第百四節:決別

 

 最早言葉を発する事さえ困難だった。

 違う――違う、何もかも。これは違うはずだ。絶対に。

 ただただ否定だけが心の中を埋め尽くす。

 けれど今、目の前にある現実は。

 

 「クロエ」

 

 姉の姿、姉の顔、姉の声、姉の仕草。

 記憶の中と寸分違わぬはずなのに、まるで噛み合わない。

 ちぐはぐの違和感に塗れた有様で、姉は――ヴァイオラは、愛しい妹の名を呼ぶ。

 クロエは言葉を発せなかった。

 一体、何を言うのが正しいのか。

 拒絶しようにも、この闇はまるで寄せる波のように手応えがない。

 ――振り払わなければ。

 そう分かっていても、過去の面影が邪魔をする。

 決意も覚悟も、まるで無意味な抵抗であると嘲笑うように。

 そう、、その名を呼ぶ声は、脳髄へと浸透して――。

 

 「……話はそれで終わりか」

 

 暗雲を真っ直ぐ断つ、稲妻の如き声。

 不思議と、思考の闇はただその一言だけで吹き散らされたような気がした。

 いつの間にやら、大きく太い腕がクロエの身体を抱えている。

 優しく、けれど有無を言わさぬ力強さで。

 傍らに立っていたガルは、クロエを自らの腕の中に抱き寄せた。

 

 「終わりであるなら、このまま引き取らせて貰う」

 「それは、どういうつもりで言っているのかしら?」

 「分からんか」

 

 此処で初めて、ヴァイオラはそちらの方へと視線を移した。

 鋭く、魂すらも射抜くような眼光。

 そこらの相手ならば、ただそれだけで無条件に足下へと平伏したかもしれない。

 だが、ガルはこれを真っ向から受け止める。

 何の事はない涼風であるかの如く、小さく鼻を鳴らすだけ。

 

 「見ての通りだ。クロエは。話を終わらせる理由は、それで十分だろう」

 「…………」

 

 嫌。あぁ、そうだ。嫌だ、こんなのは。

 何故、自分は姉の言葉に無条件で屈してしまいそうになっていたのか。

 ほんの数秒前の事なのに、まったく不思議で仕方がない。

 ガルの言葉に、クロエは自問を重ねる。何故、どうしてなのか。

 姉の言う事にただ従うだけの自分では無いと、そう決意も覚悟もしていたはずなのに。

 

 「……確か、ガルだったわね?」

 「あぁ」

 

 ヴァイオラの呼びかけに、ガルは頷いて応える。

 それから数度、足下の床を尻尾の先端で軽く叩いた。

 

 「今の話を繰り返すのなら、此方としても用は無いんだが」

 「私が用があるのはクロエだけ。貴方に話をしてるわけじゃない」

 「それでもこの場に同席している以上、口を挟む権利ぐらいはあるだろう」

 

 火花が散った気がした。

 ヴァイオラもガルも、武器こそ手にしていないが。

 互いを見る眼は既に戦の最中、相対する敵に向けるモノと大差はない。

 目障りなものを見つけた眼で見るヴァイオラは、それでも口元に浮かべた笑みは穏やかなもので。

 

 「――ええ、貴方にはね、感謝しているの。クロエが此処まで来れたのも、貴方の力が大きいでしょう?」

 「そうかもしれんな」

 「『お遊び』とはいえ、私と渡り合った実力は本物でしょう。

  もし貴方が望むのであれば、帝国騎士として私の配下に欲しいぐらい」

 「生憎と、宮仕えにはさして興味がないのでな」

 

 言葉自体は、互いに淡々と交わし合っている。

 だがガルの腕の中にいるクロエは、二人の間で渦巻く戦意を肌で感じていた。

 ――何か、少しでもきっかけがあるなら、双方共に武器を手にする戦場と成り得る。

 その緊張に、クロエは小さく息を呑んだ。

 

 「……クロエは、私の元に来るべきなの。ねぇ、貴女クロエもそう思うでしょう?」

 「っ……」

 

