深緑の思慕
やなぎ怜
(1)
寝苦しさと体に残る鈍い痛みに、
ああ、まだ死んでいない。
安堵とも落胆ともつかぬ感情の中で、和葉はただ機械的にそんな感想を抱く。
ぐっと上半身に力を入れて起き上がる。背には固いながらも冷たくはない感触があった。そして頭上からは葉のこすれあうざわめき声が降ってくる。周囲に目をやれば、和葉は見たこともないような巨大な木の根元にもたれかかっていた。
巨大なのは和葉が背を預ける木だけではなく、辺り一帯の木々は気がつけば雨後のタケノコのごとく背を伸ばしている。一瞬のうちに和葉は違和を理解したものの、すぐにどうでもよくなった。
まぶたを閉じる前に見た光景のような、和葉の三四倍どころか十倍以上の背丈に木が生長していることも、盛夏を迎え雑草が繁茂する道なき道をわけ入ったのに、獣道どころか明らかに人の手の入った道が眼前にあることも、どうでもよかった。
和葉はこれから死ぬのだ。死にさえできるのであれば、なにかが瞬きのうちに変わっていたとて、関係のない話であった。
覚醒したことで、またも和葉の体はずきずきと痛み出す。これはめまぐるしく変わる母親の「彼氏」から振るわれた暴力のせいなのだが、こんなのは和葉にとって珍しくはなく日常であった。
幼いころから顔を覚える前に変わっていく彼らから虐待を受けて育った和葉は、いささか情緒に欠けた子供に育った。そうやって感覚を鈍化させなければとうてい虐待とネグレクトの渦の中では生きて行けなかったからだ。
死への欲求は幼いころから持っていた。いつごろからかは定かではないが、気がつけば和葉は常に死ぬことを考えていた。
死。それは終わりなき暴力と生きるということへの重労働からの解放を意味する。だから和葉は死という幻想に対して、一種憧れめいたものを抱いていたのだ。
それでも生きていたのは、母親にとって自分はなくてはならない存在だと思っていたからだ。抑鬱の症状がひどい母親は薬が手放せず、しかし薬を得るためには働かなければならなかった。そうでなければ金づるとなる男をくわえこむしかない。そういうわけで母親は常に男を途切れさせたことがなかった。
だが実態はと言えば、母親が男たちを手玉に取れていたとは言いがたく、むしろ彼女は搾取されていた。金銭的にも、性的にも。
ときには丸一日使い物にならない母親の代わりに身の回りの世話をしていたのが和葉だ。母親のためにご飯を用意して学校に行くのが彼女の日常の一部である。その「ご飯」というのもなんということはない、たいていはカップ麺かそうでなければレトルト食品である。
和葉は己の現状に絶望しきっていた。年を経るごとに周囲と自分の違いが顕著に理解できるようになるから、その絶望は長ずるごとにより深くなっていった。それでも、それでも和葉をこちらへとつなぎ止めていたのは母親の存在であった。
ママには私が必要なの。ママは私がいないとダメなの。
幼いころからそうやって自分自身に言い聞かせて、和葉は過ごして来た。
それで、彼女が母親に愛されていたかと言えば、そういうことはない。和葉の母親はどうやっても母親には向いていない人間だった。すなわち子供を産むと言うのがどういうことなのか、子供を育てると言うのがどういうことであるのか、子供を持つ責任とはいかようなものであるのか、彼女はその一切を理解していなかったし、理解することを拒んだ。
だから学校関係の行事に母親が顔を出したことはない。和葉が中学に上がってから行われた三者面談にも顔を出さず、和葉は気まずい思いをした。
そして当然のごとく和葉は周囲から孤立していた。
それでもがんぜない子供の時分は、相手も和葉の家庭の事情なぞ頭の端にも上らせなかったから遊び相手はいたものの、長ずればそうはいかない。親からあの家の子とは遊ぶなと言われるだろうし、また和葉の異質さにも同級生たちは徐々に気づき、そのことをあげつらって和葉を傷つけることに精を出すか、そうでなければ彼女を無視した。
親しい友人というものは和葉にとってほとんど空想上の存在と言って良かった。善人のかたまりのような人間もいないことはなかったものの、彼女らは和葉の友人たり得ることはなかった。和葉の日常は彼女らにとってはいささか不健全すぎるのだ。じきに彼女らは和葉を見放して他の友人たちと友誼を深めていくのが常であった。
やがて和葉も中学三年生になった。
