(4)
ラシードはスーリになんと声をかけてやれば良いのかわからなかった。スーリの父親は彼女を売ったわけではなかった。しかしその元凶たる継母は、スーリの腹違いの弟を産んだからという理由で今も彼女の生家に居座っているのである。これではあまりに彼女が可哀想だ。
使用人の男はスーリを買い戻したいと言っていたが、ラシードはすぐに結論を出せなかった。スーリの生家の現状もあるが、その言葉をかけられても彼女が喜ぶそぶりを見せなかったのも大きい。ラシードの顔色をうかがう様子もなく、ただぼうっと絨毯を眺める姿は異様と言って良かった。それゆえにラシードは男の話に是とは答えられなかったのである。
もちろん、愚かな独占欲があったことも否定はしない。スーリが喜ぶそぶりがないからと思いつつも、もう片方では彼女を手放したくないという思いがあったことも事実である。
しかしスーリがあの使用人の男の訪問を喜んだのであれば、少しは結果が違ったかも知れなかった。スーリの幸せを思うのならば彼女を自由にしてやってもいい、いや彼女を己のもとに置いておきたいと言う相反する感情が、ラシードの中でせめぎあっている。その均衡を崩すのは、間違いなくスーリである。
その当の彼女は、ラシードと今、向かい合っていた。日の落ちた家の中を、油器に灯った火だけが、ゆらゆらと心許なく揺れながらふたりを照らしている。
「スーリ、家に戻りたいか?」
ラシードの率直な問いに、スーリは戸惑いを見せながらゆっくりと首を横に振る。
「別に帰りたいと言ってもお前にひどいことはしないぞ」
スーリは今度はすぐにうなずく。
「お前が自由になりたいと言うのなら、俺はそうしてやるつもりだ。生家に戻りたいと言うのなら、なんとしてでも叶えてやる」
その言葉に嘘はない。けれどもスーリはただ不安げな目をラシードに向けるばかりだ。まるで迷子の幼子のような瞳で、彼女はラシードを見ていた。どうすればいいのかわからないと言うよりは、これから自身がどうなるのか、そのことを不安に思っている様子である。
「俺のもとで奴隷として働くよりは帰ったほうがいいだろう。そのほうが不自由なく暮らせるはずだ」
ラシードは別に困窮しているわけではないのだが、スーリの生家と比べればその暮らしぶりは幾段も落ちたものだろう。スーリとてこれから色づいてくれば、化粧だの飾りだのと身綺麗にしたくなるに違いない。そういう点では生家にいれば不自由はないだろうし、本来ならばしなくても良い労働に従事する必要もない。
しかしそう言い聞かせても、スーリは首を縦には振らなかった。
「継母がいるのでは不安か? だがお前の父御は冷たい人ではないのだろう。なら戻っても――」
ラシードはそこまで言い募ったところで、スーリがぽろぽろと涙をこぼしていることに気づいた。あわてて身を乗り出せば、スーリはラシードの胸元にしがみついて、肩を震わせる。今までラシードからスーリに触れたことはあっても、その逆はなかった。
「どうした? スーリ」
形の良い頭に触れて、その髪を撫ぜる。声もなくただ涙を流し、ラシードにしがみつく姿はいじましく、彼の心を揺さぶる。この愛らしい少女を手放したくない。そんな思いがやにわに首をもたげるが、あわてて振り払う。思うべきはスーリの幸せであり、己の欲望を優先させるのは今ではないのだ。
ラシードはあやすようにスーリの頭を撫で、しゃくり上げる背に触れる。ラシードよりずっと小さく、薄い背中だ。それが今、涙に震えている。
「スーリ……泣くな。どうしていいか、わからなくなる」
腕の中のスーリが身じろぎし、ラシードの顔を見上げる。褐色の瞳に存分に涙をたたえた姿は、痛々しい。
「そう泣いては目が腫れてしまうぞ」
剣だこの目立つ武骨な指でスーリの涙をぬぐってやるが、それでもあとからあとから涙はあふれて止まらない。
「……スーリ、帰りたくないのか?」
スーリはうなずいた。ラシードを離すまいと彼の胸元にしがみついたまま、しっかりと首を縦に振る。
「ここにいるよりは実家のほうが良いだろう」
ラシードがそう言っても、スーリは首を横に振るばかりだ。そうなると、ラシードはいよいよ困ってしまう。
ラシードはスーリを家に戻してやるつもりでいた。その日のうちにそうしてやらなかったのは、スーリの様子が気になったのもあるが、それは半ば言い訳であり、本当のところは己の心を整理するための時間が欲しかったからである。
スーリを手放せば、きっともう、この先一生会うことは叶わないだろう。高家の令嬢と、ただの一介の騎士では身分が違いすぎる。
