(8)
祭りのあとはあの喧騒が嘘のようにまた静かな日々に戻った。キリアンとカズハの関係が少しだけ変化をきたしたのと同じように、カズハと集落の面々の関係も少しだけ変わった。それもすべてカズハと意思の疎通が取れるようになったからである。
これに一番喜んだのはアリラだった。
「もう! お兄ちゃん、どうしてすぐに教えてくれなかったの?!」
そう言って人形のような端正な顔を不機嫌そうにゆがめて、おてんばな調子で兄を叱咤したアリラは、そのあとで散々和葉にお礼を言った。そういうわけで少しだけ気恥ずかしくなったカズハであったが、言葉が伝わらずともずっと暮らしてきていただけあって、違和感はすぐに払拭された。妹がいればきっとこんな感じだっただろうと和葉が思うくらいに、ふたりは仲むつまじくなったのである。
そんなアリラの様子に和葉はますますこの集落から離れがたい思いを強くした。
他の集落の面々もカズハがしゃべれるようになったことを、我がことのように喜んでくれた。ちょっとお人好しがすぎるんじゃないだろうかと、ひねくれたこころで和葉が思うくらいに。
東屋のような屋根のある場所での日課の縫い物でも、カズハはよく話を振られるようになった。その大半が「キリアンとはどうなのか」という内容であったのでずいぶんと困ったが。
その話題を振ってくるのは女衆だけではなく、男衆も同様で特に年かさの男たちはしきりに「キリアンの嫁にならないか、いやなるんだろう」とばかりに迫ってくるのだから困った。結局適当に言葉を濁して誤魔化すよりほか、和葉にはなく、それがまた噂を加速させていることに本人は気づかない。
そうやって前にもまして集落の面々と友誼を深めているあいだにも、巡回魔術師が村を離れる日が迫っていた。中年ごろの温和そうな巡回魔術師は「よく考えて」とだけ和葉に言って、あとは集落の皆からの相談に乗る日々を送っている。
その合間にこの世界の人間の街がどんなものか聞いてみたが、和葉にはいまいちぴんとこなかった。生活のレベルはこの集落からもわかるように、和葉の世界からするとだいぶ原始的なものと言える。それでも慎ましやかに生活している様子は伝わってくるのだが、この集落以上に魅力的な場所とは和葉には思えなかった。
しかし決めなければならないのだ。この集落に残るのか、それとも去るのか。
このころには和葉は己の本心に気づきつつあった。つまり、この集落に残りたいという結論に。
けれども未だに和葉の中にある罪悪感や、長年培われてきた他人を過度におもんばかってしまう心が、その結論を出すのに歯止めをかける。
そうこうしているあいだに、巡回魔術師から「明日出立する」との宣告を和葉は受けることになった。
そして和葉が煩悶しているあいだに、運命は容赦なく彼女に「転機」という変転を起こす。
その日はいつものように朝から男衆が出払って狩りに出かけていた。女衆は屋根のある東屋風の場所に集まって、縫い物にいそしむ。そうでないものは、家事をしていた。
異変が起きたのはカラカラという乾いた木の板と板が触れ合う音である。その音が鳴り響いた瞬間、女衆は皆立ち上がった。
「だれか来たよ。でも商人じゃあないね」
「野盗のたぐいかしら?」
場を支配するのは緊張で、和葉も皆にならって立ち上がる。女衆は村の周囲に耳を向ける。長くとがった耳からもわかるように、彼女たちは音に敏感だ。
「金属の音がする。これは剣か鎧だよ」
「まずいことになったね。皆、家に残っているものを呼んできな。森へ逃げるよ」
野盗のたぐいが村に現れたときは、男衆がいればこれを追い払うが、そうでないときは森に散り散りに逃げるのがこの集落の決め事である。流れてきた無法者よりもこちらの方が土地勘はあるし、森であれば人をまくのにちょうど良い。だから彼女たちは危なくなると森の中へ逃げ込むのである。そうすれば森と狩猟の女神が守ってくれる、という信仰からの面もあった。
