本山らのと不思議なしおり

七条ミル

本山らのと不思議なしおり

 お兄様が勉学に忙しく、自分でご本を買いに行けぬと云うので、代わりにわたくしが買いに来ることになりました。小遣いを幾らか沢山頂き、自分で読みたいものも一冊買っても好いと仰せつかりましたので、そうしようかと思っています。お父様は、お仕事が忙しゅう御座いますから、とてもではありませんがご本を買いに行こうと云うのは、どだい無理な話です。かと云ってお母様も家のことで忙しゅう御座いますから、やはりこれも無理なのです。

 随分と前の話ではありますが、一度だけ丸善さんに訪れたことはあります。たしかその時は、お兄様と一緒だったと思うのですが、その時は壁一面の棚に所せましと並ぶ本に大変驚いたことを覚えて居ます。兄が丁稚でっちさんに、何やら日本語ではない言葉を伝えると、その方はとことこと奥へ引っ込んでいき、三冊ほど本を持ってきました。あの時の本の表紙になんと書いてあったのかは覚えておりませんが、大層難しそうに思えたことは、しっかり覚えて居ります。

 一度来たことがあるとは云え、私の様な一商いの娘が、一人で書舗などに足を踏み入れていいものかと不安になります。――いいえ、今日はお兄様に云い付けられて此処に来ているのです。何も疚しいことはありません。

 勇気を出して丸善に入ってみます。――勿論、だから何かが変わる、というわけでもありません。中には沢山、と云わぬまでも、それなりに人が居ました。今日買わなければいけないのは、文明論之概略と云う本の、巻之五です。紙に書いて来ましたから、間違いありません。

「すみません」

 本を運んでいた丁稚さんに話しかけます。

「はい、なんで御座いましょう」

「あの、文明論之概略、と云うご本はどちらに御座いますか」

「ああ、それでしたら――」


「若い女人が結構なことで御座いまするな、文明論之概略……あれはあなたの様な方が読む本では無いように、私は思いまするがなぁ」


 初老で、少し頭が薄くなった老人が仰いました。

「いえ、これは」

「やや、何も云わずとも結構。なるほど、近頃の若い女性は斯様な本もお読みになるのですなあ……」

 文明論之概略は、私が読むものでは無くてお兄様が読むものだと、そう何度も申し上げようとしましたが、どうもお話を聞いてはくれません。一方的に、やれ女性は家庭に入るのだから知識など要らぬだの、女性に知識があると男性が辟易して云々だの、色々なことを仰った後に、少し厭な笑い方をしました。恐らく、どうだ云い返せまい、と云うような顔です。とは云え、実際に私が云い返せるわけでも御座いません。私が口を開こうとすると、言葉を並べきる前に、あの方はお話を始めてしまうのです。これでは埒が明きません。

 丁稚さんは、奥から引っ張り出してきた文明論之概略を持って困ったような顔をしています。助けてほしいですが、見たところ私よりも年齢は下の様です。坊主に刈った頭を掻きながら、やっぱり困ったような顔をしています。

「おや、丁稚が持ってきた様だ。これこれ、その本をさっさとこの女性に御渡しし給え」

「えっと、どちら様で」

「私かい。私はね――」

 その時なんと云ったのかは、正直覚えて居ませんが、慥か少しばかり知れた名だったように思います。

「えっと、どうぞ」

 丁稚さんは私に和綴じになった本を一冊手渡してくれました。家にあるどの本よりも、装丁が綺麗なように思います。尤もそれは、新品なのだから当たり前ではあるのですが。

 丁稚さんから本を受け取ると、先ほどの男性は何か見下したような目で、私のことを一瞥してから、店の奥へと消えていきました。

 彼が何を思ったのかは私には分かりませんし、関係も無いことです。

 ふと、御学友の方が仰っていた詩集のことを思い出しました。なんでも、切ない恋心がロマンティックなんだそうです。私に恋は解りませんが、それだけ御学友が好いと云うものなのですから、きっと素晴らしい詩集に違いは無いのです。記憶だけを頼りに、先ほどの丁稚さんに雑誌の名前を伝えると、それならと云ってすぐ入った脇のところにある棚から本を出してくれました。分厚い本の表紙には、ただ抒情詩と書かれています。抒情詩の書きは、今初めて知りました。

 本を二冊買うというのは、決して安い買い物ではありません。勿論、昔よりはまだ安くなったと聞きますが、それでも中々本など買えるものではありません。

 丁稚さんに御勘定をお願いすると、また、先ほどの男性がすと視界に入りました。

「なるほど、國木田ですか、なるほどそちらの方が貴女にはお似合いでしょうなあ」

 本当に嫌味な人です。

「お客様、あの、あまり人に迷惑をかけるようなことは」

「何かね、丁稚風情が私に迷惑と」

「い、いえそういうわけでは……」

 鈴の音がしました。少し大きめの鈴。それから、下駄の音です。

「こんにちは」

 澄んだ女性の声です。裾の極端に短い和服を身にまとい、肩の部分は布を切り落とし二の腕のところでまた別の布を縄で括って付けています。腰には狐のお面が付いていて、頭には小さな花の髪飾りをしています。