家に戻ればスーリはいずれ同じ家格の男のもとに嫁いで、一生を不自由なく暮らすに違いなかった。そこには身分に似合わぬ労働もなく、明日の身の振り方を心配する夜を過ごすということもないのだろう。それはきっと、幸福な人生に違いない。できることならスーリにはそういう人生を送って欲しい。それが彼女に分不相応にも懸想をしてしまった男の、願いであった。
「スーリ、そう頑なになるな。お前の一生に関わる話なんだぞ」
それでもスーリはいやいやと首を横に振って、ラシードの胸板に顔をうずめてしまう。そうするとスーリの耳元を彩る柘榴石の耳飾りがきらりと光って、ラシードの目の奥に届いた。慰めのために、そして半分は所有の証としてラシードが彼女にやったものである。
そのときは終わりの日を予感しながらも、決して具体的な想像はしなかった。だからその耳飾りをつけているあいだは俺のものだと、そう言えた。そして今もスーリの耳元で、ラシードの所有の証はあの日と変わらぬ輝きを持っている。
ラシードの心が揺らぐ。この腕の中にいる少女をこのまま抱き込んでしまいたかった。そうして己のものにしてしまいたかった。
「スーリ、俺のそばにいても、甲斐性のない俺ではお前に贅沢などしてやれないぞ」
スーリは何度もうなずき、じっとラシードを見つめる。その真摯な褐色の瞳を見ていると、心まで吸い取られてしまいそうだった。
「家に戻れば父御もいる。使用人もいる。そのほうがいいだろう?」
スーリは首を横に振り、また涙を流し始めた。ラシードはどうすれば彼女を説得できるのか、わからなくなっていた。
だが先に行動に出たのはスーリだった。ラシードの胸元の布を、ぐいとつかんだかと思うと、ラシードの頬に顔を寄せた。スーリの小さく柔らかい唇が、ラシードの肌に触れる。それは短くも長い時間だった。
そうしてスーリの唇が離れたあと、ラシードは呆然として彼女の顔を見る。涙に潤む茶褐色の瞳には、たしかに強い意志が見て取れた。
「スーリ?」
呆気に取られながらも、絞り出すように彼女の名を呼ぶ。スーリは細い腕をラシードの首に回すと、その首元に顔をうずめた。甘えるように、懇願するように、頭を押しつける。
そんなスーリの行動にも、顔に当たるさらさらとした髪の感触にも、ラシードはどうにもたまらなくなってしまった。
「……スーリ。それ以上はやめてくれ。でないとお前を手放せなくなってしまう」
スーリの体を今すぐかき抱きたくなるのを我慢しながら、ラシードはそう乞うた。それでもスーリはしっかりと彼に抱きついて離れない。
「……スーリ、顔を見せてくれ」
そう言うと、ようやく彼女はラシードの首元から離れた。ラシードはスーリの双眸をじっと覗き込む。スーリはそれに物怖じする様子もなく、同じようにしてラシードの目を見つめていた。
言葉がなくともわかってしまう。スーリも同じ気持ちだったのだと、ラシードはわかってしまった。けれどもそれは信じ難く、簡単に受け入れて良いものかと彼を悩ませる。
「そんなことをしては男は勘違いしてしまうぞ」
スーリは一度だけ、しかししっかりと首を縦に振る。そのまなじりはもう涙を流していなかった。ただまっすぐに、茶褐色の目がラシードを見据えている。
「本当に良いのか?」
こくりこくりとスーリは何度もうなずいた。
「……もう二度と放してはやれないぞ」
こくりとスーリはうなずく。
ふたりは言葉もなくただ見つめあった。そうしてしばらくしてから、ふたつの影はゆっくりと重なり、しばらくのあいだ離れることはなかった。
「で、自由民にしてやって結納金も払ったのか」
ラシードの家を訪れたイフサーンは、酒器を片手にそう言って笑った。なんだかんだと長年付き合いのあるよしみでことの顛末を伝えれば、イフサーンは散々ラシードをからかったが、その祝福の言葉に嘘偽りがないこともまたたしかであった。
「まさかこんなことになるとはなあ」
「……俺も思ってもみなかった」
「まあ良いではないか。女の機微に疎いお前では嫁を貰うのは難しかろう」
「そう言うな」
「せいぜい逃げられぬよう精を出すのだな」
イフサーンはそう言って夫とその友人のために腕を振るうスーリの姿を見やる。そうしているスーリに後ろ暗いところはなく、生き生きとした横顔をふたりに見せていた。
「言われなくとも」
そうするつもりだ。
パリーヴァシュとしてではなく、スーリとして生きることを選んだ妻をラシードは生涯愛し抜くと、誓ったのだから。
赤い薔薇の微笑みを やなぎ怜 @8nagi_0
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。