「カズハ! 逃げるよ!」
「アリラ、森へ逃げてだいじょうぶなの?」
しかしそれを知らない和葉は戸惑いを隠せない。当然ながら和葉には土地勘などないし、聴力に優れているわけでもない。だがアリラは違う。これまでにも野盗の襲撃をかわしてきた彼女の動きには迷いがなく、和葉の手を取るや森の方へと一目散に逃げ去って行く。
「カズハ! 手を離さないで、それから静かにしてて。だいじょうぶ。これまでも上手く逃げられたんだから」
「皆別の場所に行ってるけどいいの?」
「固まって動く方が危険なの」
そう言われるとそうなのか、と納得して和葉はアリラに連れられるがまま森の奥深くへとわけ入って行った。
しかし、その日はこれまでと違って一部の女衆に運はなかったようだ。
森の奥へと歩を進めるにつれ、安堵が頭をもたげ始めた瞬間、絹を裂くような声が響き渡った。それに反応しアリラと和葉は巨木の根元に素早く身を隠す。視線を動かして周囲を見回せば、女衆のひとりが粗野な服装の男につかまっている。耳を見れば集落の者ではないことは明らかであった。
「エファが……!」
アリラはそう言って顔をゆがめる。和葉も親しくはしてなかったが、それでも狭い集落では見知った顔であった。
「へっへ……おーい捕まえたぞー!」
そう言うや周りからわらわらと同じようにいかにも粗暴そうな男たちが出てくる。その手には捕まってしまった集落の女衆が何人か見受けられた。
「アーリスにギネッサまで……どうしよう……」
いずれも若く美しい女性たちばかりである。そして男たちの会話から鳴子をわざと鳴らし、こうして飛び出てくるのを待っていたということがわかった。その卑劣な行いに和葉は心の奥底が燃えるような感情を抱く。
「いやっ! 放して!」
「そう言って放す馬鹿がいるかよ」
女たちは抵抗するが、むろん男の腕力にはかなわない。見ているしかないアリラと和葉は根元で身を寄せ合った。
「どうしようカズハ……どうしよう」
「落ち着いてアリラ」
どうにかしたいのは和葉も山々である。しかしこちらも非力な少女がふたり。出て行っても返り討ちに遭うのが落ちである。和葉は混乱の中で助けを望んだ。今まで母親以外に助けを求めたことのない和葉が求めた相手は――キリアンだった。
「ぎゃっ」
その瞬間、空を切る音がしたかと思えば、男のひとりが悲鳴を上げて倒れる。その肩には深々と矢が刺さっていた。
「女たちを放せ!」
あの黒い獣を射ったときと同じ凛とした声が響き渡る。
――キリアンだ。
和葉は目の前が開けるような感覚を覚えた。
「お兄ちゃん!」
アリラが小さく歓声を上げる。そしてキリアンを
矢をつがえた男たちがいっせいに現れたことで、野盗たちは恐慌をきたしたようだ。女を放って逃げ出そうとしたものはすぐに矢の餌食になり、地へと伏すはめになった。
しかし頭目と思しき男だけはひとり冷静さを失っていない。捕まえた女を放さないどころか、盾にしようとしているのは明らかで、そのために男衆も矢を引くことができないでいるようだった。
和葉はそこで気づいてしまう。この頭目のほぼ背後の死角に自分がいるということを。
それを確認してからの和葉の動きは速かった。
「カズハ?!」
「なんだ?!」
アリラの驚くような声を背に、和葉は頭目の男にむかって突進する。脇の横を殴られる形になった男はよろめいて女を手放した。その隙に女は逃げ出し、素早く弓引いたキリアンの矢が男の腕に刺さった。
しかし頭目の男も場数を踏んでいるのか、それでもなおあきらめようとはしない。
「こっちに来い!」
そう言うや和葉の首根っこをつかみ、今度は彼女を盾にして、勝負は決したと気をゆるめてしまった男衆の隙をつき、逃げ出したのである。
