(3)
「カズハ」
傷の手当てを終え、目を覚ました少女から聞き出せたのは本人の名前らしいことだけ。当然だ。なぜならばこちらには彼女と通じ合わせる言葉を持ち得ていないのだから。
カズハは異国の少女なのだろう。その証拠に身につけているものは見たことがなったし、子供でも女ならば髪を長く伸ばす風習をもつこの集落ではカズハの風体は異質である。黒い髪は短く切られ、くたくたによれてはいるものの、手触りの良い布で仕立てられた、一見すると縫い目の見えない不思議な服を着ていた。
そしてなによりも集落の女たちと違うのは、カズハは笑わないということである。ただ情緒薄くぼうっとしていて、こちらの言葉を理解しようとするそぶりすら見せず、身振り手振りで伝えようとする努力を汲み取る姿勢がなかった。
それはなにもかもをもあきらめているようにすら見え、キリアンには不気味に映る。それと同時にそんな風に他者への理解を示さないカズハをキリアンは不憫に思った。
アリラをかばったのだ。そのうちに良心がないというわけではないのだろう。しかし獣に襲われても叫び声ひとつ上げず、アリラによると彼女を逃がすために突き飛ばすことすらしたのだ。なぜ縁もゆかりもない者を相手にこのようなことができるのかはわからなかったが、カズハには語る言葉がないのでその真意を問いただすことはできない。
そして身振り手振りを経てどうにか引き出せた言葉が、自らを指差してのひとこと「カズハ」である。恐らく彼女の言語圏における「私」という意味か、そうでなければそれが彼女自身の名前なのであろう。名無しというのも不便であるから、キリアンたちはこの突如降ってわいた訪問者のことを「カズハ」と呼ぶことにした。
「カズハだっけ……あの子。体中にあざがあったよ」
カズハの手当てをした産婆も兼ねている老婆は、カズハを寝かせた部屋から出て来てそう言った。
部屋と言っても布で間仕切りした程度の簡素な空間である。キリアンたちの種族は木のうろが多くできるこの森で集落を形成し、うろの中を家として男たちの狩猟と女たちの手芸で生計を立てている。余った分を巡回の商人に売り、また森では採れないものを商人から買っているのであった。
家としている巨木にできた、木のうろのひとつ、そのふちに腰かけていたキリアンは産婆の言葉にわずかに目を見開いた。
「それは本当か?」
「まあ、見せるわけにゃあいかないけどね。嫁入り前の肌だろうに。あれはひどいものだよ」
産婆はしわくちゃの顔をさらにけわしくさせる。
「傷は……残りそうか? それに足は」
キリアンがそれ以外に気になったのは、カズハの傷である。背中に大きくついた爪跡と、右足の噛み跡。噛み跡――とは言ったが、あれはもうそういう程度のものではないことはキリアンにもわかっていた。無残にも肉はえぐれ、骨が見えてしまっていたのだ。歩行に支障を来たしはしないかと心配していたのである。
「足はきれいに傷が入ったから回復すれば歩けるようになるだろうよ」
そのひとことにキリアンは胸を撫で下ろす。しかし産婆の表現にひっかかりを覚えた。
「『足は』?」
「残念だけど傷は残るだろうね。背中は見せなきゃわからないだろうけど、右足はねえ……あれはひどく跡が残る」
キリアンは頭を殴られたような気分になる。
キリアンの一族は女は家に残って刺繍や縫物をしてそれで生計を立てる。それ以外に家事や火をおこすための枝拾いなどもするが、基本的に集落からは離れずに暮らす。そうであるからその肌に大きく傷がつくことはない。狩猟を生業とする男とは違って。
そうであるからキリアンにとって女に一生ものの傷が残る、というのは大変衝撃的で、それでいて痛ましい宣告であったのだ。
「どうにかならないか?」
気づけばキリアンはそう問うていた。アリラを助けてくれた恩人なのだ。感謝してもしきれないというのに、傷をつけて返すことになることを考えれば申し訳なくて仕方がなかった。
産婆はキリアンの言葉に顔を横に振った。
「あたしもどうしにかしてやりたいけどねえ。こればかりはどうにも。魔術師じゃないもの」
「そうか、魔術師なら」
「巡回の魔術師が来れば言葉も通じるようになるだろうし。巡回待ちだねえ」
キリアンの住むこの世界には魔術師という職種がある。それはほとんど医者と同義の意味であった。彼らは他者を癒すことを教義にすえた一種の宗教団体でもあり、それゆえに点在する村々を巡回しては作物やらと引き換えに治療術を施してくれるのである。それでも常にひとつの場所にとどまらない彼らであるから、この老婆のような治療者は村には必須であった。
他にも魔術師は種々の魔術を使いこなす。そのうちには異国の人間と言葉を通じあわせることのできる術もあると言う。
なんによ、産婆の言う通り巡回魔術師が来るまではせめてこちらで世話をしよう。キリアンはひとりそう決意する。
キリアンの父は早くに他界し、長じてからキリアンは一家の大黒柱として家族を支えていた。そうであるから彼は人一倍責任感が強いのである。そういった背景もあって、キリアンはしばらくは足が不自由であろうカズハの世話をしなければと強く思ったのであった。妹がいることもそうさせた一因であろう。
「それにしてもカズハはどこの国から来たんだろう。流し商人の一団でも見たことがない恰好だった」
「あまりそういうことは詮索するんじゃないよ、キリアン」
「わかってるよ」
「……あの子、もしかしたら奴隷商に売られかけたかもしれないね」
