二 サービス
顔にぴたりと貼りついたアイマスクも何やら冷やされていて、これだけでもひんやりとして心地良い。
「では、ご案内いたします。ささ、こちらへ……」
準備が整うと、紳士はこれまた氷のように冷たい手で私の火照った手を引き、ゆっくりとした足取りで店の奥へと誘って行く。
無論、まったく見えはしないが、布が体の脇に触れたので、あの分厚い垂れ幕を潜ったことがわかる。
「ひやっ…!」
と、垂れ幕を潜った瞬間、私の足の裏に得体の知れぬ冷感が走った。
その床はとても冷たく、感触もなんだか妙な具合だ。
絨毯でも、ビニールのシートでもないし、コンクリにリノリウムを貼ったという感じでもない……何だろう? ぐにゃぐにゃとまではいかないが、ゴムの塊のような弾力がある。
それに加え、床面はどうにも平らではない。気をつけねば足を取られて転びそうになるくらい、あちこちに無秩序な起伏や溝みたいなものがあるようだ。
足裏の触覚でそこまでは辛うじて認識できるのだが、視界を奪われ、それがいったいぜんたい何なのかわからないという不安がまた、その異様な冷たさを増長させている。
「転ばないよう、足元に注意してくださいね」
そんな、客をもてなすのに向いてるとはとても思えない床の上を、紳士は平然と冷たい手で私を引っ張り、さらに部屋の奥へと歩かせてゆく。
「こちらがお席になります。どうぞ、おかけになってお待ちください」
ゴムのような反発のある、薄気味悪くも心地の良い床を十数歩進むと、紳士は優しく私の肩を掴み、そこにあるらしい椅子の上へ座らせた。
「……ひっ!」
それもまた、異様な程に冷たい椅子であった。
感触も床同様、やはり硬いゴムのようだ。しかし、手で触れた感じはビニールではないし、中綿のパンパンに詰った本革のソファだろうか?
「ふぅ~……」
いずれにしても、とてもひんやりとしていてすこぶる心地が良い。私は全身の力を抜き、硬いソファに身を持たせると深い感嘆の溜息を吐いた。
「お待たせいたしました。こちらの抱き枕もどうぞ」
そうして心地良い冷たさの中にしばし微睡んでいると、別に待つまでの時間ではなかったが、何処かより戻った紳士が更なる〝ひんやり〟を手渡してきた。
「ん? おおっと……」
その抱き枕にしてはずっしりと、やけに重たい物体を受け取ってみると、それは椅子と同様の質感をした不定形な太い棒状をしており、幾分、上側の端の方の径が大きいようである。
また、両端にはビニール製の蓋をして紐で括ってあるらしく、中に何か冷たい水か低温を保つ液体でも入っているのだろうか?
「ああ、これはまたなんとも……」
抱き枕ということなので軽く抱きしめてみると、床や椅子同様、なんとも絶妙な〝ひんやり〟感が熱を帯びた胸を爽快に冷やしてくれる。
〝ひんやり〟とした椅子と抱き枕、そして床の三方向から挟まれ、肉体と精神に蓄積された熱気が胸側と背中側、さらに足裏から抜けて行くのがわかる。
なんともこの冷たさが心地良い……確かに、これは最高の〝ひんやり〟かもしれない。
「こちらもどうぞお召し上がりください。よく冷えたザクロジュースになります。ああ、私がやりますのでそのままで大丈夫ですよ」
残る最後に冷やしたい場所――肉体の内側にある五臓六腑をも冷却させるため、紳士がその冷たいジュースを運んできて、目隠しした私の口にストローを咥えさせてくれる。
その際、おそらくはグラスに入った氷であろう。カラカラとそれらのぶつかり合う音がして、その音だけでもなんとも涼しげだ。
耳で涼を感じた後、優しく口に当てられたそれを咥え、窄めた口で勢いよくジュースを吸い上げる……。
「んんっ…!」
すると、脳髄に雷が突き抜けるかのような冷たさと、得も言われぬ甘酸っぱい味が乾いた口の中に広がった。
さらにそれをごくりと飲み込むと、その衝撃的な冷たさが食道から胃、胃から十二指腸、十二指腸から小腸……否、消化系の縦方向ばかりでなく、肺や肝臓、膵臓に筋肉や骨にも、徐々に体内の四方八方へと染み渡ってゆく……。
嗚呼、本当に心も体も芯から冷やされ、そして癒されてゆく……先程までいた屋外が地獄ならば、ここはまさに文字通りの天国かもしれない。
「それでは、こちらが本日最後のサービスとなります。さあ、どうぞ目隠しをお取りになってください」
時間が経つのは早いもので、そのようにすべてを忘れて極楽気分に浸っている内にも、サービス提供時間の30分が過ぎようとしているらしい。
「いやあ、本当にひんやりすることができました。このままもっと長居をしたいくらいですよ……」
私は朝、ベッドから起きるのが億劫になるのと同じような心持ちになりながら、紳士に感謝の意を伝えて目隠しを外した……。
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