバカしいと思っていたし、それに騙される人間もバカだと思っていた。つばきからすれば、男だろうと女だろうと、自分以外の人間は等しくバカで取るに足らない存在なのである。そして周囲の人々を上手く手のひらで踊らせては、己の狡猾さに良心の呵責を覚えることのない人間であった。


 冨由馬もつばきと似たようなもので、自分を「正しい人間」だと思う周囲に辟易していた。人付き合いは正直言って鬱陶しいことこの上ないのだが、愛想がなくては面倒な嫉妬心を呼び込むことはわかっていたので、いつだって「良い人」を演じて来た。そんな自分をバカらしく思いながら、彼は自身に群がる人々を見下しているのである。褒めそやされて悪い気はしないし、心の中で舌を出す自分を悪いとも思わない。冨由馬はそういう人間だった。


 ふたりは特段親しいわけではない。それでもふたりは気づいていた。相手が自分と同じ種類の人間だということに。


 つまりは終始舞台にいるように演技をして、周囲を騙くらかし、平等に自分以外の人間を見下している。そんな同じをふたりは互いに感じ取っていたのである。


 そしてふたりにはもうひとつ、看過できない共通点があった。


「柊くんって江ノ木くんのこと好きでしょ」


 委員会の集まりが終わり、鍵の施錠を請け負って教室に戻って来た冨由馬は、そこにひとりつばきが残っていることに気づいた。目に眩しい朱色に近い橙色の夕日が差し込む教室内は、しんと静まり返っている。


 やおら口を開いたのはつばきで、その言葉は常人であれば動揺せずにはいられないものであったに違いない。


 しかし冨由馬は眉ひとつ動かすことなく、教室内を回ってひとつひとつ施錠を確認していた。つばきはただ、自分の席に座ったまま淡々と仕事をこなす冨由馬の背を見ている。その瞳にはいつもの小動物めいた愛らしい雰囲気は皆無で、まさしく捕食者と呼んで差し支えのないにぶい光が宿っていた。


「そう言う新治さんは」


 窓の施錠を確認した冨由馬は、ゆっくりと後ろを振り返る。


「久木さんのことが好きなんだろう」


 ふたりには好きな人がいた。いずれも同性の相手で、周囲からも、恐らくは相手からも、友人と思われている間柄の。


「アキラちゃん告白されたんだよね」

「そう。失恋したの」

「してないってー。……でもさあ、相手がねえ、女の子だったの」


 つばきはいつもの調子でしゃべりながらも、しかしその目は一片たりとも笑ってはいなかった。


「アキラちゃんは断ったけど、『相手のことよく知らないから』だって」


 がり、とイスの脚が床と擦れて音を立てる。


「――なにそれ? じゃあ、よく知ってる相手だったら付き合ってたわけ? そんな簡単に付き合っちゃうの? 私はこんなにも悩んでるのに。――って思ったらムカついちゃった」

「そう。それが俺となんの関係があるの?」

「私、江ノ木くんに告白しようと思うの」


 つばきがそう言った瞬間、冨由馬の切れ長の目が剣呑な色を帯びる。つばきとは比べるまでもなく筋張った手は、なにかを堪えるように教室の鍵を握り込んだ。


「どうしてそんな話になるのか、見えないんだけど」

「協力して欲しいの。わたしがアキラちゃんを手に入れる、協力」

「なんで俺がそんなことをしなきゃならないか、わからないんだけど」

「だからさあ、江ノ木くんに告白しようと思ってるの。江ノ木くんっていかにも女慣れしてなさそうじゃない? そこにこんな美少女が告白して来たらイチコロだよ。――私じゃなくってもさあ、もっと他の女の子とか……たとえば前原まえはらさんとか。オリエンテーリングでいっしょになってからちょっと仲いいよね、あのふたり」


 つばきと冨由馬は視線をそらすことなく、互いの目を見た。まるで相手の腹の底まで見透かさんとするかのような目だ。それはまぎれもない威嚇であり、値踏みの意味合いも含んでいた。


「だから、さあ。キープしようよ。私は江ノ木くんと付き合って、柊くんはアキラちゃんと付き合うの。そうすれば私たち以外の人間には奪われない。――簡単でしょう?」

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