(9)
消毒液のにおいがする。それは保健室のにおいか、病院のにおいか――それははたして後者であった。
目を覚ましたとき、和葉は白い清潔なベッドの上に体を横たえていた。上半身を起こそうとして全身に痛みが走り、耐え切れずにうめき声を上げると、同じ病室にいた患者がナースコールを押したのか看護師が駆けつけてくる。
和葉は死のうとわけ入った森の近くで、大怪我を負って倒れているところを見つかったのである。そして死を決意したあの日から、集落ですごした分の日まできっちり時間はすぎていて、和葉は一時行方不明者となっていたことを知る。
医者の次には二人組みの刑事がやって来て和葉から話を聞きたがった。
どうやら和葉が母親の「彼氏」に反撃をしたときに住民が通報したらしく、「彼氏」は救急車で搬送され、その先で事件性ありと病院から警察へ連絡がいったのだった。しかも「彼氏」には婦女暴行と未成年に対する売春強要の前科があったために、怪しんだ警察に締め上げられ、愛人の娘を襲った末に反撃されたのだと吐いたらしかった。
しかしその愛人の娘が見つからない。見つかったと思えば何ヶ月も経っている上に、大怪我をしているのだから警察はだいぶ怪しんだようである。
「覚えてないです」
和葉は警察からの質問にはたいていこの文句を返した。別の世界の、人間とは別の種族の集落にいました、などとは口が裂けても言えなかったからである。そもそもこんなことを言っても警察は信じてくれないだろう。
二人組みの刑事からは「彼氏」が執行猶予中に事件を起こしたので、「彼氏」はただちに塀の向こう側に送られたと聞かされた。それを聞いても「よかった」とも「当然の報い」とも和葉は思わなかった。
ただただ空虚な感情が、今の彼女を支配していたのだ。
次にやって来たのは母親の姉夫婦――和葉から見ると伯母夫婦であった。どちらも和葉の母親とは違う、落ち着いた上品なたたずまいの中年の夫婦であった。
和葉の母親は例の「彼氏」を隠匿したことで警察に任意同行を求められた際に暴れたらしく、それでほとんど絶縁状態となっていた伯母夫婦に話が行ったようだった。伯母が言うには母親は十八のときに家を出てから行方知れずになっていたらしい。和葉という姪がいることも警察から連絡が来て初めて知ったとのことだ。
なぜ連絡がついたのかと言うと、伯母夫婦は和葉の祖父母にあたる人物が亡くなったあと、入れ替わるようにその生家に住んでいたからであった。
「和葉ちゃんが良ければだけど、うちへ来ない?」
伯母は初めて会う姪に戸惑いを見せながらも、しかし優しかった。だが和葉はその言葉を額面通りに受け取ることができず、あいまいに頷くにとどまった。
伯母はそれからも和葉が歩けるほどに回復するまで、定期的に会いにきてくれた。学校の教師も一度だけやってきて、「困ったことがあれば相談しろ」と叱責されてしまった。
しかしそのどれをも和葉は現実のものとして受け取ることができないでいた。和葉にとっての現実は、すでにあの集落であったのだ。
それでも以前よりも素直にそれらの好意を受け取ることができた。だがしかし和葉の空虚な心が満たされることはない。
和葉は時間があればキリアンからもらったネックレスを触っていた。看護師から救急搬送されたときからずっと手放さなかったことを聞かされ、「よっぽど大事なものなのね」と優しい顔で言われたことは記憶に新しい。
大事なもの。
そう、和葉にとってそれは大事なものだった。なめした革をチェーンの代わりにして、穴の開いたきらきらと光る石をペンダントトップにしたネックレス。それだけがあの出来事が夢ではないと語っていた。これだけが、キリアンは夢想の中で生み出した人物ではないと教えてくれた。
今日も和葉は首から下げたネックレスに触れる。
「リハビリは順調ね。この調子ならあと一週間もあれば退院できるわよ」
看護師からそう声をかけられて病室に戻された和葉は、手持ち無沙汰にネックレスに触れる。それはもう習慣と化していて、看護師たちも指摘することはなかった。
空っぽのままの和葉は、ただネックレスに触れる。なぜ執拗に触るのか、その意味をわからないまま。
そのとき、病室に一陣の風が吹いた。冷たい空気をはらんだ風が和葉の頬をかすめていく。その瞬間、和葉の中に感情があふれかえった。同時に沸騰したように次から次へと思い出が頭の中の棚からこぼれ落ちてくる。
わき出たのは、悲しみだった。
キリアンと離れてしまった悲しみ。あの集落への郷愁。
悲しみがとめどなくあふれ出て、和葉は立っていられなくなった。自分のベッドに頭をうずめて、和葉は涙を流し続けた。
そうしてどれほどそうやっていただろう、目が痛くなるほどに泣いたあとは、激しい衝動が生まれた。その衝動のままに、和葉は病室から飛び出した。背後に彼女を制止する声がかかったような気がしたが、そんなものは耳には入らない。ただあの弓を引き、矢が放たれたときのような鋭い風を切る音だけが、和葉の耳朶を支配していた。
気がつけば和葉はあの森の中にいた。キリアンの姿を求めて、あの集落を求めて、和葉は足を動かす。それでもあの見上げるような巨木だけはいつまで経っても出てこなくて、和葉はまた悲しみが心の底からにじみ出てくるのを感じた。
「キリアン……」
目を伏せて彼の姿をまぶたの裏に思い描く。
「キリアン、会いたい」
はっきりと声に出してつぶやく。そこで和葉は初めて気づいたのだ。自分にとってキリアンがどれだけ大きい存在であったのかを、そしてどういった感情を抱いている相手であったかを。
それに気づいたとき、和葉は涙を流していた。ぬぐってもぬぐっても、あとから涙はあふれ出てくる。それがどうしようもなく情けなくて、和葉は木の根元にしゃがみ込んだ。
「キリアン、私もキリアンのこと好きだよ」
そう言った瞬間、またも風が吹いた。そしてその風に乗って、熱望した声が和葉の耳に届く。
「キリアン?」
ふたたび顔を上げたとき、周囲の様相は一変していた。あの懐かしい巨木の数々が群れをなし、和葉の目の前には明らかに人の手が加えられた道が伸びている。
「キリアン!」
和葉は叫んだ愛しい人の名前を。
「キリアン!」
そうして声の主の下へと駆け出した。
愛しあうふたりが再び出会う、少し前のことである。
深緑の思慕 やなぎ怜 @8nagi_0
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