(6)

 この世界には魔術師と呼ばれる存在がいるらしい。そのことを和葉が知ったのはキリアンに呼び出された先で、見知らぬ男によくわからない紙切れを差し出されてからのことである。それを受け取った瞬間、なにか小さな雷が駆けて行くような感覚が和葉を襲い、気がつけば周囲の者たちの話している言葉が理解できるようになったのだ。


 言葉が理解できるようになったのは向こうも同じらしい。


「これは?」


 困惑して紙を差し出す和葉に向かって老婆が巡回の魔術師の説明をしてくれたのだ。そうしてその説明を聞いたあと、和葉はまず言葉が通じるのならばなによりも先にせねばならないことがあるのに気がついてあわてた。


「今までありがとうございます」


 しかしその言葉に今度はキリアンがあわて出し、大股で和葉に近づいたかと思うとその肩をがっちりとした手でつかんだのである。


「カズハ、やっぱり出て行くのか?」

「え?」

「え?」

「……キリアンや。その話はまだカズハにはしていないだろう」


 老婆――のちにエングル婆と呼ばれていることを知る――は呆れた様子でそう言うや、巡回魔術師に礼を言って部屋を出させると和葉とキリアンにイスを勧めた。


 そこで改めて和葉はエングル婆から聞かされる。巡回魔術師は和葉のような身寄りのない人間を保護しており、もしも和葉が希望するならば彼について人間の街へと行き、そこで暮らすことができると。


 その話をされた和葉は戸惑った。思わずキリアンを見やれば、彼は真剣な面差しで和葉を見つめている。そのあまりの気迫に和葉はどきりとした。己の心の底にある、よこしまな欲望を見透かされたようで、心臓が跳ねたのである。



 和葉は自殺未遂から生還したあと、「一度やってみよう」と決めたのだ。すなわちこの集落で己がどこまで受け入れられるのか、どこまでやって行けるのか、試してみようと思ったのである。


 なぜ死を決意しながらもこのようなことを考えたのか、和葉にはわからなかった。きっと、心の奥底では生きたがっていてその理由が欲しかったのだと、そう結論づけたが、はたしてそれが正しいのかはわからない。


 とにかく和葉は塞ぎこむことを止めて外に出た。右足の怪我はまだよくなってはいなかったが、それでも出血は止まっていたから歩くことは困難ではなかった。


 初めにしたのはアリラの手伝いである。洗濯場で小さな体を動かしている彼女のそばに寄り、ジェスチャーで手伝いたい旨をどうにか伝えると、アリラは戸惑いながらも受け入れてくれた。アリラよりも背の高い和葉は彼女の代わりに干し場でじゅうにぶんに働いた。


 洗濯が終わると次は枝拾いで、これに同行しようとしたがアリラはなぜか嫌がった。恐らく、森に入ればまた和葉が自殺未遂を起こしかねないと思っていたのだろう。


 そこに割って入ってくれたのがエングル婆である。エングル婆は和葉の手を引き、和葉もされるがままになって、そのまま女衆が集まっている大きな東屋のような場所へと連れて行かれた。そこでは女たちが手に布と針と糸を持ち、服やらなんやらを手縫いしていた。


 和葉はあとから知ることになるが、この集落では女衆が作るこうした手芸品を、定期的に村へ立ち寄る商人に売りさばいて生計のひとつとしているのであった。


 エングル婆は女衆となにかを話し、しばらくすると女衆の中でも年かさの女性が和葉を手招いて呼び寄せる。そして針と糸を見せた。できるのか、と聞いているのだろうと判断した和葉は遠慮がちにうなずく。


 手芸のたぐいは学校の家庭科の授業以外でやったことはなかったが、一応針と糸を使って布を縫い合わせることくらいはできる。とはいえ得意かと聞かれれば経験が少なすぎてどう言えばいいのか判断がつかなかった。だから遠慮がちにうなずいたのである。


 しかしこれは和葉本人も驚くほど彼女にあっていた。水を得た魚とはこういうことを言うのであろう。和葉は女衆の指導の甲斐あってめきめきと腕を伸ばした。そして村に立ち寄った商人とのやり取りを見て、これが金になるということを知る。それはほとんど衝撃に近い出来事であった。


 和葉は「これだ」と思った。「これ」があれば集落の中で居場所を見つけることができるのではないか、と考えたのである。その考えは当たっていたようで、和葉が自分でもよくできたと思うような刺繍をすると、それを見た者は皆笑顔になった。それに手ごたえを感じ、和葉は手芸にのめり込んで行った。


 キリアンもアリラが和葉の施した刺繍を見せればおどろいたような顔をしたあと、感心した様子で見入っていたのだ。そのとき、和葉はくすぐったくも温かい気持ちになったのを覚えている。