 不意に言葉を向けられて、クロエの心臓が跳ねる。

 まただ。またさっきと同じような奇妙な感覚が、じわりじわりと胸の内から広がるのを感じた。

 深い沼に足下から少しずつ沈んでいくかのような。

 暗い夜の海に一人で放り出されてしまったかのような。

 有無を言わさず屈服させる、そんな闇色の意思。

 ……嗚呼、何故だろうか。

 薔薇の香気が、妙に鼻に付く。

 

 「必要がない」

 

 再度、ガルの声は雷となって闇を裂いた。

 此処で初めて、ヴァイオラが少し不快そうに眉根を寄せる。

 クロエの顔を一瞥してから、改めてその視線をガルの方へと向けて。

 

 「……それを決めるのは、貴方ではないでしょう?」

 「そしてお前でもない。訂正するなら、決定権は俺の方には幾らかある。お前と違ってな」

 「…………?」

 

 一体、ガルは何を言っているのだろう。

 言葉の意味するところが分からず、クロエはその顔を見上げる。

 ヴァイオラの方も同じだったようで、緩く首を傾げた。

 

 「決定権? 貴方が?」

 「そうだ」

 「一体何を根拠にそんなことを?」

 「クロエは俺が妻になって欲しいと願い、その為に力を尽くしている最中。

  彼女の正式な返事もまだの状態で、その後の生き方を左右するような事を勝手に決められては困るな」

 

 言った。

 真正面から、躊躇いなしの剛速球で。

 クロエの頭は一瞬理解が遅れて、ヴァイオラは意味が分からず唖然としてしまった。

 ガルの方は、何を憚る事も無いと言わんばかりで。

 堂々とクロエを腕に抱いたまま、また尻尾で軽く床を叩いた。

 

 「ちょっと、ガル……!?」

 「勿論、クロエ自身がお前の言葉に従う事を選ぶのなら、戯言を口にしたのは俺の方だろうが」

 

 力強い腕に、抱き締められた状態で。

 ガルの言葉は強い熱を伴って、クロエの心に響いた。

 顔がどうしようもなく火照っている。

 気恥ずかしさとか、照れ臭さとか、理由は色々あるが。

 ただ真っ直ぐに想われているという事実が、何よりも歓喜を伴ってしまう。

 相手にそんな感情を悟られる事も恥ずかしくて、まともに顔を上げるのも難しい。

 

 「クロエ。お前はどうしたい?」

 「っ……私は……」

 

 けれど今、大事なことを問われている。

 答えなければならない。自分の言葉で、確実に。

 直ぐには声にならず、何度か呼吸を整える。

 それから顔を上げ、その視線は姉に――ヴァイオラへと向けた。

 

 「……聞けないわ」

 「クロエ」

 「聞けない。それが、姉さんの言葉だとしても」

 

 名を呼ぶ声に滲む闇。

 だがそれも、先ほどのように心を溺れさせる事はない。

 今度こそはっきりと、クロエはヴァイオラに向けて拒絶を示す。

 過去の面影を歪ませている、その不明の闇を振り払う。

 

 「その手を、私は取る事は出来ない。貴女が本当に姉さんなのか、それとも別物なのか。

  そんな事は関係無しに、私にはその言葉は受け入れられないわ」

 「…………」

 

 意思は、明確に示された。

 それを受けて、ヴァイオラはクロエ相手に初めて沈黙を返す。

 その顔に浮かんでいた笑みも、今は無い。

 ただ薔薇の香気が漂う虚無の表情だけが、其処には張り付いていた。

 

 「……本当に、困った子ね。貴女は」

 

 表情の色が抜け落ちても、その声の質は変わらない。

 小さくため息を吐いてから、ヴァイオラはまた小さく笑った。

 但し、先ほどのような穏やかさは見当たらない。

 ただ他者を上から嘲笑う、支配者の傲慢だけが其処には満ちていた。

 

 「あの『家』を焼いてから魔剣を発現させて、今になってようやく『使える』ようになったと思ったのに。

  ――まさか、私の言葉に逆らえるなんて」

 

