三 サプライズ
……のだったが。
「…………なっ!?」
久方ぶりに視覚を解放され、ぼんやりとしていた景色が段々にはっきりと鮮明になってくると、そこに広がっていた世界に私は絶句した。
まず目に飛び込んで来たのは、妙に
そりゃあ平らでないのも当たり前だろう……それは床ではなく、床一面に敷き詰められた、蒼白い肌の色をした全裸の人間だったのだ!
全員…否、全部というべきか? すべてうつ伏せで、男も女も混ざっている……その肌の色や硬い弾力、その冷たい温度からして、とうに生命活動を終えていることは間違いないだろう。
そう……この足裏に伝わる冷たさも弾力も、死後硬直した人間のそれだったのである!
「ま、まさか……」
それとわかると、私の冷やされた脳裏にある嫌な予感が走り抜ける……床がそうであるあらば、同じ冷たさをした椅子だって同質のものだという方程式が成り立つのではあるまいか?
「うっ……!」
その仮説に思わず椅子から跳び上がり、振り返ってしまった私の網膜に、案の定の…否、それをも凌駕する醜猥な物体が映り込む。
それは、全裸の男の脚をクランクに折り曲げ、その形に固めて作った椅子であった。
江戸川乱歩が描いたかの『人間椅子』をも超越する、まさに正真正銘の〝人間椅子〟だ……いや、もう息をしていないし、今や材質は
……いや、待て……床や椅子がそうだったということは、私が今、抱いているこの抱き枕はどうなのだ?
「う、うわあぁぁっ…!」
さらなるその嫌な予感に視線を自分の胸元へ落とした私は、手の中にあったそれの正体を今更ながらに認識し、不覚にも無様な叫び声を上げてそいつを乱暴に放り投げた。
その〝抱き枕〟だと偽って手渡された物体は、やはりすっかり冷え切った人間の脚であった。
太腿から足首までがあり、その先は切断され、血が零れないようにするためか両端にビニールがかけられている……。
こんなものをずっと気持ち良さそうに抱いていたなんて、これまでの爽快な〝ひんやり〟とはまるで違う、身の毛もよだつ怖気が鳥肌とともに全身を覆い、冷たくも嫌な汗が背中をつう…と伝い落ちる。
「おや、そんなに驚いて如何なさいましたか?」
だが、傍らに立つ紳士はまるで動じず、何事もなかったかのように平然と尋ねてくる。
「い、如何も何もないだろ! な、なんなんだこれ…は……」
その場違いな態度にカチンときて、しどろもどろに声を荒げる私であったが、彼が手にしているグラスの中の液体を見るとさらなる衝撃に見舞われることとなる。
それもまた、冷やしたザクロジュースなどではなかった……色はそう言われてもおかしくないようなドス黒い赤い色をしているが、その中には氷ではなく、人間の眼球のような丸いものが幾つも浮かんでいる……あのカラカラと涼しげに響いていた音も、カチカチに凍らされた眼球同志の触れ合う音だったのだ。
ならば、それの入れられたあの赤い飲み物は、この流れからして十中八九、人間の血液……。
「うぐっ……!」
そこに思い至った瞬間、なんだか酸っぱいものが胃から込み上げてきて、私は咄嗟に口元を抑えて背を丸ませる。
……いや、そんな他人事のように気持ち悪がっている場合ではない。
あの血液や眼球、椅子や床を覆う死体はいったい誰のものだ? どこで、どうやって用意した?
その利便性や秘密の保持に最適な方法を考えたならば……例えば、
〝命の危機〟という生物にとって最大の恐怖が脳裏を過った私は、先程までとはまったく異質の芯まで冷える薄ら寒さを感じ、背を丸めた奇妙の格好のままその場で凍りついた。
ここは、天国なんかじゃない……それどころか、私の迷い込んだ場所は身も毛もよだつこの世の地獄だったのである。
「……く……ククク……フフフ……フハハハハハハっ…!」
そんな私の姿を見て、紳士が堪りかねた様子で腹を抱えて高笑いを始める。
「な、何がおかしいっ!? 笑い事じゃないぞ、この殺人鬼め!」
そんな状況ではないのだが、その人を小馬鹿にしたような態度に恐怖よりも苛立ちを覚え、私は思わず大きな声を上げて彼を睨みつける。
「…クク……ハハハハ……い、いやあ、すみません。あまりにも見事に騙されてくれたもので……ウフフフ…」
すると、紳士はなおも笑いを堪えるのが辛い様子で、ますます精神を逆撫でするようなことを言ってくる。
「騙される? ……ああ、そうですとも。この猛暑の中、〝最高のひんやり〟なんて甘い言葉についついつられて、私はまんまと間抜けにも騙されましたよ。まさかこの店が、こんな猟奇趣味の殺人鬼の館とも知らずにね!」
この後、自分もこの床や椅子達の仲間入りをするだろうことを充分予想しながらも、抑えきれぬ悔しさから私は思いつく限りの嫌味を口にしてやる。
その怒りに全身の血液が沸騰し、冷え切った体の温度が幾分か上昇する。
「…ククク……ああ、いや、そうじゃないんです。そういう意味じゃなくて……ハァ~…じつはですね、これはすべてジョークなんですよ」
ところが、紳士は蔑むでも憐れむのでもなく、なおもおかしそうに涙目を擦りながらも、なんだか妙なことを言い出すのだった。
「ジョーク……?」
「ええ、そうです。ジョークです。全部作り物なんですよ。この床も椅子も抱き枕も、そして、この眼玉入りの血液ジュースもね。どうです? 最高の〝ひんやり〟を味わうことができましたでしょう?」
譫言のように聞き返す私に、紳士は満足げな笑みを浮かべてそう答えると、グラスの縁を指先でチン! と弾いてみせる。
その衝撃で、どうやらガラス玉か何かでできていたらしい眼球がまたしても擦れ合ってカラカラと涼しげに鳴った。
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