(7)

 年に一度の祭りは森と狩猟の女神に供物を捧げるという内容のものらしい。供物は森で獲れた一番大きな獣を用い、それを戴く祭壇を作る。そして年に一度だけ喧騒を赦すという神話にのっとり、その祭壇の周りで飲めや歌えやの大騒ぎをするのだ。


 その話を聞いたとき、この集落の者たちが総じて物静かで落ち着いている理由を和葉は知った。森と狩猟の女神は騒がしさを嫌うのだ。だからその女神を信奉している彼らは慎ましく、静かに日々を過ごすのである。


 この日ばかりはわざわざ祭りのためにこしらえたという、アルコール度数の高い酒が振舞われるらしい。しかしアルコールに嫌な思い出しかない和葉にはちょっと遠慮したい部分でもあった。しかしもちろんそんな身勝手なことは言えないわけで、キリアンについて回っているあいだに酒を進められても「未成年だから」と言って断った。


 集落では十五から成人である。だから今年で十五を迎える和葉も一応は酒をたしなめるわけではあるが、そこは十四と偽って回避することにした。ときには必要な嘘もある、と残念そうにする男衆を見て和葉は己にそう言い聞かせた。



 あのあと、結局は祭りのあいだはキリアンといっしょにいることを和葉は選んだ。これが最後になるかもしれないという思いもあったからである。


 まだ、巡回魔術師について行くかは決めかねていたが、内心ではほとんど「出て行ったほうがいい」という意見にかたむいていた。


 ちなみに巡回魔術師には傷跡が消えるという軟膏を、刺繍を施したハンカチと引き換えにもらっている。巡回の魔術師はこうして商人のように物々交換で持っているものを与える風習があるというのは、エングル婆から聞いた話である。ちなみに交換するものはなんでもいいらしく、重要なのは物と物を交換することらしい。そこにもまた複雑な教義が絡んでいるのだろう。


 和葉は特にこの軟膏の必要性を感じてはいなかった。しかしキリアンとエングル婆はそうではないらしく、やけに熱心に勧められ、結局和葉はこの軟膏を貰い受けることになったのである。


 その軟膏を見て、キリアンがあからさまにほっとしていたのもあった。アリラ――やはり和葉の予想通りキリアンとは兄妹であった――をかばってついた傷ということで、表に出さないまでもキリアンは前々から気にしていたのかもしれない。それを思うと和葉は少しだけ申し訳ない気持ちになった。


「思ってたんだけどさ、カズハって騒がしいのは嫌い?」


 祭りが始まり飲み食いが本格化し始めると、周囲は年に一度の喧騒に包まれた。その片隅にキリアンと和葉はいる。アリラは友人たちといっしょに祭壇の前で踊っており、和葉はそれをほほえましく見守っていた。


「嫌いじゃないけど、苦手かな」


 自意識過剰と言われればそれまでであるが、ざわざわと声の重なり合った音を聞くのは実は和葉は苦手である。それはかつていじめを受けた経験がそうさせていた。放っておいて欲しいのに、ささやきあうクラスメイトたちの声。それを思い出すと和葉は胸が痛んだ。


 そして自分にはまだこんな風に思える感情が残っていることに、改めて驚く。


 このしばらくのあいだでずいぶんと心が弱くなってしまったなと和葉は思った。――それが健全な人間の反応であるとは知らずに。


「それじゃあちょっと抜けようぜ」

「どこに行くの?」

「景色が綺麗な場所があるんだ。狩りをしているときに見つけたからちょっと歩くことになるけど」

「別にいいよ。それに見てみたい」

「じゃあ行くか」


 日がまた中天にさしかかる前に、ふたりは騒がしさに浮かれる集落を離れた。


 和葉はキリアンに手を貸してもらいながら森の中を行く。狩りをしているときに見つけたと言っていた通り、獣道もないような場所にそれはあった。


「湖!」


 和葉は思わず感嘆の声を漏らす。太陽の光を受けて輝く湖面は、青と緑が交じり合った美しい色合いの波を立たせている。ふきつける風は湖に冷やされてわずかに汗をかいた体に心地良い。湖畔では鳥たちが体を休め、角を生やしたシカに似た生き物が喉を潤している。


