(2)
和葉は再び身を起こし、死に場所を求めて足を動かす。突如現れた道からだれかが来ないかと怯えたが、今のところ人影はない。道があるということは人が通るということである。和葉はこんなすぐに見つかってしまう場所では死にたくないと、きびすを返した。
しかしその瞬間、空気を切り裂くような鋭い唸り声が背後で上がり、和葉は思わず振り向いてしまう。
なにかがこちらへと向かってくる。反射的に和葉は巨木の根元に身を隠す。音の正体はすぐにわかった。
目の荒い布でできたワンピースにレギンスのようなものを履いた、年のころ十ほどの異国風の少女が泣きながらこちらへと逃げて来たのである。そして少女の耳は奇妙なほどに横に長くとがっていた。
その姿に先ほどの自分の姿が重なって、和葉は呼吸が苦しくなる。
少女の背後には黒々とした毛並みの、ゴールデンレトリーバーの三倍ほどの大きさの獣が迫っていた。その標的が少女なのだということは容易にわかった。
三つ編みに結った髪を揺らしながら走っていた少女は、しかしなにかにつまずいたのか転んでしまう。
「**!」
痛みゆえか、少女は和葉には聞き取れない声を上げる。そのあいだに黒い獣は少女と距離を詰め、今にも襲いかからんばかりとなった。
和葉は眼前で繰り広げられる非日常的な光景を傍観していたが、ふとある考えが彼女の脳裏をよぎった。
痛いのは嫌だけれど、どうせ死ぬのならだれかの役に立って死にたい。
そう思いついたときには和葉の体は動いていた。それは黒い獣が少女に襲い掛かるのとほぼ同時であった。
和葉の左肩から背中にかけて、鋭い痛みが走る。かと思えば次には右足を鋭利な痛みが襲う。一撃目には爪で背中の肉をそがれ、二撃目には右足に噛み付かれたのである。
「****!」
少女が悲痛な声を上げる。その頬は涙で濡れていた。近くで見ると人形のように美しい少女だと、いやに冷静な頭で和葉は思う。
「早く……逃げて。今のうちに……」
失神してしまいそうなあまりの痛みに和葉の額には脂汗がにじむ。しかし異国風の少女には日本語が通じないのか、和葉の腕にすがって離れない。和葉は舌打ちをすると少女の肩を突き飛ばす。驚きに目をつむった少女はしかし、気づくとまた和葉の元へ戻ってこようとする。
「私はいいから逃げて!」
そう言っているのに少女には通じないらしい。鼻を鳴らして泣きじゃくりながら、背負っていた木のかごから枝を取り出すと、それで和葉の足を噛み切らんとする黒い獣へと向かっていってしまう。
「来ないで!」
それを手で制そうとするも、腕が上がらない。わずかな休憩のみで山を歩いていた和葉にはほとんど体力が残っていなかったのだ。そこに加えてこの獣の襲撃である。気力はもはや、ついえそうになっていた。それでもどうにか少女だけは助けたくて、和葉は必死で意識を繋ぎとめる。
と、そのとき。
「アリラ! ***!」
空気を震わす凛とした声が森の中に響き渡る。その瞬間、少女はびくりと肩を揺らしてやっと黒い獣から離れた。そうするやなにか棒のようなものが中空から落ちてきて、黒い獣の脳天を貫く。それに驚いて和葉までもがびくりと体を揺らしてしまった。
斜面をすべり落ちてくる音がし、その方向を向けば少女と同じくひどく整った顔立ちの異国風の青年が――これまた奇妙にとがった耳の持ち主である――、こちらへ駆け寄ってくるところであった。服の布地は少女と同じく荒い目が目立つベージュのもので、彼は弓を携え、矢筒を背負っている。その腰にはウサギらしき耳の長い小動物の死体がぶら下がっていた。
いよいよ妙なことになったなと和葉は痛みにうめきそうになりながら考える。
和葉はその諦念し切った頭でその考えへとすでにたどり着いていた。すなわち、ここが日本ではないという考えに。そうして考えるのだ、もしかしたら自分はもう死んでいるのかもしれないし、あるいは死ぬ前になにかの役に立てという神様の思し召しというやつなのかもしれない、と。神様なんて信用したことはなかったが。
青年は和葉に駆け寄るとその無残な足の様子を見て顔をしかめる。その瞳は美しいグリーンだった。若葉のように生き生きとした緑である。髪の色も少女と同じく金色で、よく見れば少女も青年と同じ緑の瞳をしていた。もしかしたら兄妹なのだろうか。