このころになってもまだ、和葉は母親への愛情を捨てていなかったし、母親は自分を愛しているのだと思っていた。いや、そう思い込んでいた。
「ママ、進路相談なんだけどさ」
「……和葉、あとにしてくれない? 今日調子悪いのよ……」
抑鬱剤のパッケージが転がる机の上に、和葉は力なく「希望進路」と書かれた紙を置いた。
和葉の家の経済状況では進学は無理だろうとわかっている。ただでさえ母親の毎月の薬代で家計が圧迫されているのだ。それに加えて母親が「彼氏」に求められれば際限なく金を渡してしまうせいもあって、和葉の家の家計は常に火の車である。
その日も和葉はカップラーメンで夕食を済ませると、ふすまで間仕切りされた部屋のひとつに引っ込んで課題に取りかかった。
母親の「彼氏」が和葉の家に寄ったのは、母親が仕事のために出勤して行ってからである。
「『希望進路』? 風呂紹介してやろうか?」
「彼氏」の男は机の上に放置されていたそのわら半紙を見てそう下卑た声で言う。和葉はなんといっていいのかわからずに「ママと相談するから」とだけ言った。
和葉はこの男が苦手だった。やたらと和葉にべたべたと触ってくるし、その手はいつだって和葉にとって不快な部分を撫でて行く。
その手つきの意味を理解できないほど和葉は初心ではなかった。だからこそいっそう、男に対する不快感と不信感は増し、できればふたりきりにはなりたくないと思っていた。
そしてまだ十四の和葉に性的な話題ばかり振ってくるのも、彼女がこの男を嫌悪する理由のひとつである。
和葉は物心ついたころから布団の隣や、ふすま一枚隔てた向こう側で母親があえぐ声を聞いてきたのだ。その声を聞くたびに和葉はどうしようもなく不安になって、泣きたくなった。母親に一度止めて欲しいと伝えたことがあったが、母親は和葉の声など聞こえていないように振舞って、それから一度もそのようなことは言ったことがなかった。
それでも暴力を振るわないだけこの男はましだと、和葉はその日まで思っていたのだ。
「男の人と話してちょっとヤるだけでお金いっぱいもらえるよ? 和葉ちゃん、欲しいものとかあるでしょ? もう中三だもんねえ」
「いえ……ないです」
「そんなことないでしょ? 周りの子とかおしゃれして化粧とかしてるのいいと思ったことない?」
「ないです……」
その日の母親の「彼氏」は一段としつこかった。ついには和葉の肩に手を回すとその胸に遠慮なく触れてくる。全身を嫌悪感が走り回り、和葉は憤怒の発作に襲われたが、それでもその一線を超えることはできなかった。そうしたとき、どうなって帰ってくるのか、今までの経験から容易に想像できたのだ。
「あの、やめてください。まだ課題終わってないんです」
「ねえ和葉ちゃん、ウリ、やんない?」
「それはちょっと……」
「いい相手さー、紹介するよ? 和葉ちゃんカレシいるのかな? 黙ってればわからないし、和葉ちゃんならお小遣いたくさんもらえるよ?」
「あの、そういうの、だいじょうぶですから……」
和葉はいつもとは違う様子の男に、いよいよまずいと思い始めていた。
和葉は母親の「彼氏」たちから暴力を振るわれて育ったものの、奇跡的に「その手」の暴力は受けたことはなかった。それでも動物的直感で和葉はこの先の展開を予見することができた。
はたしてそれは現実のものとなる。
「一回おじさん相手にやってみよう? もちろんお小遣いあげるから、ね? でも
そう言って男が和葉におおいかぶさって来たのである。いくら予想していたとはいえ、なにせ和葉はまだ十四の小娘である。大の男からこのようなことをされれば、当然不快感や怒りよりも恐怖心のほうが勝ってしまう。成人した女性ですらとっさには抗えない恐怖を、十四の身が体感しているのだ。
男は和葉が着ていたよれよれのTシャツのすそをまくり上げ、何度も洗濯したせいで疲れ切ったスポーツブラの上から胸を揉みしだく。
男の息は荒く、その口臭に和葉は吐き気を催した。
「和葉ちゃんもしかして初めてなのかな?」
ジャージのズボンを引きずり下ろそうとしながら男は鼻息荒く言う。そこに来てやっと和葉は我に返ることができた。
どうにかしなければならない。どうにかしてこの状況を打破しなければならない。そうは思うがどうすればいいのか和葉はわからなかった。力では男には勝てはしない。なら、どうすれば?
