第百八節:魔聖霊

 

 それは一見すると人間の女のようにも見えた。

 背は高く、纏った襤褸から覗く手足はすらりと長い。

 その両手首には大きな鉄枷が嵌められているが、女は苦にした様子はなかった。

 肌は文字通り透き通るように白く、今まで牢に閉じ込められていたとは感じさせない。

 床に届きそうな程に長い黒髪は、まるで星の無い夜空から紡いだようで。

 妖しげな微笑みを湛えたその顔は、凡そ人間のものとは思えない美貌に彩られていた。

 単純な容姿だけでも人間離れしているが、常人との最大の違いはその背にある。

 翼だ。今は折りたたまれている、一対の翼。

 髪の色と同様、真っ黒い翼が女の背から生えていた。

 そのいっそ幻想的とすら言える姿を見て、ルージュは小さく呟く。

 

 「魔聖霊ダークセレスチャルかい。予想外に大物が出て来たね」

 「こんな場所に捕まっているのだから、余り大きな態度は取れないよ」

 

 女――牢から解放されたその魔神は、相変わらず愉快そうに笑っていた。

 魔聖霊、という単語をクロエも頭の中で繰り返す。

 それもやはり魔神の一種とされるが、少々例外的な存在だ。

 魔神と一口に言っても、実際はその中で更に多くの種族に分かれている。

 その大半が奈落の神であるエ=イバンの手からなる創造物だが、そうでないモノも存在する。

 特に有名なのが魔聖霊――即ち、神格に仕える高位存在である聖霊セレスチャルが堕落したものだ。

 聖霊は謂わば神々の代理人であり、普段は神々と同様に物質世界の外側に位置している。

 時に神との契約者である司祭に預言を下ろし、必要があれば直接物質世界に降り立つ事もあるという。

 神権の代行者である彼らは文字通りの半神で、例外なく強大な力を有している。

 それが何かのきっかけで「混沌」の影響を受け、奈落へと堕ちてしまったものを魔聖霊と呼んだ。

 元々の性質を歪められ、けれど半神としての力は保持したままの極めて厄介な相手だ。

 その力の強大さで、魔神としての階級は最低でも上位魔神グレーターデーモンはあるはず。

 

 「まぁ安心したまえよ。見ての通り、この枷も私に施された封印だ。これがある限りはあまり無茶も出来ない。

  あぁ、私の事はジェーンとでも呼んで欲しい。偽名だが、契約者以外に真の名は明かさない主義でね」

 「……まぁ、別に其処は拘らないわ」

 

 クスクスと笑う女魔神――仮称ジェーンに、クロエは小さく肩を竦めて応える。

 推測でしかないが、素直に名乗ると不都合が出る程度には大物なのだろう。

 堕落した聖霊であるならそれも当然の話か。

 

 「これ絶対ヤバいと思うんだよなぁ」

 「うむ、まぁ何とかなるだろう」

 

 警戒して距離を置くビッケとは逆に、ガルは変わらぬ態度で頷く。

 それから改めて、牢から出て来たジェーンの方に視線を向ける。

 

 「さて、此方はやる事をやったが」

 「あぁ、今度は私の方から誠意を見せようか」

 

 そう言いながら、ジェーンは枷に嵌められたままの手を軽く掲げる。

 するとその指先に小さな火が灯った。

 火は風もないのに揺らめき、その先端をある方向へと向けた。

 其処はぱっと見では何もないように見えるが。

 

 「此方だ。ついて来ると良い」

 「え、今ので何か分かったの? つーかそっち壁じゃない?」

 「この地下階層――あの女や取り巻きは『館』などと呼んでいるが、此処はなかなか複雑な場所でね」

 

 ビッケの疑問に、ジェーンは火が示す方へと歩き出しながら応える。

 

 「物理的に接続した施設ではなく、それぞれ異なる界に造られた複数の施設が魔術的に接続されている。

  この魔神用の地下牢もその一つで、物理的な出口は存在しない」

 「ホントに手が込んでるねぇ……」

 

 つーか何であたしらはそんな場所に迷い込んだんだと、ルージュは呟く。

 その辺りにどういう理屈があるかは不明だが、ジェーンは気にせず言葉を続けた。

 

 「物理的な出入口はなく、必要なのは別の空間同士を繋げる『門』だ。そしてそれは隠そうと思えば容易に隠せるわけだよ」

 「それを今、お前が何か呪いで見つけたというわけか」

 

 その通り、とジェーンは頷く。

 そうして火が示した壁の前まで近づくと、ペタリと触った。

 何も変化はない。更に数度その壁に触れてから。

 

 「……あぁ、この壁に『門』が仕込まれてるわけではなく、更にその向こう側か。

  すまないが、流石に私も物理的な仕掛けは専門外だ」

 「よかった、斥候のオレもしかして今回出番ないんじゃ? ってちょっと心配してたわ」

 

 ビッケは慣れた手つきで大鞄から道具を取り出すと、素早く壁の仕掛けを調べ始めた。

 一歩離れて、ジェーンはその仕事を面白そうに眺める。

 

