(7)
「宝珠」
冷えた絹の布のような柔らかな声が聞こえる。
「宝珠、宝珠や。目を覚ましておくれ」
重い瞼を無理やりに持ち上げれば縦に裂けた瞳孔とかちあう。
黒目がちな切れ長の瞳に自身の姿が映っていることをようよう理解した鏡子は、自分が褥に横たわっていることに気づいた。
体に掛けられた羽二重の打掛を引き剥がすように起き上がれば、御前様がいささか目を丸くして体を引いたのがわかった。
なにか言葉を紡ごうと唇を開くが、喉がからからに乾いて引きつり、上手く意味のある音を作ることが出来ない。
ようやく口に出来たのは「御前様」という言葉だけだった。それも惨めに掠れていたのだが。
「気がついたのだな、宝珠。倒れているそなたを見たときは肝が冷えたぞ」
「あの、御前様――」
鏡子はなにを言えばいいのか迷った。
謝罪、懺悔、弁明。
いずれを先に言えばいいのかわからずに口ごもってしまう。
そうしてそんな自分が鏡子は心底嫌になった。
惨めったらしい自分が客観的に見えてしまってどうしようもなくいたたまれない。
今すぐこの場から消えてしまいたかった。
俯いてしまった鏡子の手の甲に御前様の大きな手が重なる。
「宝珠、言わずともわかる」
その言葉に鏡子は肩を揺らした。
次いで目頭に熱が集まり、視界がじわじわと歪み始める。
鼻の奥がつんとして鏡子はますますみすぼらしい気持ちになった。
こんなときに泣くなんて情けのない。
そんなことをしている前にやることがあるでしょう。
そうは思っても胸の奥から迫ってくるものは止められず、堰を切ったように涙が溢れ出す。
熱い水滴は鏡子の頬を濡らし、羽二重の打掛と御前様の手の甲へと落ちて行った。
「ごめんなさい」
引き絞るような声で鏡子はそれだけつぶやいた。
まるで蚊の鳴くような声だ。
それでもそれが今の鏡子の精一杯であった。
ともすれば泣き伏してしまいそうになる中、唇を震わせながら紡げた最大限の謝罪がそれだったのだ。
「そんな、つもりじゃ、なかったんです。呪ってる、つもりなんてなくて」
声をつかえさせながら言う鏡子の背を御前様が撫でる。
その優しさがどうしようもなく切なくて、鏡子のまなじりからまた涙が零れ落ちた。
「ごめんなさい」
「――宝珠」
凛とした声に鏡子はまた肩をみっともなく震わせた。
しかし御前様は鏡子の背に回した手で自らのもとへと引き寄せると、もう片方の腕で鏡子の小さな体を包み込む。
御前様の胸元へ顔を押しつけるような格好になった鏡子は思わず目を丸くする。
着物越しに伝わる御前様の体温は温かいとも冷たいとも言い難いものだった。
だが、ほっと安堵のため息が漏れるほどに心地が良い。
惨めさに泣いていたがゆえにしゃくり上げていた鏡子の体は落ち着き始めた。
しかしそれと同時に別の感情の発露として心臓が早鐘を打ち始める。
「宝珠はただよからぬ所願に引きずられてしまっただけだ。あの舞い手も大事はなかったのだ。そう気落ちすることはない」
「でも、あの人のご兄弟は……」
「あれは単なる偶然よ。あの舞い手についてきた女は確かに内に邪心を秘めておったが、社を詣でて所願したのは今日が初めてのこと。今までのこととはなんの関係もない。宝珠は女のあの舞い手を害して欲しいという思いに引きずられ、通力を使うてしまったのだ」
武藤は無事だということを知り鏡子は安堵したが、御前様の言葉に顔を歪める。
御前様は鏡子を責めることはなかったが、ようは鏡子が未熟であったせいで今回の出来事が引き起こされてしまったのだ。
己の未熟さを痛感した鏡子は恥じ入る気持ちと同時に、自身に対して深い失望を覚えた。
御前様は鏡子を抱きしめたままその頭を撫ぜる。
赤子を宥める母御のような手つきに鏡子はくすぐったくなった。
「いいえ、わたしも悪いんです。――わたし、あの舞い手の方に嫉妬していました。わたしより……ずっと綺麗な舞いを踊るから。だから、わたしよりあの方のほうがいいと御前様が言うのではないかと……怖くて」
鏡子は己が抱えていた嫉妬心を暴露した。
それが御前様に示せる精一杯の誠意だったのだ。
