とある映画館にて

久しぶりに空を眺めた。

朝の五時過ぎ、夜の十一時過ぎの空を眺めた。


朝の五時、東京の空は案外に暗かった。

夜の十一時、その空は意外にも明るかった。

朝という多くの人にとって憂鬱であろう始まりは、それほど苦しくないのかもしれない。夜が明けたなかで、確かに夜の匂いが残っているから。

反対に、夜という多くの人にとっての憩いの終わりは、仄かな暖かさがある。

街の明かりを吸い込んだ空は知る人ぞ知る贅沢のように感じられる。

星の見えない空ではあるが、そこには確かに人の息遣いがある。


時間によって、空は様々な表情を見せる。

朝の三時過ぎ、灯りを消した部屋は青く染まり、その時間だけは夜と朝が交わる。

思えば、空は映画館のシアタールームに似ているのかもしれない。

朝の三時過ぎ、それは始まりの少し前。

広告が始まる前に照明が落とされていくあの時間。

朝の五時過ぎ、それは広告の時間。

人々が映画の始まりを待つ時間。徐々に没入していく時間。

朝の七時、一日の始まり。

映画が始まる。人々の群像劇が映写されていく。


夕方になれば、退紅を湛える空が眩しい。

人生における感傷が、日常に根付く哀愁がありありと描かれる。

疲れ切った身体を照らす光が、希望に思えてしまうことだってある。

何処か寂しくも清々しい、名作のようなクライマックスだ。


そうして夜になっていく。

映画はエンディングを迎える。

夜の十一時は、映画の終わった直後に緩やかに明るくなった空間。

すっきりとした心持ちであるのに、名残惜しい。

あの満ち足りた空気のようだ。

前向きな活力と僅かばかりの後ろめたさを、溶かし誤魔化したもの。

人々の息遣い、美と醜を撹拌したものが、あの夜空に感じられる。

やがて朝になり、またも始まるのだ。


そして、映画は何度も上映される。

ロングランなんていうのもある。

何も変わらない日常は、内容の変わらないまま繰り返し上映される映画のようだ。


一人の人間の人生を映画と呼ぶのは憚られるが、多くの関わりに生きる人々の人生こそはまさしく映画だろう。

何処かにいる観客の感情が空へ宿り、私たちは時折その色を知ることが出来る。

だからこそ、空の色を見て何かを感じることがあるのだろう。


私たちは観客であり、演者である。

空を見上げて、どこかの誰かに想いを馳せて、日常を生きていく。

今日に見上げる空は、どんな色をしているだろう。

時折、見上げてみるのもいいかもしれない。

その色を知るのは、見上げた者だけなのだから。

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