第四部:薔薇の帝都

序章:不安の目覚め

第九十七節:過去


 ―――それはもう、過ぎ去ってしまった記憶の残滓。

 

 

 その村は、本当に何もない場所だった。

 大きな街からは遠く離れ、周囲は山や森で深く閉ざされている。

 日々の糧は小さな畑と、森の恵みによって賄われていた。

 村人の数も決して多くはない。精々、百人にも満たないぐらいだろう。

 狭い集落だが、彼らの顔を『彼女』は殆ど覚えていなかった。

 彼らと話をするどころか、顔を合わせる機会も滅多になかったから。

 いつも、『彼女』と――『彼女』の兄弟姉妹は、その「家」の中だけで生活をしていた。

 寂れた山村には似つかわしくない、少しだけ大きな「家」。

 白い外壁は汚れも殆ど無く、余計に村の中からは浮いて見えた。

 其処が『彼女』達が暮らす「家」。

 朝の早くに目覚め、夜に眠りに就くまでの時間の大半をその中でのみ過ごす。

 誰も疑問に思った事はない。

 多くの場合、子供達だけで生活を営んでいた。

 一日の内、決まった時間にだけ「家」の外から大人がやって来て、「必要な事」を行う。

 それは訓練であったり、勉強であったりと様々だ。

 大人達は外套や仮面で姿を隠している為、それが村の人間なのかそうでないのかも分からない。

 ただ、確かなのは。

 彼らはそれを、ただ義務的に行っていたという事だけ。

 白い「家」の子供達に、彼らが愛情を向けたと思える事は一度もなかった。

 ただ必要な言葉だけを喋り、コミュニケーションは最小限に抑える。

 仮面を付けている彼らの表情を見た事はない。

 それでも『彼女』は、その仮面の隙間から覗く眼を見て、彼らがどんな感情を抱いているかは察した。

 恐怖か――或いは、畏怖。

 自分には到底理解出来ない、何か恐ろしいモノを見る眼。

 何故、大人達は恐れているのだろう。子供達からすれば、厳しく当たる彼らこそ恐怖の対象だ。

 今にして思えば、高圧的な態度は自分達の感情を誤魔化す為の行為だったのかもしれない。

 しかし子供でしかなかった『彼女』は、まだそんな事は分からない。

 大人達がどうして、自分達をあんな眼で見るのか。

 どうして、彼らは自分達を嫌っているのか。

 やはり、人とは違うからだろうか――細く長い尾も、頭から伸びた角も。

 大人達は誰も持ってはいない。それがあるのは、この「家」の子供達だけだから。

 

 「――大丈夫、気にする事なんてないわ」

 

 そう、優しく声を掛けてくれる人がいる。

 『彼女』はいつも、その声を聞くだけで不思議と気分が落ち着くのを感じた。

 その夜も、子供達の寝室で一人膝を抱いていた『彼女』に、その少女は優しく語り掛ける。

 白い、白い少女だった。『彼女』の双子の姉。

 黒い髪、黒い角、黒い尾を持つ妹とは対照的に、その全てが白く染まった姉。

 「家」の子供達の中でも特に優秀で、大人達すらも姉には強い言葉を口に出来ない。

 まだロクに「剣」も使えない『彼女』からすれば、その姿は神様にも等しく見えていた。

 

 「あの人達は弱いから、自分を強く見せたいだけ。そんな相手にどう思われようと、私達には関係ないわ」

 

 優しく。誰よりも優しく。

 白い姉はいつも、気の弱い『彼女』の事を気遣っていた。

 訓練で泣いてしまえば、直ぐに傍に駆け寄ってくれて。

 勉強で分からない事があれば、それを直ぐに分かるよう教えてくれた。

 この狭く限られた世界で、そんな姉は『彼女』にとって正に神様そのものだった。

 そんな優しい神様は、今日も穏やかに妹へと慰めの言葉を囁く。

 

