生きるということ

「生きる」とは何か。

それは使い古されたテーマでありながら、今も誰かが胸中に抱えるものだろう。

私もそのうちの一人だ。そもそも「生きる」とは何か。

生命維持活動をすることでも、性交渉をすることでもない。

では、いったい「生きる」とは何だろうか。


私たちは、幼少期から小学校、中学生辺りまでは夢を応援される。

どれほど無謀な夢であっても、あるいは金にならない夢であっても。

しかし、高校生になると、現実を直視することになる。

あれほど夢を応援していた誰かは、もうどこにもいない。

自分らしい生き方だの、自己啓発の文句だけが夢を語っている。

次第にその言葉が空虚に思えて、諦めが漂い始める。

成功者は才能があったのだと、その一言で片づけてしまえる。

それが日常になり、金を稼ぐことが「生きる」ことになる。

だが、才能自体は誰にでもある。

才能というものを特別なものだと認識する人は多いが、実際のところそうではない。

聞き上手や話し上手も才能の一つだ。色彩感覚も才能だし、ファッションも才能だ。

人々が己の長所とする部分、そして多くの場合は、他者評価とのすり合わせが才能に当たる。

成功者がしていることは、自分の武器を正しく認識すること、その活かし方を心得ること、そして張り巡らされたアンテナからチャンスを嗅ぎ分けることだろう。

実際に、成功者と話してみるとわかるが、知識が豊富でバイタリティに溢れている。自分の武器を正しく使用して、その場所で立ち回れるかどうかチャンスを嗅ぎ分けているように思う。

これが出来る人は頭がいい。

勉強が出来るかどうかではなく、頭がいいかどうかの話だ。

頭を使わなければ理解も試行も出来ない。

あとはほんの少しの資金さえあれば挑戦することは可能だ。

少なくとも、私が教えられた「生きるとは何か」という疑問への回答は、アンテナを高く張り、知識を蓄え、多くの素晴らしい経験を積むことだったはずだ。

そして、その経験が日常を豊かにし、多くの縁を結ぶのだ。


何も、成功者になることが「生きる」ということではない。

自分の武器を正しく認識し、活かし方を心得ること。

アンテナを高く張り巡らせ、挑戦してみること。

これが私の思う「生きる」ということだ。

例えば、休日に着飾ってみたり、今まで知らなかった物事に目を向けてみたりすることだ。一般的な休みがあれば、それなりにやってみることは可能だろう。

そして、別の言葉で言い表せば、それが「幸せに繋がる」ということ。

よく「生きるということは幸せになろうとすること」といった言葉が見受けられるが、物事はシンプルだ。

その「幸せになる」という目的に辿り着くためには、過程を細分化すればいい。

筋トレと同じだ。

三十回を目標にするなら、まず一日一回をやってみる。翌日は二回、その翌日は三回と増やしていけばいい。

順調にいけばひと月で三十回も出来るようになっている。

過程の細分化は「自分が今できる範囲かつ自分の知識がある範囲」を見極めて、一つ一つ成長していくことだ。その一過程が達成できなければさらに細分化すればいい。

自己啓発のようになってしまったが、所詮物事は行動でしか動かない。

『夢は見て追いかけるものである。理想は描くものであって叶えるものではない』というような文章も、紐解けば一言で済む。

行動するしかない。

もちろん、行動には失敗がつきものだ。誰だって失敗するのは怖い。逃げてしまうのも一つの手段だ。疲れたら休めばいい。

それは経験の一つに他ならない。むしろそれ以上では決してない。

やがてそれが人の色となり形となる。縁はそうして結ばれる。

こんなことを書いている私だって、多くの手痛い失敗をして、今がある。

だが、だからこそ失敗を繰り返し、時には立ち止まって、新しい縁を結びに向かう。

それが私の「生きる」ということだ。

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