 キリアンは和葉の顔を見て得意満面である。


「綺麗だろ? 狩りに疲れたときはここに来るんだ」

「いい休憩場所だね。水が本当に綺麗……」


 和葉が湖に近づいて膝を折れば、キリアンはその横に腰を下ろす。それ見て和葉も腰を地面に落ち着けた。


 そうして凪いだ湖面を見つめているうちに和葉はこれが最後だから、とキリアンにあることを言うと心に決める。それでも口に出すにはだいぶ時間がかかった。そのあいだ、ふたりのあいだに会話はない。どうやらキリアンは和葉がなにかをしゃべりたがっていることに気づいているようだった。


「あのね、キリアン」

「どうした」

「迷惑かけてごめんね」

「迷惑ってなんのことだ? カズハにはだいぶ世話になってるよ。カズハの刺繍はすごいからな。おかげでいい弓の弦が買える」

「そんなにお金になるんだね、刺繍って。ぜんぜん知らなかった」

「カズハの国じゃ金にならないのか?」

「どうだろう……人によるだろうけれど、難しいんじゃないかな」

「あんなにすごいのに。……カズハの国のこと、もっと聞いてもいいか?」


 キリアンの言葉に和葉はどきりとした。そして嫌な汗が背中に吹き出てくるのを感じる。


 思い出されるのは愛情と言う名の幻想が崩れ、絶望のみが残ったあの日だ。なにも良い思い出がなく、よりどころとしていたものはすべて空虚な幻想であったと知らされた、元の場所。


 和葉が本来いるべき場所。


 そうなのだ、自分がいるのはここではなく、あのごみ溜めのような現実の世界なのだ。


 そう思うと和葉は夢から覚めたような、もの悲しい気分になった。


 和葉の様子がおかしくなったことに気づいたのか、キリアンはあわてたように言いつくろう。


「嫌なら話さなくていいんだ。悪い」

「……キリアンは優しいね」


 和葉は立てた膝の上に顔をうずめた。


「キリアンは迷惑をかけられたんだから、なんでそんなことをしたのかって聞いてもいいくらいだよ」

「……首を吊ったことか?」

「そうだよ。どうしてあんなことをしたのか。……あのあと、キリアン怒ってたよね」

「ああ」

「どうして?」

「ただ、なんとなく腹が立ったんだ。死んでしまおうとするカズハに。……どうしてかはわからない」


 ふたりのあいだを一陣の風が駆け抜けた。


「だったら聞いてもいいのに。……ううん、私が聞いて欲しいんだ。ねえ、キリアン、聞いて欲しいんだけど、いい?」

「ああ……」


 キリアンが了承の言葉を返すと、和葉はすべてを話し始めた。


「あのね、私はここから遠い国から来たの。ずっとずっと遠い場所から。魔術師とかよくわからない場所で、母親といっしょに暮らしてて……父親は知らない。物心ついたときにはいなくて、母親のカレシたちから殴られて育った。気に入らないことがあるとその人たちはすぐに殴るんだ。痛くてしょうがなかったけど、泣くともっと殴られるから、そういうときは泣かないようにがんばるんだ」


 キリアンが息を飲むのを感じて、カズハは「ドン引きされたかな」と思った。それでも口は止まらない。もう、洗いざらいぶちまけてしまおうと和葉は思ったのだ。……そんな役目を背負わされたキリアンには悪いが。


「それでも母親は……ママのことは大好きだった。ママも私のことを愛していると思ってた。でもよく考えたらどうしてそんなことを思ってたんだろうって、今は思うよ。ママは私に関心なんてなくて、内心ではずっと邪魔者だと思ってたんだと思う。……あのね、アリラを助けた日にね、私ママのカレシに襲われたの」

