第百十四節:薔薇の石碑

 

 一瞬、何が起こったのか誰も理解出来なかった。

 その現象の渦中にあったビッケも同様に。

 ただ、当事者に分かる事が一つだけ。

 ビッケの意識か魂か、或いはそれに類するモノが

 

 「なんじゃこりゃ……!?」

 

 そうして、物理的な世界から無理やり引き離され。

 飛び込んでしまったのは、赤い光が無数の流れる奇妙な空間。

 自分が肉体ではなく、精神のような状態で引き込まれた事は何となく理解出来た。

 天地を見失い、奇妙な浮遊感に包まれながら赤い世界を落下していく。

 ――拙い、どうすりゃ良いんだコレ……!?

 混乱しながらも、どうにか自分の状態を安定させようと足掻く。

 無数に走る赤い光の流れ以外は全てが暗闇の世界。

 ビッケは手を伸ばし、先ずはその光に触れてみるが――。

 

 「っ……!!」

 

 先ず感じたのは、薔薇の芳香。

 噎せ返るような強烈な香りは、精神を通じて脳髄にまで食い込もうとする。

 ビッケはそれに対し、己の意識を強く保った。

 薔薇の香気は錯覚だ。

 意識と繋がった肉体が、感覚として「近い物」を感じ取っているに過ぎない。

 幸いにも、ビッケはその精神侵略に抵抗レジストする事に成功した。

 同時に、無理やり流し込まれてきた大量の情報に触れた事で、此処が何であるかも理解する。

 

 「これ魔力の供給装置っていうか、洗脳装置じゃんか……!」

 

 再び黒と赤の世界を落ちながら、ビッケは呻くように言った。

 そう、あの石碑は確かに研究棟に身を置く魔導士達に向けて魔力を供給する装置なのは間違いない。

 だがその前段階として、魔導士は石碑と同調し、自らと接続する必要がある。

 そうする事で、石碑に刻まれた知識と情報、及び《帝国》に対する忠誠心も同時に植えつけられる仕掛けだ。

 後者の効果はかなり強力で、実質洗脳と大差はない。

 自身が持てる者の全てを、偉大なる《帝国》と愛すべき《薔薇帝》に捧げよ――。

 そんな強烈な改変により、元々の意識など欠片も残らないだろう。

 

 「警報鳴ってんのに魔導士連中が部屋から出て来なかったのって、『そんな事より国の為の研究が大事だ!』とか。

  洗脳された事の優先度が高すぎて、自分に対する危険とかが下がり過ぎてるからじゃ……」

 

 それぞれの部屋で動死体ゾンビのように研究に打ち込み続ける魔導士を想像し、ビッケは身震いした。

 今は何とか洗脳の方は防いだが、これに長時間晒され続ければどうなるか。

 早々に脱出をする必要があったが、同時にやらねばならない事もあった。

 

 「あの糞魔神、こうなる事絶対分かってただろ……!」

 

 小さく毒吐きながら、ビッケは意識を集中させる。

 先ほどの接触で、洗脳こそ弾いたが与えられる知識の方は自分の物にしていた。

 いきなり知らない事柄を直接頭に詰め込まれるというのは、それはそれで気分の悪い話だが。

 今は贅沢も言っていられない。

 得た知識を活用し、先ずはこの空間での自由落下を中断する。

 自らの意識を操作して、そこかしこを流れる赤い光――石碑に刻まれた記録と情報に目を向けた。

 まったく腹立たしいが、ジェーンは真実しか語ってはいなかった。

 

 「この中に、別の階層に移動する為の『門』を開く鍵がある!」

 

 この階層に侵入する際に発せられた警報。

 アレによって、普段使われている『門』は一時的に閉鎖されている事も分かってしまった。

 故に此処で操作を行わなければ、この研究棟から脱出する事は不可能。

 再度の接触による洗脳という危険リスクはあるが、それでもビッケが挑む他ない。

 幸い、この空間から抜け出すログアウト方法は知識を得た時に理解している。

 ならば後は必要な情報を無事に得る事が出来るかどうかだ。

 

 「現実戻ったらあの魔神絶対に引っ叩いてやる」

 

 もしくは顔に落書きでもしてやろうかと。

 そんな下らない報復を胸に描きつつ、ビッケは情報の海を泳ぐ。

 薔薇の香気に頭が馬鹿にされてしまわぬよう、気をしっかりと保ちながら。

 

 

 

 ――石碑に刻まれた情報世界でビッケが奮戦している一方。

 現実世界の方もなかなかの修羅場と化していた。

 

 「ヤバいヤバい……!」

 

 ルージュの呻き声を塗り潰すかのように、炎の花が無数に咲き乱れる。

 頭上から降り注ぐ《炎の矢フレイムボルト》の雨。

 耐火の奇跡で防ぎつつ、その直撃を避ける為に走るクロエ達。

 

 「流石に数が多すぎるでしょ……!」

 

 既に魔剣を抜き放ち、「帳」を展開しながらクロエは小さく呟いた。

 走りながら視線を向ける先は、壁に並んだ無数の扉。

 その内の幾つかが開いて、其処から何人もの魔導士達が姿を見せている。

 彼らは遠目からも虚ろな様子で、侵入者達に向けて機械的に呪文による攻撃を繰り返す。

 さっきまでは無反応だったが、やはり石碑への干渉が原因か。

 

 「当然これも予想の範疇か?」

 「勿論。ただまぁ小人の彼は大丈夫だよ、連中はあの石碑を巻き込むようには攻撃出来ないからね」

 

 ルージュを小脇に抱え、並ぶクロエの盾になるような形で走るガル。

 その言葉に応えるジェーンは、火矢の雨など物ともしていない様子だった。

 

