斜陽ゾンビ

大人になることを望んだ幼少の頃。

舗装された道路に散りばめられたビンなどの破片や、人のいなくなった建物にさえ、興味や価値を見出していたあの頃を思い出しては、去来したある寂しさを紫煙に解いていく。

僅かばかり残された思い出を辿って、もう一度触れてみるが、あの得も言われぬ高揚も輝きも、最早どこにもないのである。

たしかにあったはずの感覚は、今はすでに掌から零れ落ちてしまった。

齢二十一、三月を前にしてそのようなことに想い馳せるのは、ある種の郷愁に憑りつかれているからだろう。


「大人になる」とは何だろうか。

自分で金を稼ぎ、その日を凌いで生きることか。

はたまた、家庭を持ち、堅実な生活を心がけることか。

そうは思わない。

過去を置き去りにし、ふと思い返すこの瞬間こそが、大人になった唯一の証なのだろう。過去を羨み、もう手に入らないと寂しさに打ちひしがれるこの瞬間にこそ、大人になってしまった自身の無力さを噛みしめているのだろう。

そうした自己憐憫が、私たちの在り方を浮き彫りにしてしまっている。

日々に追われ、その日の飯代を考えては、汗水たらして金を稼ぐ。

家に人のあるなし関わらず、身支度を済ませ眠りにつく。

慰めとなるのは常に消耗品ばかりで、埋まらない寂しさを誤魔化していく。

仕事だなんだと、やらなければならないことに砕身するばかりで、したいことが分からなくなっていく。それが「大人になる」ことのように思えてしまう。

無論、それ自体はとても立派なことで、若輩者からすれば尊敬の対象ではあるのだが、些か悲しい。

「大人になること」を求められ、やがて大切な何かを忘れてしまうことが悲しい。

今だって幼いあの日々を忘れかけている。

あの頃に確かに持ちあわせていた純粋さを、その凶暴さも、輝きすらも忘れかけている。

そして、寂しさのあまり過去に囚われてしまえば、渇望していた「大人」とのズレに己が身を切り裂くことになる。

その傷口をまた癒そうと憐憫を重ねて、ふわふわと何処かへ飛ばされてしまう。

素直に涙することさえも忘れて、重たい足で藻掻いて歩く。

それでも、世はなべて事もなし。

悲しいかな、自己憐憫はやがて否定に繋がっていく。だのに世間は何も変わらない。

自分だけが世界から浮いていき、ひっそりと消えていく。

ちっぽけな身ひとつでは、失ったものを取り戻すことさえできない。

そうやってまた憐憫から否定へと走る。


多くの大人たちは透明な血を流して歩く。

生きていくために、傷口を、痛みを忘れようと懸命に歩く。

ゾンビとは、私たちのことをいうのかもしれないと、ふと思う。

ゾンビは二度の死を与えられる。

私たちは二度の生を与えられ、一度の死を義務付けられている。

おそらく、純粋なまま真っ直ぐに生きる人が眩しいのは、本来「大人になる」ということ自体が斜陽にあるからではないのか。

ともすると、幼少の頃に持ちあわせていた純粋さは、一種の狂気なのかもしれない。

そう嘯いて、私は過去と郷愁を振り切ろうとする。

なんと狡い人間になってしまったことだろうか。

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