そこまで考えて和葉は少しうらやましくなった。自分の危機に駆けつけてくれる兄。そんな存在がいればどんなに心強かっただろう。考えても、仕様がないことなのではあるが。
こんな風に和葉が現実逃避に走っているのは、ひとえに痛みから逃れるためである。横目で自分の右足を見れば、白いものがちらりと見えてぞっとし、すぐさま視線をそらしてしまう。これから死ぬというのに、しかし自分の怪我の惨状を見るのは和葉には恐ろしかった。
青年は少女となにごとかを話しながら、和葉の傷口の上を縛り上げる。そうして止血すると和葉の前に座り込み、どうにか彼女を背負おうとしているようだった。
「放っておいて」
和葉はそう言った。このまま怪我を放っておけばいずれ和葉は死ぬだろう。それはとても痛みを伴うものであろうが、死ねるのならばもうなんでも構わなかった。むしろ少女を助けられたという自己満足に浸りながら死ねるのは悪くないと、そう考えてさえいた。
「*********?」
「*******。*******、************?!」
「**、*******」
相変わらずこの青年と少女がなにを言っているかはわからなかったが、どうやら和葉を助けようとしていることだけは伝わってきた。それは今の和葉には余計なお世話というやつである。和葉は青年の背を押してジェスチャーで助けはいらないと伝える。
しかし青年はあきらめず、ついには和葉の膝裏に腕を通して彼女を抱き上げてしまった。こうなってしまえば抵抗はできない。なにより青年のほうが和葉よりもずっと体格がいいのだ。
ここへ来て、和葉はこの先どうなるのだろうと不安を抱いたが、すぐに死ねばなにもかも問題がなくなることに気づいて安心した。そしてそう考えると体の力が抜けてしまう。和葉は自分も気づかぬうちに意識を取り落としてしまった。
*
「気を失ったようだな」
金髪に緑の瞳を持つ青年――キリアンは、髪を三つ編みに結い上げた妹のアリラといくつかしか年の変わらぬ少女を抱き上げ、そうつぶやく。少女の足の怪我にばかり目が行っていたが、抱き上げてみると背中がぬるりとすべり、そこも肉がそげるように爪あとが残っていることに初めて気づいた。
平素の狩りであればゴーダ――黒い獣の名である――の肉を持ち帰りたいところではあるが、今はそれどころではない。一刻も早く集落に戻ってこの少女の手当てをせねばならなかった。
キリアンが妹のアリラと少女に気づいたのは偶然である。狩りの獣を追って進んだ先でアリラと獣に食われかけている少女を見つけたのは幸いと言っていい。
アリラによるといつものように枝拾いをしていたら獣が急に姿を現したとのことだ。いつもよりも深い場所に入ってしまったのかと思えばそうではないらしい。どうも先の冬が暖かかったせいで獣の数があまり減らず、縄張り争いに負けた個体がいつもならば来ない場所まで入ってきてしまっているようだ。これは集落に帰ったら長に報告せねばなるまい。
そう思いながらキリアンはアリラをかばってくれたという少女の顔を見下ろす。あまり日に当たったことがないような色の白い少女だ。手足は棒のように細くいっそ不健康である。まぶたを縁取る黒々としたまつげは長く、同じように短めに切った髪も黒い。白い肌と黒い髪のコントラストが美しいと、キリアンは柄にもなくそう思った。
「お兄ちゃん、だいじょうぶだよね?」
「さっきから何度も言わせるな。助けるためにこうして運んでいる」
先ほどから何度も同じ言葉を繰り返す妹に少しだけキリアンは大人気なく返す。すると妹の目にはたちまちのうちに涙の膜が張ってしまい、キリアンは面倒だと思うのだ。たしかに獣に襲われていたときは肝が冷えたし、そう思うくらいには可愛がっている妹ではあるが、それはそれ、これはこれである。
キリアンはため息をついて足早に歩を進めながらも妹をなだめすかしにかかるのであった。
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