「は?! な、だ、だいじょうぶだったのか?!」


 あからさまにあわてるキリアンに、和葉のほうがびっくりして目を丸くしてしまう。


「うん。なんとか逃げられたからだいじょうぶだったけど」

「そうか……」


 キリアンはほっと安堵のため息をつく。


「……それでねママにそのことを言って、初めて私気づいたの。ママにとって私はどうでもいい存在なんだって。ママにとって私は生まれてこなくてよかった存在なんだって。あのね、襲われたことを言ったら捕まるから言うなって言われて、産まなきゃ良かったって言われて――それで初めて気づいたんだ。馬鹿だよね。もうずっと前からママは私のことなんで嫌いで、最初から愛してなかったのに……」


 キリアンはこわばった顔で和葉を見つめていた。なんと返していいか迷っているようだった。しかし和葉はキリアンの答えなど最初から期待してはいなかった。ただ、聞いてもらえればよかったのだ。


「ねえ、キリアンのことも聞かせてよ。どうしてずっと私を家に置いておいてくれたの?」


 それは和葉にとって当初からの謎のひとつであった。アリラをかばったことで恩人という位置を差し引いても、怪我が治ってまで置いておく理由はない。


 和葉の問いにキリアンはしばらく考える仕草をしたあと、ばつが悪そうに口を開いた。


「なんとなく、放っておけなくて」

「そりゃあ死のうとしたもんね」

「まあな」


 そこでキリアンは一度言葉を切った。


「だけど、たぶん一目惚れだったんだと思う」

「え?」


 不意打ちを食らった和葉は、表情を固くしてキリアンの端正な顔を見つめる。そうするとあの美しいグリーンアイズと真っ向から視線がぶつかってしまった。しかし、その吸い込まれるような美しさに目をそらすことができない。


「たぶん、好きなんだ。いつのまにか、好きになってた。だから置いておいたんだと思う。それに、これからもっと好きになると思う。だから――」


 キリアンが和葉の肩に両腕を回し、すっぽりと彼女を包み込んでしまった。


「だから、ここにいてくれないか」


 キリアンの言葉に和葉は困惑した。そしてためらいを覚える。キリアンの言葉に甘えてしまいたいという思いがわき出てしまったのだ。


「でも、私、迷惑じゃ――」

「迷惑なんかじゃない。集落のみんなだって喜んでくれる。カズハは手先が器用ですごいって皆言ってるんだ。知ってた?」

「知らない」

「だよな。だって今日まで言葉が通じなかったんだもんな」


 額と額が当たりそうなほど近くでキリアンは笑った。屈託のない笑みに和葉は心が動かされるのを感じながら、同時に恐怖を覚えていた。


 あれほどまでに強かった死への欲求が薄れて行く。その代わりにわき出てきたのは生への欲求と、自らの、ごく個人的な欲望。すなわち、集落に残りたいという願望であった。


 その思いに和葉は戸惑い、そして悩む。この心のままに動いて本当にいいのだろうか、と。死への欲求にはあれほどまでに忠実に行動ができたと言うのに、生への欲求と欲望にはどう対処していいのやら和葉にはわからなかった。


 和葉は今までだれかに頼るということをしたことがなかった。――あの母親を除いて。だから、キリアンの言うがままに甘えてしまうことにためらいを覚えたのだ。


「……でも嫌だったらいいんだ。ここにいたいけど俺が嫌だって言うんだったら、エングル婆に言って家くらいは用意するし。あ、いや、今までどおり同居したままでいいってわけじゃなくて、残るならどちらにしろ家のことは考えたことがいいと思ってだな……」


 呆然としたままの和葉を離すと、キリアンは気まずげに頬をかいた。


「俺の言ったことに嘘はない。これは本当だ。だから、結論は急がなくていい。……でも、真剣に考えてくれると嬉しい。俺はやっぱり、カズハにはできればここにいて欲しいって思っているから」

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