人間ではなくなり、神様となった自分。
しかしそれでも神様という意識に乏しかった。
そのあやふやな認知の中で境界を見誤り、くだらない嫉妬心に捕らわれて大事な神楽巫女を危険に晒してしまった。
「ごめんなさい」
「宝珠、もう謝るな。違えてしまったのならば正せばよいのだ。そなたは確かに神としてはまだ未熟やもしれぬが、
「でも、もう起こってしまったことです。それをどう正せばいいのかわからないんです」
神通力というようなものが備わっているのは理解できたが、それがどういったものかまで鏡子はわからなかった。
ただ、使い方を見誤れば恐ろしいことになるのだということだけは理解できる。
鏡子にはそれが不安で仕方なかった。
やはり、御前様の言葉を受け入れなければよかったのかもしれない。
あの日、あの雨の日に死んでしまった時にすっかりいなくなってしまえばよかったのかもしれない。
「わたしには……荷が重いです」
「宝珠よ、なぜそう言うのだ」
「……わたしにそんな器はないからです。人ではなくなっても、人となんら変わらないままです。このままではもっと取り返しのつかないことをしてしまいそうで……」
「どうして私を頼らない?」
鏡子は思わず御前様の顔を見上げた。
その柳眉はわずかに下がり、その瞳にはいささかの悲しみが垣間見えた。
「宝珠は私が信用できないか?」
「いいえ! そんなことはありません!」
「ならばどうしてなにも言ってはくれないのだ?」
「それは……その、御前様にこんなくだらないことを言えないから……」
「宝珠がそれほどまでに苦しんでいることをくだらぬことなどとは言わぬよ」
御前様は鏡子の前髪を上げるとその額に唇を落とした。
「……
「御前様……」
「一人が心許ないというのなら喜んで支えよう。荷が重いというのならば分け合えば良い。それが
鏡子はただ黙って頷くしかなかった。確かに仮にも夫婦という間柄で黙っていられるというのは辛いことなのかもしれない。
そう初めて思ったのだ。
失望されたくないという思いのあまり自身を実際よりもよく見せようとしていたが、はたしてその虚飾の姿を愛されるのは幸せなのだろうか?
そんな当り前のことに鏡子は今さらながら気づく。
まったくもって自分の浅慮さには腹が立つ。
そして同時に御前様の寛容さに鏡子は深く感謝した。
「御前様……ありがとうございます」
「やっと笑ったな。
「わたしが笑っているの、好きですか」
「ああ」
「それじゃあ出来るだけ笑っています。でも、悲しいときは泣いてもいいですか?」
「勿論だとも。宝珠、そなたの姿は美しい。私が選んだと言うことにもっと自信を持て」
「……はい」
鏡子は涙に触れた頬を着物の裾で服と御前様に向かって微笑んだ。
*
神楽殿で奏でられる囃子の音に合わせ、白小袖がたおやかに舞う。
それに合わせて舞扇の色鮮やかな絹垂れが舞い、神楽巫女の頭上で天冠が輝く。
堂々たる厳かな舞いを披露する武藤を鏡子は夢中になって見つめている。
そんな鏡子の傍らにたたずむ御前様は、彼女のあどけない横顔を見ながらこちらに連れて来てよかったと思った。
六年前の神楽舞の奉納で一目見て惚れ込んだ相手だ。
通力を借りて鏡子を無理やりこの世のものでなくして連れて来た甲斐があったと、御前様は彼女の笑顔を見て思う。
汚れも知らぬ純真なままの鏡子はどこまでも
そんな鏡子が嫉妬心に駆られてあのようなことをしたのには御前様も驚いたのだが、同時に己と似たようなことをするとはと思わず笑ってしまいそうになった。
取るに足らぬ存在に嫉妬する鏡子の姿はいじらしいが、傷つく姿を見るのは御前様とて忍びない。
嫉妬心を煽るのもほどほどにしようと彼は思うのだった。
彼の前には立派な朱塗りの神楽殿と脇に控える奏者たち、舞台で神楽を舞う巫女に、それを見つめる妻の姿。
これぞ至福。
御前様は優美に笑んだ。
御前様の嫁 やなぎ怜 @8nagi_0
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