第百三節:深淵の表情

 

 とても和やかに会食を――という気分にはなれなかった。

 違和感が拭えない。

 最初の邂逅では、驚きが強すぎて注意を払う余裕がなかった。

 今はかろうじて自分を保ち、相手の姿を真っ直ぐに見る事が出来ている。

 変わらない。変わらないはずだ。

 記憶の中と、何も変わらないように見えるはずなのに。

 豪華な広間と、豪勢な食事に囲われて穏やかに微笑む姉の姿から、違和感が拭えない。

 微かに漂ってくるのは、薔薇の香気か。

 

 「……貴女は、本当に――姉さん、なの?」

 

 耐え切れず、クロエはその疑問を口にしていた。

 姉――ヴァイオラは、直ぐに答えを返す事はしなかった。

 ただ微笑みを浮かべたまま、テーブルに置かれた大きな葡萄に手を伸ばす。

 細い指で実を一つもぎ取って、それを口にする。

 指に甘い果汁が溢れると、行儀悪く舌で軽く舐め取って。

 

 「私が、それ以外の誰かに見えるの?」

 

 笑う。果たして姉は、こんな笑い方をしただろうか。

 寒気がする。鈍い痛みが頭の奥を叩いている。

 違う。いや、何が違う?

 分からない、分からないが、確実に言える事は一つだけ。

 目の前にいるのは確かに姉だが、明らかに何かがおかしい。

 

 「……ふむ」

 

 不穏な気配を感じ取ったか、ガルはクロエに並ぶ形で一歩前に出る。

 武器はまだ、手にしてはいない。

 だが鋭い目線は、半ば戦闘態勢に入っている事を示していた。

 

 「問われていないが名乗っておこう。俺はガル=ロゥ、剣鱗の氏族の者だ」

 「あぁ、そういえば会うのは初めてではないけれど、名は聞いていなかったわね」

 「そうか。それで、今夜はどういう用向きだ?」

 

 クロエに代わり、ガルがその問いをヴァイオラに投げかけた。

 ヴァイオラは緩く首を傾げてから、手にした杯にワインを注ぐ。

 手の中で軽く揺らせば、血のように鮮やかな赤が波立った。

 

 「それは勿論、久方ぶりの姉妹の再会を喜びたかっただけよ。何か御不満があったかしら?」

 「お前が本当にクロエの姉であるなら、別に口を挟むつもりはなかったが」

 

 ちらりと、視線だけで傍らのクロエを見る。

 やはり緊張と警戒を解けないその姿は、「姉妹の感動の再会」などという戯言とは程遠い。

 ガル自身も、改めて相対したヴァイオラからある気配を感じ取っていた。

 

 「それと今、『会うのは初めてではない』と言ったが」

 「ええ」

 「それは此処に来た時に顔を合わせた事ではないな」

 「……ガル?」

 

 クロエは、ガルが何を言っているのか理解出来なかった。

 傍で聞いていたルージュやビッケも同様。

 ルージュの場合、テーブルのワインが気になって仕方ないようだが。

 ただ一人、艶やかに微笑むヴァイオラだけがその言葉の意味を理解していた。

 

 「魔王カリュブディスの騒動の時に遭遇した白騎士。アレの中身はお前か」

 「――お見事。別に隠すつもりはなかったけど、よく分かったわね」

 

 難問を解いた子供を褒め称えるように。

 ヴァイオラは満足げに笑いながら、軽く手を叩いて賛辞を贈る。

 一方クロエは、驚きに満ちた表情でヴァイオラの方を見て。

 

 「あの、白い騎士が……姉さん?」

 「ええ、そう。本当は《薔薇帝》の使者メッセンジャーとして出向いただけだったんだけど。

  カリュブディス様に誘われて、あの方のお遊びに少し参加させて貰ったの」

 

 お遊び。あの騒動をお遊びと言ったか。

 それを引き起こした魔王、カリュブディス自身がそれを口にするなら気にする事もなかっただろう。

 だが今それを言葉にしているのは、クロエにとって唯一の肉親で。

 

 「……どうして」

 「? そうね、カリュブディス様からのお誘いではあったし、断るのも角が立つでしょう?

  普段は帝都で陛下のお傍に控えている事が多いし、偶には羽目を外すのも……」

 「ふざけないでよ……!!」

 

 大広間に、悲痛な少女の声が木霊した。

 一瞬の沈黙。

 堪らず感情を激発させてしまったクロエは、強くヴァイオラを睨みつけた。

 

 「お遊び、アレがお遊び……!? 本気でそんなことを言ってるの……!」

 「ええ、そうよ。私は何かおかしいことを言ってる?」

 「死にかけたのよ、こっちは。あの白い騎士の事は忘れてない。それをお遊びだって、貴女は言うの?」

 

 信じられない。本当に。

 白い騎士の魔剣、それが放つ死の閃光を忘れるはずがない。

 一歩間違えれば……どころか、半歩の差で命が消し飛ぶような死線だった。

 かろうじて勝利をもぎ取ったあの戦いも、全て。

 単なるお遊びだったと、そう笑うのか。

 

 「…………」

 