 キリアンが弓の弦を張るのを手伝ってやったのも、和葉なりに集落へ受け入れられようとするための行動だったのだ。


 和葉は無意識のうちに首から下げていたネックレスのトップを服の上から握り締める。これはキリアンからもらったものだった。その真意がなにかはわからないが、おおよそ与えられるということに慣れていない和葉は舞い上がるほどに喜び、それからこのネックレスを肌身離さず身につけているのである。


 そして今、この集落から離れるという話をしているとき、よりどころを求めて和葉はこのネックレスを握り締めたのだ。


 すがるようなその行動こそが和葉の本心であったのだが、そのことに本人は気づけずにいた。


「カズハ、アンタはここから出て、人間の街で暮らすことができる」

「……そうした方がいいですかね」

「それはアンタが決めることだよ」


 エングル婆はゆっくりと、そして慈愛に満ちた表情と声音で和葉にそう言う。


 和葉は考える。これは遠まわしに出て行って欲しいと言われているのかもしれないと。それが勘繰りのしすぎであると指摘する者はこの場にはいなかった。


 情緒の薄い顔の下で必死に頭を回転させている和葉をどう思ったのか、キリアンがその背に手をやった。毎日弓を引くその手は和葉よりも大きく、骨ばっている。そして頼りになる、温かい手だ。そう初めて思ったのはネックレスを渡されたときのことである。


 男の手というものは和葉にとって恐怖の対象でしかなかった。けれどもキリアンの手はやすやすとその垣根を越えて、和葉に優しい手もあるのだと教えてくれたのだ。


 その手が今、和葉の背に触れられている。そのことを感じると安堵と共に妙な気恥ずかしさを覚えた。


「カズハ、巡回の魔術師はしばらく滞在するそうだからすぐに決めなくていいぞ」

「えっと……」

「迷ってるんだろ? なら、早く決めなくてもいい」


 和葉は結局キリアンの提案に甘えることにした。


「よく考えるんだよ」


 エングル婆の言葉を胸に、和葉は思案する。


 慣れ始めたこの集落を離れたくないという思いはある。しかしそれ以上にこれからも厄介になっていていいのかという感情もあった。ただでさえ自殺未遂を起こして迷惑をかけたのだ。集落に馴染もうといくらがんばったところでその過去は消せない。そしてその過去ゆえに和葉を嫌悪する者もいるかもしれない。


 今までは言葉がわからなかったからそれらを関知することができなかった。けれどもこれからはそうも行くまい。


 それならば、良い思い出のままこの集落を去るというのもひとつの選択肢ではないか。ひどく、自己中心的な答えだけれども、これが両者にとってベターな結末に思えたのだ。


「カズハ、あのさ」


 キリアンから今日は祭りなのだと教えられ、どうりで皆楽しそうにしているなと、和葉は準備をする男衆たちを見ていた。そこにキリアンから声がかかる。


「俺の名前ってわかるよな?」

「キリアンさん、ですよね?」

「あー……そうだけど」


 キリアンの反応から一瞬間違っていたかと青くなったが、どうやら彼が言いたいのはそういうことではないらしい。キリアンはがしがしと頭を荒っぽくかくと、なにかを決意したように和葉に透き通るようなグリーンアイズを向ける。


 この目が和葉は好きだった。濃淡の違いはあれど、集落の者たちは皆この緑の瞳を持っている。その色はいつも優しく和葉を見ていて、だから和葉はこの短い期間のうちに彼らの瞳に宿る緑が好きになっていた。


 そんな目を真摯に向けられて、和葉は緊張する。脳裏を駆けめぐるのは悪い予想ばかり。和葉は相変わらず「期待」というものができない人間であった。


「そのかしこまった口調やめて欲しいんだけど」

「……ごめんなさい」


 和葉はほとんど反射的に謝罪の言葉を口にし、言葉が通じない中で自然と身についた頭を下げるという行為をしていた。そんな和葉を驚いたような、それでいて少しだけ苦虫をつぶしたような顔でキリアンが見ていることに、和葉は気づかない。


「なんで謝るの?」

「いえ、不快にさせたかと……させたと思って」

「違うよ。ただかしこまった口調のカズハに違和感があったから。それに気安い口調の方がしゃべりやすくないか」

「……うん。まあ、そうだけど」

「そうそう。その調子でさ」


 キリアンが端正な顔に笑みを浮かべると、和葉もつられてぎこちなく笑ってみる。笑顔なぞほとんど作ったこともなく、心の底から笑った経験も薄い和葉にとって、この表情を浮かべるというのはなかなかにハードなことであった。


「それでさ、カズハが良ければなんだけど」


 そう言いながらもキリアンは居心地悪そうに目を泳がせる。


「祭りのあいだ、いっしょにいてくれないか?」

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