(6)

 霧雨が降りしきる中、鏡子は一人行き場も定めずにさまよっていた。


 鏡子の胸の内には困惑と焦燥、そして絶望が支配していた。


 あの醜い感情をよりにもよって御前様に知られてしまった。

 きっと嫌われてしまったに違いない。


 悲観的な言葉ばかりが頭の中に浮かんでは消える。


 このままではお社を追われてしまうかもしれない。

 そんな考えに駆られて鏡子は自分自身を抱きしめる。

 そうなれば自分はいったいどこへ行けばいいのだろう?

 人間でもなく、神様としても未熟な自分はどうなってしまうのだろう。


 そしてそんな恐怖よりも鏡子を追い立てるように迫り来るのは御前様を失望させてしまっただろうという確信。


 人間としても神様としても未熟な鏡子にもわかっている。

 土地神というものは土地に住む氏子たちを守る存在であり、決して私利私欲でその者たちを害するなどあってはならないと。


 しかし、鏡子はあろうことか武藤を呪っていたのだ。

 それは意識したものではない。

 しかし重要なのは結果であり、それを招いたものが意図的なものかはてまた故意によるものかなどは関係ないだろう。

 鏡子は神楽舞を奉納しようとした武藤の邪魔をしようとした。

 それが真実である。


 どうして、と鏡子は思う。


 どうしてこんなことになってしまったんだろう?

 どうしてこんな思いをしなければならないんだろう?

 どうしよう。どうすればいいの?


 こんな辛い思いなんて捨ててしまいたい。

 でも、そんなことが出来ないということを知っている。


 再び鏡子の頭の中で金属が跳ねまわるような音が響き渡る。

 視界が白く明滅し鏡子は足を止めた。

 酷く気分が悪く、このままここにしゃがんでしまいたかった。

 しかし体の芯から痺れるような感覚を抱えたまま鏡子は再び足を踏み出す。

 その行いが御前様のおわす神社からの逃避だと意識しないままに。


 どうして?

 どうして?

 どうして。

 どうして。


 その言葉ばかりが繰り返し頭の中で響き渡る。


 これも全部、武藤武藤さんのせい。


 違う。そうじゃない。

 悪いのは私で、彼女はなにも悪くはない。私の心が弱いから。

 誇れるものがなにもないから。

 自分を偽ることなく堂々としていられて、それでいてその姿を称賛を持って受け入れられる彼女が眩しくて羨ましくて、それで妬ましかった。


 鏡子は既に違和を覚え始めていた。

 先ほどから頭の中に響き渡る声が二重になっていることに気づく。

 自身の声と認識する音の他に別の音が重ねっている。

 しかしその音は、そこに込められた感情は、驚くほど鏡子の心情と酷似していた。


 だから鏡子は今己の頭の中で暴れまわるその音が、自身のものなのかあるいはまったく知らぬ他者のものなのか判断がつかなかった。

 わかっているのはこのままではよくないということだ。


 だから鏡子は歩き続ける。

 できるだけ神社から遠い所に行こうと。

 御前様の目から逃れようと。


 もし、あのいつも優しげにゆるむ目に軽蔑の色を見れば、きっと自分は正気でいられない。


 武藤武藤さんがいなくなってしまえばいいのに。


 お願いだからやめて、と鏡子は胸中で懇願する。

 これ以上この黒い感情に支配され続けては、心がばらばらになって壊れてしまいそうだった。

 狂人のように走り回り、心を失くしてしまいそうなほどに膨れ上がった心臓を、喉から吐き出してしまいたくなる。


 鏡子はふと視線を上げる。

 霧雨が地上をささやかに濡らす中、色褪せたバス停のひさしの下にいる二人の影を認める。

 森川と――武藤だ。


「どうする? この調子なら強くならないかも」

「だな、今のうちに家に帰った方がいいかもな」

「でも穂高さん全然来ないね。帰るならこの道通るはずなのに」

「まだ落し物捜してんじゃねえの?」


 森川の言葉に武藤は呆れたといった風に彼を見やる。


「ちょっとは心配しなさいよ。……わかってないんだから」

「はー? なんだよ」

「森川くんって穂高さんと仲いいんでしょ」

「まあ、家近いしな。物心つく前からいっしょにいるけど」

「じゃあ気にならないの?」

「は? ……ええー? そういう意味か?」


 森川は困ったような顔をして頭を掻く。


「俺と穂高はそんなんじゃないよ」

「ええー?」

「つかそんなこと言われても困るって。物心つく前からの友達なんてたくさんいるしさ。穂高だってなんとも思ってないよ」


 鏡子はどきりとした。

 なぜ心臓が張り裂けそうなほど痛むのかはわからなかった。

 体中から嫌な汗が吹き出すような不快な感覚が鏡子を襲う。

 頭の中で声がさながら乱反射するかの如く反響し、もはや元の音がなんなのか、その音に意味があるのかさえわからなかった。


「穂高と俺はただの幼馴染だから」


 茶色い土がむき出しの地面をタイヤが踏みならし、バスが近づいて来る音がする。


 その音に反応したのか武藤と森川が鏡子のいる方を見る。

 二対の瞳を向けられた瞬間、鏡子は体中から血の気が引いて行くのを感じた。

 一瞬にして冷えたのではなく、じわじわと指の先からぬくもりが外へと抜けて行くような感覚だ。


「あ、穂高」


 鏡子は後ろを振り返る。

 そこには屋根のあるバス停を前にして立ちつくす穂高がいた。

 いや、そこにいたのは鏡子だったのかもしれない。

 そしてここで武藤と森川の二人を俯瞰するように見ていたのは穂高だったのかもしれない。

 あるいはその両方か。


 穂高鏡子はうつろな瞳で二人を見ている。

 人形に嵌められたガラス玉のように透き通っていて、それでいて生気を感じさせない目に二人が映る。

 穂高鏡子の頬に雨粒が当たり、まろやかな盛り上がりに沿って落ちて行く。

 穂高鏡子はつぶやいた。

 どうして、と。

 どうして。

 こんなにもわたしは森川くん御前様のことを思っているのに――。


「ほだ――」


 森川の声は巨大なタイヤが悲鳴を上げる音にかき消された。

 バスがあり得ない挙動で制御を失したかと思うと、その車体はまっすぐに停留所へと突っ込んで行く。


 見開かれた武藤と森川の瞳。

 穂高の双眸に映る武藤に向かって行く車体。

 鏡子の目の中で車体の影に武藤が隠れる。


 鏡子は叫んだ。

 なにを言ったのかは鏡子にもわからなかったが、あらん限りの声を振り絞って叫んだ。

 そしてわけもわからずに走り出す。

 その行く先は武藤の立つ場所だ。


 やがて金属と金属がぶつかりあう音が周囲に響き渡り――鏡子の意識はそこで途切れた。

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