そう言われると、体中にあざがあることにも納得がいく。見かけない服を着ているということは、それほど遠くから連れて来られたということであろうか。
奴隷というものはキリアンの集落には存在しないものの、外の世界――すなわち人間の世界にはいることを知識としてだけ知っていた。キリアンの一族は人間に酷似したエルフと呼ばれる種族である。そして人間は自分たちに似た姿の存在を奴隷にしたがるらしく、ときたま無法者の集団がエルフの村を襲うこともあった。
キリアンの父もアリラを腹に宿していた母をそういった人間たちから守るために命を落としている。
かといって人間が憎い、と思ったことはなかった。巡回の魔術師のように種族の垣根など関係なく手を伸ばしてくれる人間はいたし、流しの商人たちはたいてい抜け目ないが気の良い人間が多い。それに奴隷を必要としていない国もあると聞くから、人間は様々なのだとキリアンはごく普通に解することができた。
「お兄ちゃん!」
産婆を見送るためにうろから出ると、食事の支度をしていたアリラが飛んでくる。近頃急激に体が成長してきてはいたが、こういうところを見るとまだ子供である。そう考えるとほほえましく、キリアンはアリラを抱きとめた。
「カズハはだいじょうぶ?!」
それで次にアリラは産婆にそう問うた。産婆は微笑んで「このままならいずれ回復するよ」と穏やかに言う。そうするとアリラは傍目に見ても明らかにほっとしていた。己を助けてくれた恩人なのだ。その身を案じるのは当然とも言える。
「それよりもアリラ、食事はちゃんとカズハの分も用意しただろうな?」
「ちゃんしたに決まってるでしょー?」
産婆を見送った後、兄妹の気安い会話を繰り広げながら、キリアンは食事をうろの中へと運ぶ。用意された木のボウルは三つ。なんだか母がいたときのような気になってキリアンは思わず感慨深げに用意された食卓を見やる。
母はアリラを産み落としてから産後の肥立ちが悪く、すぐに父の元へと逝ってしまった。生まれたばかりの妹を抱えたキリアンは集落の人々に支えられながら成長し、今では集落一とも呼ばれる弓の名手になった。それでもまだ心のどこかでは母のいたころを懐かしく思う子供の自分がいる。
そのことでアリラを恨んだことはないが、それでも家族四人そろっていればと思わなくもない。
そこでキリアンはふと思った。カズハがここにいるということは、当然ながらカズハにも父や母と呼べる人間がいるということである。今、彼女の家族はどうしているのだろう。カズハがどうにも情緒に薄いのはそれほどひどい目に遭わされたからなのではないか。
そう考えるとどうにも怖気が立って、キリアンは考えるのをやめた。産婆からも詮索はするなと釘を差されたばかりである。このことについては聞かない方がいいだろうし、そもそも言葉が通じないのだ。あれこれと問い質すのには無理があった。
カズハは食事中もずっと黙ったままだった。食事も口にあわないのか食欲がないのかは知れないが、あまり進みが良くない。アリラが言葉が通じないながらもあれこれと話しかけたが、カズハは聞いているのかいないのか、良くわからなかった。ただたまにアリラの身ぶり手ぶりに小首をかしげる程度である。
傷が痛むのかと思えばそうでもないらしい。表情は暗いが、痛みに耐えているという風ではなかった。ただただ、カズハは己の殻に閉じこもって思索に耽っているようであった。
その姿がなんとなく嫌で、キリアンはあまりカズハの方を見ずに食事を終える。なぜその横顔に嫌なものを感じたのか。それは死期の迫ったことを自覚したキリアンの母に似ていたからである。そのことにキリアンはあとで気づくのだが、このときはまだそのことに思い当たることはなかった。
キリアンが外に作ったかまどの火を消していると、後片付けをしていたアリラがうろから落ち着きをなくして飛び出して来た。
「お兄ちゃん! カズハがいないよ!」
その声にキリアン以外にも外で作業をしていた男たちが顔を上げる。火を消す作業は男の仕事なのであったから、夕食を終えた時間帯には多くの男たちが木のうろでできた家の外に出ていた。
「キリアン、あの子がいなくなったって?」
「怪我をしているんだろう? 夜の森は危なくないか?」
アリラを助けた少女の話はすでに狭い集落にじゅうぶん行き渡っており、産婆と同様に奴隷商から逃げ出して来たのではと思っている者も少なからずいたようである。
そして男たちはまた売り飛ばされるのではと危惧してカズハが逃げ出したのではないか、と話し合っていた。
夜の森は危険だ。獣以外にもよからぬ人間が跋扈している。すなわち野盗のたぐいや、夜のうちに森を通過してしまおうというすねに傷を持つ者たちである。そんな者に行きあったら、怪我をしているカズハなどひとたまりもないだろう。
そう考えるといてもたってもいられず、キリアンは家に戻ると弓矢をつかんでうろの外に飛び出した。
「俺、捜してきます」
「キリアンひとりじゃ危ないだろう、俺も行くぞ」
「俺も。アリラを助けてくれた恩人だ。危ない目に遭わせるわけには行かねえ」
キリアンの行動に触発されて、男たちが名乗りを上げる。それでも集落を留守にするわけにはいかないので、カズハを捜しに行くのは一部の者たちにとどまった。キリアンはそのことに多大な感謝の念を抱きながら、カズハを捜して森の中へと駆けて行った。
森の奥深く、木のツタで首を吊っているカズハを見つけたのはそのあとのことである。
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