 ガルは黙して語らない。

 今はただ、クロエがその激情をぶつけるのに任せていた。

 対するヴァイオラの態度は、あくまで涼し気なもので。

 聞き分けの無い子供が泣き喚くのを見るように、少しだけ眉根を寄せるのみ。

 

 「ええ、お遊びではあったけど、私もそれなりに本気で相手はしていたから。

  あぁ、あの時の態度や言葉遣いが今と違うのは、気にしないで。ちょっと熱が入っていただけだから」

 

 恥ずかしいところを見せてしまった、と。

 照れ笑いすら見せるヴァイオラの事を、クロエは信じ難い気持ちで見ていた。

 話が噛み合わない。感性が決定的にズレている。

 違和感が強まる。やはり、やはり、何かがおかしい。

 

 「姉さん……」

 「まぁ、アレ自体は単なるお遊びだったけど、なかなかに楽しめたし意外な収穫もあったわ」

 

 意外な収穫。

 その言葉が意味するところは、直ぐにヴァイオラ自身が語った。

 

 「クロエ、貴女と再会することが出来た。それは本当に幸運だった」

 

 そう言って笑うヴァイオラ。

 其処に込められた感情が如何なる種類のものか、クロエには分からなかった。

 それは歓喜であるのだろう。

 けれど、生き別れた姉妹に再び出会えた――などという、単純な喜びとは異なる気がする。

 或いは、取り逃がした獲物と偶然巡り合った事を喜ぶ獣のような……。

 

 「――ねぇ、私の元に来なさいな。クロエ」

 

 淀む思考に、その言葉は針のように突き刺さる。

 そう言われる可能性は、当然考えていた。

 それでも実際に口にされると、クロエは動揺を抑えきれなかった。

 声の震えを隠しきれない。

 

 「……本気で、言っているの?」

 「勿論。貴女の事が必要だから、こうして話をしているの」

 「必要、必要?」

 

 胸が痛い。

 それは怒りか、それとも悲しみか。

 余りにも勝手な言い分に、荒れる感情で心が焼ける。

 その炎は、胸の内だけでなく言葉という形でも燃え盛った。

 

 「なら! どうして、私はあの燃え尽きた村に一人捨て置かれたの!?

  何もなかった、その時の私には何もなかった! 何もないまま、私は置き去りにされたのに……!」

 「…………」

 

 叫ぶ。滲む涙は乱暴に拭った。

 傍らに立つガルは、今は何も言わずに静かに見守るのみ。

 ただ、傍にいてくれるだけでもクロエにはありがたかった。

 

 「この帝都に辿り着いて、貴女に再会するまで、昔の記憶も殆ど失っていた!

  そんな私が、今さら『必要』だなんて都合の良い言葉をどう信じろって言うの……!?」

 

 クロエは其処で一度言葉を切ると、叫び過ぎて乱れた呼吸を整える。

 妹の感情の発露、それを聞いていたヴァイオラは。

 

 「……そうね。正直に言えば、カリュブディス様の一件まで、貴女が生きているとは少しも思わなかった」

 「っ……」

 「あの村は役目を終え、必要がなくなったから廃棄された。其処にいた人間も含めて」

 

 淡々と。

 変わらず穏やかに微笑んだまま、悍ましい過去の事実を口にする。

 不要だから、全てを灰にしたと。

 元々は其処に、自分の事も含まれている事もクロエは悟った。

 悟って、気が付けば酷い吐き気に襲われていた。

 ヴァイオラの言葉は、それで終わらない。

 

 「でも、貴女が生きているのを見た時、嬉しかったのは本当よ? それ以上に驚きはしたけど」

 「っ……姉さん……」

 「私以外に、魔剣の力をちゃんと扱える者はいなかった。だからあの「家」の子供達は廃棄された。

  けど貴女は一人だけで生き延びて、しかも魔剣の力もちゃんと使えるようになっていた」

 

 それはどんなに素晴らしい事かと、ヴァイオラは何処か陶酔したように語る。

 恐ろしい。クロエは自分が抱く恐怖を自覚していた。

 今、ヴァイオラが口にした言葉には、ある重大な事実が含まれていたから。

 

 「……姉さんは……姉さんは、あの村が、あの「家」が……用済みとして焼かれる事を、知っていたの……?」

 「ええ。知っていたわ。――本当は、貴女だけでも一緒に連れて行きたかったけど、それも難しくて」

 

 笑っている姉の姿は、もう過去のいずれとも重ならない。

 彼女は変わってしまったのか、それともその本質を幼い自分が見えていなかっただけなのか。

 どちらであるかは分からないし、今になっては重要な問題でもない。

 

 「けど、今の貴女なら、きっと陛下も気に入って下さる」

 

 差し伸べられた手を、クロエは凝視していた。

 言葉で言い表せない無数の感情が、その視線に乗せられて渦を巻く。

 そんな妹に対して、ヴァイオラはあくまで聖女の如き穏やかさで微笑みかけて。

 

 「さぁ、どうかこの手を取ってクロエ。私は貴女を愛しているし、とても大事に思ってる。

  ――だから、貴女の事を不要だと思わせないで。お願いだから」

 

 美しい過去の残滓は、今や悍ましい現実へと姿を変えて。

 闇の淵から這い上がって来た少女に向けて、深淵の底から手招きをしていた。

 

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