萎れたヘチマ

多くの人にとっての幸福とは他人との差によって導き出されるように思う。

たとえそれが無意識であっても、自分の位置が何処なのかを知ることで初めて、人々に幸福というものが存在し始めるように思えてならない。

というのは、私たちが他者との関わりによって育まれ、他者との関わりによって身の振り方を知るものだからだ。

だいたいの幸福な子供たちは初め、守り愛されて育つ。いずれ歳をとり、他者との関わりによって世界を広げ、やがて親元を離れていく。純粋な幸福から、他者を意識した幸福にシフトしていく。

自己評価よりも他者評価に重きを置いて、自分が求めるものを享受する他者を見る。

その時になって人は幸福を意識する。いわば欲望のうねりだ。

現代的な幸福は欲望や嗜好を満たすことでしか得られない。

その埋め合わせをするのが、ドラマだったりストーリーなわけだが、生憎と日常はドラマチックなどではない。だからこそ、羨望や問いかけから物語は生まれていくのだろう。

こんなことを書いている私は、幸福かと問われれば、幸福と答えるだろう。

日常など空っぽで、真っ直ぐに駆け抜けることなどできていないが、それでも私は幸福だと答える。そこには多くの人々が存在していて、彼らとの関わりが私にとって幸福なのだ。

他にも欲はあるが、それはあくまでこの「繋がり」をより良いものにするための手段を欲しているだけに過ぎない。多くの人が求める金は、繋がった人々と楽しい時間を過ごすための道具に過ぎない。あるいは、多くの経験をするためのものに過ぎない。

自分の欲を満たすよりも、もっと心が満ちる方法を知ったのだ。


なぜ私が繋がりを幸福と呼ぶのかは、私の過去を紐解けばわかる。

私には兄妹が私含めて四人いるが、物心ついたときには、既に妹の世話に両親がつきっきりだった。兄は私と五歳ほど差があるから、私が六歳の時に兄は小学校高学年から中学生だったと記憶している。

正直に言えば、家族の年齢さえ教えてもらえなかった。

次第に大人になっていく兄と、これからという私、そうして生まれたばかりの妹。

数年もすれば兄は荒れ始め、次男の私に強く当たり始めた。両親は妹の世話に忙しい。幼い私は一人ぼっちのように感じたのだ。

小学校でも幼稚園からの友達なんていなかったし、家に帰ったところで兄のことが怖かった。仕方なく、私は祖父母に身を寄せるしかなかった。そこだけが、私を認めてくれる誰かがいた場所だった。

そうして、中学生になり、部活の送り迎えなども母がしてくれるようになったが、私には違和感しかなかった。所詮は赤の他人にしか思えなかった。

もちろん、両親を盲目的に好きになろうともした。取り組み始め、三年ほどで効果が出始めたが、今ではなんの意味もなしていない。

結果として、中学校生活は褒められたものではなかった。友達は出来たが、優等生ではなかった。宿題を忘れ、授業中に居眠り、果てには下校途中の出来事で学校に呼ばれる始末。それでも楽しかった。それは小学校以来初めてできた友達と、もう一つの理由にある。

途中から私のクラスの担任になった先生と部活の顧問だ。

芯の太い二人の先生は、宿題をやってこないからと朝の七時半に登校するように言ってきた。前日に終わらなかった宿題を始業までの時間で終わらせ、出来上がったものを点検という形式だった。ちゃんと終わらせていれば、自由時間だった。

