救済の技法とその対価。

「志村けん」が死んだ。唐突だった。

実感がなく、人の死を改めて考えさせられる。


今、コロナウイルスが世界的な脅威として報道され、著名人でさえ死に至った。

多くの人間が彼の死を悼み、思い出に花を咲かせている。

記録の中での彼は、感情があり、動き、呼吸し、一人の人間として存在している。

一方で、現実の彼は、もうすでに死んでしまったのだ。

もうこれ以降の記録には、生身の彼は存在せず、記録の中に再生された記録あるいは記憶として存在していくほかにない。

「生きていた頃の故人が、記録の中に生き続ける」ということは、文明の生み出した素晴らしい成果ではあるが、どこか違和感を拭わずにはいられない。


人の死とは何だろうか。

生身の人間が死ぬことだろうか。はたまた記憶からも忘れられることだろうか。

私は後者のように思える。

人は時折「あの人は私の中で生きている」と考えることがある。

だが、その人物があなたの中に生きているのだとすれば、わざわざ記録媒体を見返す必要はないのではないか。

人間は忘れる生き物だ。ひと月前に交わした何気ない会話を覚えている方が少ないし、昨日食べた夕食ですら覚えているか怪しい。

だからこそ、記録媒体を見返して、自分の過ごしてきた時間に存在している故人を思い出すのかもしれない。

たしかに、その気持ちはわかる。

しかし、私はそこに違和感を覚えるのだ。

人間は延命治療の手段を手に入れた。

そして、それは医療の現場だけではない。記録媒体にも言える。

仮に、人間の死が記憶からも忘れ去られた時だとするならば、記憶媒体に残り続け、あなたの中に生き続けるために再生され続けることは、紛れもない延命治療のひとつではないか。


所詮は人間のエゴだ。この違和感でさえエゴだ。

何万人、何億という犠牲の上に成り立っている今日だとしても、その犠牲を救うことなど叶わないし、その犠牲に想いを馳せることもない。そういう話だ。

日常でふと思い出し、故人を再生する。ずっと頭の中にあるわけではない故人を再生する。そして感傷なりに浸る。そういう話だ。

だから、あなたが故人を思い出して、記録による延命治療を繰り返すこと自体を否定するつもりはない。私だって、そういう時がある。


では、なぜこんなことを書いているのだろうか。

生きているはずの私たちが、死者にばかり目を向けている気がしたからか。

その死を悼みはするが、すぐさま何も変わらない日常に戻るからか。

そんな自分に辟易してしまっているからか。


いいや、違う。

壊れてしまった私を直すためだ。そして、言い訳を見つけるためだ。

エゴによる私の愚行について、故人に対するせめてもの懺悔なのだ。

そうやって言い訳を繰り返していくのだ。

私にとって、彼らはそれだけ偉大で、私の日常に花を咲かせてくれたのだと。

どうしようもない一人の人間に、忘れたくないと思わせるほどの偉業なのだと。

そして、こんな思いを吐露することしかできない私を生かすために。


私は私を生かすために、あなたを延命させるだろう。

私の中であなたが死を迎えるのは、きっと私が死ぬときなのだろう。

許してほしいとも思わない。所詮は私のエゴに過ぎない。

私は灯りに群がる蛾に過ぎないのだから。

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