 「術に依らぬ絡繰り仕掛けか。器用なものだ」

 「あんまじっと見られながらだと落ち着かないんですけどー?」

 「お互いにそう無い経験だろう? 盗賊の神に仕える者ならこういう仕掛けにも詳しそうだが。

  私は生憎と専門外なので、大変興味深いよ」

 

 喉の奥で笑いながら、ジェーンはそのままビッケの作業を観察する。

 ルージュは呆れた様子でため息を吐いて。

 

 「また元・聖霊の割に随分と俗っぽいねぇ。アンタも」

 「だから堕ちたんだよ。君もどうかな? 見た所、俗っぽさなら良い勝負に思えるが」

 

 遠慮しとくよ、とルージュは肩を竦める。

 それから水袋を取り出すと、中に入っている果実酒を軽く舐めた。

 そういうところが聖職者らしくないのでは――とクロエは毎度思っているが、流石にこの場では突っ込まない。

 それよりも、やはりジェーンと名乗る魔神の存在が気になった。

 余りジロジロと見ないよう、それとなく様子を伺っているつもりだったが……。

 

 「ヴァイオラの血縁か。余り似てはいないな」

 

 唐突にそう言われて、クロエの心臓が跳ねた。

 ジェーンはその反応に気を良くしたか、クックと笑って見せて。

 

 「気に障ったかな? だが君は今の私の言葉を喜ぶべきだよ。

  あの性悪に万一でも似ていれば、人間性に重大な欠陥を抱えているに等しいのだから」

 「それを魔神の貴女が言うの……?」

 

 人を堕落させ、その魂の破滅を愛でる魔神が一体どの口で人間性云々などと語るのか。

 呆れるクロエに、ジェーンはわざとらしい仕草で嘆いて見せる。

 

 「いやいや、勿論分かっているとも。私は堕落した聖霊、世に混沌を振り撒くのがこの身の使命。

  それでも、かつては清浄なる魂を宿していた事は覚えているんだ。故に、意識せぬままに今のような言葉を……」

 「――本当によく回る舌だな」

 

 止めどなく流れる言葉の羅列を、ガルは一言で断ち斬った。

 

 「そうやって、人間を煙に巻くのが得意なわけか」

 「ハハハッ、それを今まさに邪魔されてしまったわけだがね」

 

 笑う。名を秘した魔神は笑う。

 其処には一欠片の悪意も感じられず、ただ子供じみた純粋さが垣間見えた。

 多くの魔神は、物質世界に向けた憎悪を隠しもしないのに。

 この堕落し、魂が黒く染まったはずの聖霊からはそのような感情は伝わってこない。

 汚れ切っても尚、透明な無邪気さを見せるこの魔神の事が、クロエは少しだけ恐ろしかった。

 ――何故か少しだけ、笑う顔が姉に似ているような気もして。

 

 「歓談中のとこ申し訳ないけど、隠し扉開きますよー!」

 

 ビッケの声に、クロエの意識は現実に引き戻される。

 見れば、仕掛けや罠の解除などの作業を済ませたビッケと入れ替わる形で、ガルが壁の前に立っていた。

 それから分厚い石造りの壁に軽く手をつく。

 

 「ふんっ……!!」

 

 全身の筋肉を総動員し、ガルは全力で分厚い石壁を押した。

 大きな音を立て、壁の位置がゆっくりとずれていく。

 押す。何度も、何度も。

 最初に出来た僅かな隙間は、あっという間に人が並んで通れる程の空間へと変化する。

 壁の向こう側もやはり暗闇のまま。

 だが、其処には何か蠢くものがあった。

 

 「さて、別の場所に移動する為の『門』は、この部屋にあるようだが」

 

 ジェーンは手元の炎を弄り、それが指し示す方向を見る。

 闇を見通す目を持つ者は、示された先に僅かに赤く光る魔法陣の存在に気が付いた。

 同時に、その前を塞ぐように繋がれた者の姿も。

 

 『GYAAAAAA!!!』

 「ふむ……成る程。コイツが門番というわけか」

 

 咆哮が響くのは、空間を渡る「門」の設置された広間。

 或いはこの場所もまた、この施設に数ある「牢屋」の内の一つかもしれない。

 何にせよ、此処が牢なら必然的に囚われた者も存在する。

 ガルの視線の先に存在するのは一匹の魔神。

 小柄な巨人ほどの体躯に、大きな三つの目と鋭い爪を持つ六本の長い腕。

 吐く息に瘴気と硫黄の臭いを混ぜて、その魔神は刃のように並んだ牙を見せる。

 クロエ達が、それは獲物を見つけた事に対する歓喜の表れなのだと気付いた瞬間――。

 

 『GYAAAAA――――ッ!!!』

 「イアッ!!!」

 

 六本腕の魔神と、大金棒を掲げた蜥蜴人。

 両者が殆ど同時に踏み込み、凄まじい激突音を響かせた。

 

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