 「大丈夫って、それ本当に大丈夫なの……!?」

 「少なくともこっちの攻撃に巻き込まれる心配はないさ。

  本人が『大丈夫か』どうかは、それこそ本人次第だから流石に私からも何とも言えないね」

 

 詰問するクロエに、ジェーンは何でもない事のように笑ってみせた。

 いっそ魔剣で斬りかかりたいぐらいだが、流石にそんなことをしている余裕はない。

 見れば、確かに石碑――ビッケのいる辺りには魔導士達も呪文による攻撃を向けてはいなかった。

 そのビッケ自身は、刻まれている紋様に手を触れたまま、まるで抜け殻のように動かない。

 

 「アレは多分、無理やり離しちゃ危ないね。

  癪な話だけど、其処の魔神が言う通りビッケ自身が何とかするのを待つしかないよ」

 

 いっそ無理やり引っ張ってくる事を考えたクロエ。

 それを読んだのか、ルージュの方が静止の言葉を掛けた。

 

 「……大丈夫、よね?」

 「問題ない」

 

 確かな根拠などないが、ガルはいつもの如く力強く応える。

 幾つもの視線を越えて来た仲間に対する信頼。

 そう、これに勝る根拠など他に無いのだと。

 

 「ビッケは魔王に対しても一歩も引かなかった男だ。ならばこの程度、逆境にすら入らんだろう」

 「……そうね。そうよね」

 

 もしこの場で本人が聞いていたなら、必死に否定した事だろう。

 けれどクロエは、ガルの言葉にしっかりと頷いた。

 それから自分の中の不安を拭うように、深く息を吸う。

 そうして、弱い心も一緒に吐き出すように何度か深呼吸を繰り返した。

 ――ビッケは大丈夫。危ない橋を渡るぐらいなら、慣れっこだろう。

 それよりも、目の前の状況の方が余程危機的だ。

 

 「いい加減、あっちもバテちゃくれないかねぇ……!」

 

 未だに降り続ける火矢の雨。

 それに文句を垂れながら、ルージュは耐火の奇跡を維持し続ける。

 ざっと見ただけでも十数人。

 それだけのローブ姿が並び、一様に攻撃呪文を投げ込んでくる光景は他人事なら壮観なのだが。

 

 「どうする、このままビッケが戻るまで逃げ回るかいっ?」

 「それしかない気もするけど、正直ジリ貧ね……!」

 

 走り回って何とか直撃こそ避けているが、それも何時まで続くものか。

 一つ二つは奇跡の守りで防げるが、それが重なって行けばやがて耐えられなくなる。

 束ねた物量はやはり凶器だ。

 クロエはそれを改めて感じていた。

 

 「……うむ、仕方あるまいな」

 

 火矢が降り注ぐ中、ガルは何かを悩んでいる様子だった。

 それに気付いたクロエが問うより早く、その手は行動に移る。

 ガシっと、太い指が握ったのは――。

 

 「おや?」

 

 ジェーンの首根っこだった。

 一体何を……そうクロエやルージュ、何よりジェーン自身が口にする前に。

 

 「これで少しはマシになるだろう」

 

 そう言って、ガルはジェーンの身体を持ち上げた。

 丁度、頭上から降る火矢の盾にする形で。

 

 「いやいやいやいやいやいや、ちょっと酷くないかなっ!?」

 

 派手な音を立てて、次々と炎が爆ぜて火の粉の花を咲かせる。

 何十本もの火矢をモロに浴びているが、やはりジェーンの身体には焦げ目一つ付かない。

 鋼鉄人形との戦いでも見せた不明の防御。

 どうやらそれは呪文による攻撃にも有効であるようだ。

 

 「別に防げるのなら問題あるまい。暫くそのまま盾になっていろ」

 

 ジェーンの抗議を聞き流し、ガルは火矢を受ける角度を調節する。

 火矢が弾けるのはジェーン自身の身体ではなく、正確にはその周囲の空間からだ。

 そうして上手く角度を変える事で、火矢の雨の大半を防ぐ事に成功する。

 

 「……上級魔神を盾にした、なんて前代未聞だろうねぇ」

 「本当にね。良心が咎めるような相手じゃないのが幸いかしら……」

 

 愉快そうに笑うルージュに、クロエも同意を示す。

 直撃はジェーンを盾にして防ぎ、散った火矢の破片や熱は耐火の奇跡で打ち消せる。

 これならば、もう暫く持ち堪えるのも難しくはない。

 後はビッケが戻るまで耐えれば良い――と、その場の全員が同じように考えた。

 ――少なくとも、その瞬間までは。

 

 「…………?」

 

 不意に、先ほどまで感じていたはずの熱が消えた。

 火の気配は遠のき、逆に冷たい空気が流れる。

 一体、何が……クロエが周囲の様子を探ろうと、その視線を向けるが。

 

 「派手にやってるねぇ、アンタ達」

 

 響く声には、聞き覚えがあった。

 クロエは振り向く。見れば、其処には視界を染める赤い輝きがあった。

 赤。炎。消えたはずの熱は、正に其処にある。

 真紅の甲冑を帯びて、灼熱する赤い魔剣を携えた金髪の女戦士。

 《帝国》の騎士、シリウス。

 燃え盛る業火を体現する女は、獣の如き笑みを向けて。

 

 「楽しそうじゃない。ねぇ、私も混ぜてくれないかな?」

 

 そう言って、その頭上――降り注ぐはずだった火矢を一つに束ねた大火球を示す。

 クロエ達が何かしらの答えを返すよりも早く、それをシリウスは無造作に投げ放った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る