 冷たい。背骨を氷の手で鷲掴みにされたような、そんな錯覚。

 ヴァイオラはテーブルに手を付くと、椅子から立ち上がる。

 苛立ち、怒り、敵意、戦意。

 もう何も取り繕わず、何も隠す事はない。

 「優しい姉」の皮すら捨てて、其処にあるのは冷酷な支配者としての顔のみ。

 

 「……姉さん」

 「もういいわ、クロエ。、此処までにしましょう。

  言葉で屈服してくれれば楽だったけど、それも其処の男が台無しにしてしまったようだし」

 

 ゆらりと。

 ヴァイオラがその手を軽く掲げると、其処に生まれた揺らぎから真っ白い剣が引き抜かれる。

 同時に、ガルはクロエを腕に抱いたままで身構えた。

 間違いなく、ヴァイオラの手に握られているのは彼女自身の魔剣だろう。

 其処には一体どんな魔力が秘められているのか。

 

 「言う事を聞かないなら実力行使か。分かりやすいな」

 「どちらかと言うと、妹を誑かす悪い男に折檻する方が正しいけど」

 

 その言葉は皮肉や冗談めいていたが、込められた敵意は完全に本気のものだ。

 完全に、ヴァイオラはガルの事を「優先的に排除すべき障害」と認識して――。

 

 「ッ!!」

 

 動き出すよりも早く、死角から飛来する一本の矢。

 ヴァイオラはそれを剣で叩き落す――ではなく、当たる直前で

 

 「何それ流石に意味わかんないんですけど!」

 

 ガルの大きな身体を遮蔽物に。

 その陰から一瞬で矢を放ったビッケは、ヴァイオラの超人技に顔を顰めた。

 ――先ほど、何度かガルは自らの尾で床を叩いていた。

 これは仲間に向けた合図であり、その意味は「自分が気を引くから各自行動を頼む」、と。

 黙って様子を見ていた二人、ビッケとルージュはこれを受けて機会を待っていた。

 元より、不意を打って倒せるほど甘い相手とは考えていない。

 故に、此処はただ全力で。

 

 「逃げる為に目眩ましさせて貰うよ! ほら、爆ぜなっ!」

 

 ビッケの矢を止めた事で、僅かに生まれた隙。

 其処に捻じ込むように、ルージュは杖を振って《火球》を生み出した。

 それが真っ直ぐにヴァイオラの方へ飛ぶと同時に、ガルはクロエを抱えたままで後方に身を投げ出す。

 爆発。炎が弾け、広間の中心だったテーブルごとヴァイオラの姿を呑み込んだ。

 

 「あー酒だけでも回収したかった! アルコール様が勿体ない……!」

 「お酒の事は後で考えよう後で! 逃げる逃げる!!」

 「うむ、どうせ大して通じていないだろうからな。さっさと逃げるのが一番だ」

 「その前に、走れるから下ろして頂戴……!」

 

 バタバタと、炎を背にして冒険者達は一目散に駆け出す。

 呪文の成果などわざわざ確認するまでもないと。

 クロエを抱えたままのガルを先頭に、来た道の扉を無理やりブチ破っていく。

 

 「――――」

 

 それから殆ど間を置かず、炎が消え去った。

 テーブルは爆発によって砕け、焼け焦げた破片となって床に散らばっている。

 同じように、その上に置かれていた料理や酒も実に無残な有様だった。

 ただ一人、ヴァイオラだけが僅かな焦げ目も受けずにその場に佇んでいて。

 

 「……油断ね。甘く見過ぎていたか」

 

 呟く。其処には微かにでも焦る様子は見受けられない。

 逃げられるわけがない。この屋敷からは。

 ヴァイオラは白い魔剣をその手に携えながら、一歩踏み出す。

 

 「こういう遊びは、そういえば初めてだったかしらね」

 

 そう呟いてから、ヴァイオラは少し笑った。

 鬼ごっこ。但しお遊びではなく、捕まった側は命を代償に支払う事になるだろう。

 ――あの蜥蜴男の首を目の前で落としたら、果たしてあの子はどんな顔をするのだろうか。

 そんな想像が頭を過って、ヴァイオラは酷く残酷に笑っていた。

 

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