「カズハ! ……くそっ! 待てっ!」
それにいち早く反応したのはキリアンだ。男衆の一団から素早く飛び出し、逃げて行く頭目の男と連れ去られた和葉を追う。
襟ぐりをつかまれた和葉は、声を出そうにもうまく出せず、キリアンに対し「追わなくていい」というひとことが発せられないでいた。
和葉の中には打算があった。自分はもともとは集落の人間ではないのだから、どうなってもいいという考えのもと、和葉はあの場に突っ込んでいったのだった。……それでキリアンがどんな行動を取るかまで予想せずに。
頭目の男はひどくタフであった。和葉が一般的な十四歳の少女よりも軽いことを差し引いても、頭目の男の足は速い。キリアンが弓を射るひまもないほどで、彼は男を追うので精一杯だった。
しかしそれでもそのうちに壮年をすぎたころに見える頭目の男よりも若いキリアンの方に軍配が上がる。男は走り続けることに疲れ始めていた。和葉は逃げ出すとすれば、男が疲れ切ってからだと思い、じっと暴れずに体力を温存している。
ここでも奇妙なことに、和葉の中で生と死は共存していた。死んでも構わないという思いで突進し、見捨てて欲しいとキリアンに言おうとした和葉と、男が足を止めれば逃げ延びようとする和葉。この二つは奇妙に、同時に存在していた。そしてそれはどちらかが勝るということもなく共存している。
だがしかし男は完全に足を止めきる前に、森の端にある切り立った崖へと到着するや、くるりとキリアンの方を振り返ったのだ。
「おい坊主。こいつをここから落とされたくなけりゃ、俺を見逃しな」
「……その言葉を信用しろと?」
やや息の上がったキリアンは、和葉が見たことがないような鋭い目で男を射抜き、刺々しい声で答える。
「へへっ、でもそうするしかねえだろう?」
「…………」
和葉は声を出そうとした、しかしそれを阻むかのように頭目の男は襟ぐりを締め上げる。
「ぐっ」
苦しそうな声が反射的に和葉の喉から漏れると、キリアンは動揺をあらわにした。それを見て頭目の男はにやりと笑う。
「こんな小娘どうにでもできるんだぜ? 今ここでくびって殺すこともな」
和葉は必死で声を出そうとするが、どうしてもそれができない。そうこうしているあいだにキリアンは弓を地面に放り投げ、矢筒を足元に落とした。
「これでいいだろ? さあその子を放してくれ」
「おっと、その前にすることがあってな……」
そう言うや、頭目の男は下卑た笑みを浮かべながら腰に提げていたナイフを柄から抜き出す。それを見て和葉は血が冷える感覚を覚えた。思い出されるのは、死を決意したあの日のことである。理不尽な暴力に対抗するために、和葉は初めて同じ暴力に訴えた……。その日のことがめまぐるしく思い出され、和葉の脳を支配する。
しかしキリアンはナイフを見せられてもなお毅然とした態度を崩さない。それは一種の美しさすらたたえていた。
それが癇にさわったのか、男は顔をゆがめて見せびらかすようにナイフを振るう。
「……よし、こっちに来い。ゆっくりとだ。ちょっとでも変な動きを見せたらこの小娘の顔がずたずたになるぜ」
キリアンはゆっくりと、しかし堂々とした立ち居振る舞いで男へと近づく。
近づいてはダメ。
和葉はそう声に出したかった。しかしできない。そうこうしているあいだにも、キリアンは男へと歩を進めて行ってしまう。
そしてキリアンが男の腕が届く範囲内に入った瞬間、和葉は足元を蹴っていた。強く、今までで一番力強く、地を蹴っていた。
動きの先は背後の崖である。和葉をつかんでいた男は不意に加わった力に対応しきれず、体勢を崩す。
「カズハーっ!」
そして男は和葉と共に崖の底へと落ちて行った。
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