さらに、朝が早いことで就寝時間の前倒しという狙いもあっただろう。

最初の頃は出来ていなかった。その「約束」を破る度にこっぴどく叱られた。

だが、何度間違えても叱ってくれることが、しっかりと私を見てくれていることが嬉しかった。初めて「私を叱り、認めてくれる人」が出来た。

途中でだらけてしまうことがあったが、勉学優先だと部活さえさせてもらえなかった。グラウンドで他の人がいる前で大声で怒鳴られたこともある。

当時は腹立たしい気持ちもあったが、それ以上に嬉しかった。

そうした日々が中学校の卒業式まで続いた。

今まで友達にしか抱かなかった愛着が、初めて先生という存在にも向けられていたのだと知ったのが、二人の先生との別れ際だった。

それから高校へと進学し、一年ほどは魂が抜けたかのような日々を過ごしていた。人間関係の構築にも苦労したというのは言い訳だろう。

だが、ここでも私の人生に多大な影響をくれた先生方がいた。

二年次以降の進路相談の先生と、当時の学年担当、授業担当の先生だ。

頭の良くない学校ではあったが、その小さな世界でも、認められるための行動の仕方を教えてくれた先生方だった。

今でも思い出す。担任の先生との二者面談で「先生、たぶんかなり嫌われてますよ」と言ったことが始まりだった。女性の先生だったが、今更になってデリカシーの無さに赤面するほかない。

そこから先生は自分なりに生徒に歩み寄っていたように思うし、あんなことを言った手前、何かやってみようという気持ちが湧いていた。

初めにやったのは、動画サイトで見た速読だった。元より本は好きだったが、より多くの本を読み漁った。自己啓発系の本も読んだことを覚えている。

読書量自体は三倍ほどにはなったが、今では熟読が何よりも正しいと思っている。速読はあくまで、時間をかけない代わりに回数を重ねるのだ。前提とする知識がなければ速読は成り立たない。

そうして何かに取り組めばそれなりに形になると気づいた私は、勉強してみることにした。二年次の頭まで学年の真ん中にいたのだが、そこから時間をかけてこなしていくと、成績は徐々に伸びていった。

成績が伸びるにつれて、先生方が声をかけてくださったりして、やる気は満ちていった。誰かに認められることが、やる気にも直結していることを知ったのがこの時だ。

たしかにプレッシャーはそれなりにあったが、やるかやらないかの二択でしかなかった当時はただのゲームとしてこなせていた。

嫌いだった先生も、案外に教え方が上手かったり、親身になって話を聞いてくれたりすることもわかって、だからこそ、いつか学年一位を目指したいと思ったりもしていた。誰かが行動してくれた恩は行動でしか返せないと信じていたからだ。

しかし、小さな世界でも、学年一位の壁は高かった。

地区一番の進学校の真ん中にいるなら、この高校でのトップで居た方が良いという生徒が少なからずいたために、より効率的な勉強をしなければならなかった。

まずは上位十位に入ることを目標にしてこなし、次にトップを狙うことにした。何度か学年二位になって悔しい思いをしたこともあったが、それが燃料になって高校三年になってようやく学年一位を取れた。

決して満足いくものではなかったが、結果に届いたことが嬉しくはあった。先生方に祝福されたことが意外だったが、それだけ気にかけてくださっていたことが、何よりも嬉しかった。


しかし、所詮は小さな世界の出来事だった。

多くを得ることのできた場所で、私が私で居られる場所で、私を認めてくれる誰かがいた場所に他ならないが、私の帰る家はそこではなかった。

未だに家に帰れば誰も私を見ていない感覚に襲われる。

両親に対して、ここまで育ててくれたことに感謝はしているが、私に多くの事を教えてくれたのは、両親ではなかった。先生や友達であって、両親ではなかった。

私は覚えている。

兄のお嫁さんが、結婚後に家に来た時の「この子——私のことだ――の面倒ちゃんと見てあげられなかったのが唯一の悔い」という母の言葉を。

そして、その両親に支えてもらっていることも。

しかし、私はどこか寂しいのだ。どこか悲しいのだ。

未だに自分の肉親に対して違和感を拭えていない事実が。

私を見ているのではないと思ってしまうことが。


だからこそ、私は繋がりを幸福と呼ぶ。そして、私は幸福だと答える。

私が帰る場所に、未だに私の居場所はないのだから。

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