そう考えているあいだにも男は股間を和葉の太ももにすりつけた、その瞬間、和葉の嫌悪感は爆発する。
「いやっ! やめて!」
「おいっ、声出すな!」
「いやーっ! やめて! やめてよっ! だれか! だれかーっ!」
この声を聞いて住民が警察に通報してくれないかと淡い期待を抱いたところで、和葉の顔面に衝撃が走る。ついで鈍い痛みがあとから湧いてきた。
「オラ! 暴れんじゃねえぞ! ブッ殺すぞ!」
男は和葉の顔だけでなく、頭に血が上ったように体中をむちゃくちゃに殴り始めた。
殺される。
そう打撃から身を守るために体を丸めた和葉の目にハサミが飛び込んできた。百円ショップで買った、緑色の柄のハサミだ。夕食にカップラーメンを食べたとき、そのパッケージを剥ぐために使ってそのまま出しっぱなしにしていたのだった。
一瞬のうちに和葉は打算的な計算をした。ハサミの先端は安全性を考慮してか丸くなっている。これなら容易に死ぬことはないだろう。そう、たとえ和葉がその先端で男を殴りつけたって。
和葉は暴力の合間にハサミへと手を伸ばし、次の瞬間には男の頭めがけてそれを突き出していた。
なにか、ごく柔らかいものをつぶしたような感覚がハサミから伝わってくる。男が絶叫し、和葉は身を起こして男の下から抜け出した。そうして一目散に玄関を目指し、アパートの廊下に出ると後ろを振り返ることもなく金属製の簡素な階段を駆け下りて行った。
「ママ……?」
緑地公園でようやく見つけた公衆電話に入る。十円玉は途中の自販機の下を漁って手に入れた。そうやって金を拾って自分のものにすることを、幼いころの和葉はよくしていたのだ。それをしなくなったのは、それが非常識なことだと大きくなって知ったからである。
記憶していた母親の勤務先の番号を押して、母親を呼び出してもらう。電話口に出た母親はひどく鬱陶しげな声で和葉の声に応えた。それでも和葉にとっては安堵を得るにはじゅうぶんで、母親の声を聞いた瞬間泣き出してしまう。
「どうしたのよアンタ。アタシ仕事があるんだからね。邪魔しないでよ」
「ママ……ママの、ママ、あの人にひどいことされた……」
「はあ?」
「だから……あのね、ママ、あの、レイプされそうになった……」
和葉のまなじりからはとめどなく涙がこぼれ落ちる。鼻を鳴らしながらどうにかそれだけ言った和葉は、しかし耳朶を打つ母親の声に言葉をなくした。
「警察にはいかないでよ?」
「え?」
「『え?』じゃないでしょ。そんなことしたらあの人捕まっちゃうじゃない」
「あの人ひどいことしたんだよ! ママ! 私はどうでもいいの?!」
気がつけば和葉はヒステリックにそう叫んでいた。母親はうんざりしたような声で、今しがた男に襲われた娘との会話を打ち切らんとする。
「ママ仕事に戻らないとダメだから切るわよ」
「待ってよママ!」
「いい加減にしなさい。それくらいで騒ぐんじゃないのよ。ホント昔からアンタはちょっとしたこでギャーギャー騒いでうるさいんだから。こんなんだったら産まなきゃ良かったわ」
そこで電話は途切れる。通話を終了した音が響き渡ると同時に、和葉は自分の中のなにかが壊れて行くのを感じた。
和葉が幻想し続けていた愛情と言う名のものが、実のところ空っぽなのだと、彼女はようやく理解したのだ。そうなれば死への欲求を止めるものはもはやなかった。母親にとって自分は必要なのだと、愛されているのだと思うことで退けていた死への憧れは、もはや隠し切れないものとなったのだ。
だから和葉は学校の近くにある山へと分け入り、手ごろなツタを調達すると死に場所を求めてさまよった。しかしそれでもちょうどいい枝振りの木が見つからず、そのうちに疲れてきて木の根元に座り込み、いつの間にか寝入っていたのだ。
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