 一瞬だけ、そんなはずはないのですが、狐の耳と、尻尾が見えたような気がしました。

「誰だね、君は」

「名乗るほどのものでもないんですけど……本山らのと申します。本が好きです」

「一体何だと云うのかね。私はこの女性と話をしているのであって」

 なんだか、らのさんには不思議な威厳がありました。そこにらのさんが居るだけで、なんだか空気が緊張したり、それでいて反対に和んだり。

 男性は、それから何も云わず、入口から出て行ってしまいました。

「本っていいですよね」

 らのさんが云います。

「とても」

「そうですよね」

「私の御学友が、この抒情詩を好いと云っていらして」

「ふふふ、なるほどなるほど」

 丁稚さんは困ったような顔をしています。

「少し歩きましょうか」

 らのさんが云いました。丁稚さんが益々困った顔をします。

「丁稚さん、包んで頂いても?」

「え? ええ、勿論で御座います。文明論之概略は、貴女がお読みになるんですか」

「いえ、これは兄が読むのです。勉学に忙しくて、買いに来れなかったものですから」

「へえ、なるほどそういう塩梅で御座いましたか。はい、お待ちどう様で御座います」

 包んで頂いた本を脇に抱えて、丸善を後にします。らのさんは、嬉しそうな顔をして、下駄を鳴らしています。

 気づけば、私たちは神社に降りました。真新しいと云うわけでは無いのですが、綺麗な御社です。羅野神社、と書いてあります。賽銭箱の横には数冊の本が重ねてあって、それはどれも綺麗な装丁を保っていますが、昔の写本の様です。

「さてさて改めまして、本山らのと申します」

 私も名を名乗りました。

「さっきは災難でしたねぇ。いやいや、あんな人が文明開化の世に居るだなんて」

「未だ江戸の頃と同じ考え方をする方も沢山居らっしゃいます」

 斯く云う私の御祖父おじい様には、そう云った《きらい》があるのです。私が座って本など読んでおりますと、女は本なんぞ読むもんじゃあねぇとかんかんになって怒るのです。

「本はいいですよ。色々なことを教えてくれます。それに楽しい!」

 らのさんはそう云って賽銭箱の裏に置いてあったらしい本を手に取りました。それは先ほどから見えていた本とは違い、今の本とも、昔の本とも違う不思議な見た目をしておりました。そう、まるで未来の本と云った様な風です。

「私、本が好きなんです」

 らのさんはそう云って、ぱらぱらと頁をめくりました。本をめくるらのさんの横顔は、何とも綺麗でした。

 暫くらのさんに見惚れていて忘れてしまっていましたが、そもそも私はお兄様の云い付けで本を買いに来たのでした。あまり遅くなると、お兄様に怒られてしまうかもしれません。

 名残惜しいとは思いつつも、神社になけなしの小遣いを投げ入れて、帰途につきました。

 手を振るらのさんの微笑みは、私の頭に暫く残っていました。


 その晩のお話です。少し風が強くて、戸が揺さぶられておりました。こんな夜中に誰が、と思うような時間なのですが、戸が慥かに人の手で叩かれました。この時間では、もう誰も起きていないので、仕方なく起きていた私は布団からのそのそと出で、浴衣のまま表門を開けました。。

「今晩は」

 そこに立っていたのは、昼間の男性でした。身の危険を感じました。失礼なことだとは解っています。けれども、どうしてだか私の心はこの男性が居るという状況に対してひどく大きな警鐘を鳴らしているのです。

「昼間は申し訳なかったと思っています…………」

 男性は、手を後ろに組んでいました。

 一刻も早く、門を閉めて閂を通さねばならぬと思ってはいるのですが、身体が竦んでしまい上手く動けません。

「でも、私に恥をかかせたことは、よくないことですよ…………」

 他人ひとにこの様なことを申し上げるのはいけないことだと解ってはいるのですが、その様子は、狂っている、この一言に尽きるように思われました。

 このままでは。


「そこまでです!」


 らのさんの澄んだ声が響きました。もしかしたら、眠りの浅いお兄様は起きてしまったかもしれません。

 空から、恰も御伽草子の主人公ヒロインの様に降ってくるらのさんは、その手に装飾の為された薄い金属を持っていました。軽い音を立てて男性の後ろに降り立ったらのさんは、男性の手に何かをしたように見えました。鈍い音を立てて男性が持っていたらしい金属の塊が落ちます。

「おやおやこれは昼間の。私はね、この女性がお買いになられたあの本が酷いものだと云うことを伝えに来たのですよ。あれはいけない。女性の読むようなものでは」

「酷いもの…………?」

 それが、らのさんの逆鱗に触れた様でした。

 それからのことは、よく覚えておりません。気づけば私はまた布団の上に座っていて、先ほどらのさんが持っていた薄い綺麗な金属を持っていました。

 なるほど、これは枝折しおりなのかもしれません。本に挟むと妙にしっくりきます。

 眠れなくなってしまったので、蝋燭を灯して暫く本を読むことにしました。読むのは勿論、今日買ってきた抒情詩です。さぞ、素晴らしい詩が沢山書いてあるのでしょう。

 私はゆっくりと、その表紙をめくりました。


 どれくらい時間が経ったでしょうか。夜ですのでまるで見当もつかないのですが、おそらく丑三つの頃だろうと思います。遠くから、狐の鳴き声が聞こえました。いえ、私は狐の鳴き声を知らないので、それが狐の鳴き声であるということは本来わからないはずなのです。けれども、それは狐の鳴き声でした。

 私は枝折を本に挟んで、ふと外を見ました。

 そこには、紺色と珍しい色をした一匹の狐が、嬉しそうな表情をしてこちらを見ているのでした。


 ――私も、本が好きです。

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本山らのと不思議なしおり 七条ミル @Shichijo_Miru

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