 「此処は狭く窮屈で、嫌な事ばかりだけど。大丈夫よ、もう少しの我慢だから」

 「……もう、少し?」

 「ええ、そう。これは私しか知らない事で、他の人に言ってはダメなの。だから貴女も秘密にしてね?」

 

 そう言って、姉は悪戯っぽく微笑みかける。

 完璧で完全で神様みたいな姉だけれど、時折そんな風に年相応の顔を見せる事もある。

 それが何だか嬉しくて、『彼女』もまた小さく微笑み返しながら頷いた。

 白く細い指先が、黒く長い髪をそっと梳く。

 其処に込められているのは慈悲か、愛情か。それとも別の何かか。

 少なくとも、唯の幼い少女でしかない『彼女』は、姉からの行為を全て親愛として受け取っていた。

 

 「もうすぐね、お迎えが来るのよ」

 「お迎え……?」

 「ええ、そう。『必要な事』は、もう済んでしまったから」

 

 優しく、砂糖菓子のように甘い姉の言葉。

 其処に込められた意味が何であるのか、『彼女』には知る由もなかった。

 ただ、姉が喜んでいる事は理解出来たので、『彼女』もまた嬉しくなって。

 

 「お迎えが来たら、外へ出られるの?」

 「ええ、そうよ。もうこんな場所にいなくても良い。村の外へだって行ける」

 「ホントに?」

 「ええ、ホント。私が貴女に嘘を吐いた事がある?」

 

 悪戯と称して、いっぱい言われた事もある気がしたが。

 きっとそういう事ではないだろうと思って、『彼女』は小さく首を横に振った。

 模範解答に気を良くしたのか、姉はいつもより強めに頭を撫でてくれた。

 

 「私と、貴女。きっと一緒に外に出られる」

 「ん。他の皆は?」

 「他の皆も、多分ね。私も全部を聞いたわけではないから」

 

 曖昧に微笑んで、姉は妹の問いに言葉を濁す。

 それは嘘は言えないけど、本当の事も言えずに誤魔化す時の言い回し。

 其処も『彼女』は察していたが、それ以上深く聞く事はなかった。

 姉は神様で、自分とは違うから。

 ハッキリ言葉に出来ないのなら、何か理由があっての事だろう。

 少なくとも、その時の『彼女』は無邪気にそう信じていた。

 仮にこの時、姉に真意を問い質したところで、その後の運命が変わるわけでもない。

 過去はただ、定まった流れに向けて緩やかに進行していく。

 

 「さ、今日はもう寝ましょう? それとも、添い寝がないと眠れない?」

 

 姉妹が寝台を分けるようになってから、まだ日も浅い。

 妹の寝つきがあまり良くない事を知っている姉は、悪戯っぽく笑って見せた。

 『彼女』はそんな姉の言葉に、少し恥じらうように顔を伏せる。

 それから、やはり照れた様子でモジモジしながら。

 

 「……うん。一緒に、寝て欲しい」

 「……もう、しょうがないわね。今日だけよ?」

 

 そうやって、姉は妹のお願いを同じ言葉で聞き届けてくれる。

 今日だってそう。優しく微笑みながら、姉は『彼女』の頭を撫でた。

 それから小さな寝台に、二人身を寄せて横になる。

 同じ血肉を分けた姉妹。互いの吐息も体温も、これ以上なく伝わる距離。

 鏡合わせの互いの顔を見つめ合ってから――どちらから兎も角、小さく微笑んだ。

 

 「……おやすみなさい、お姉ちゃん」

 「ええ、おやすみなさい。明日はきっと、良い日になるわ」

 

 優しい姉の声を聞きながら、『彼女』はそっと目を閉じる。

 これまで、良い日と思った事なんて滅多にないけれど。

 姉がそう言うなら、きっとそうなるのだろう。

 明日は、きっと良い日になる。

 『彼女』はそう信じて、穏やかな眠りに落ちて行った。

 ――それが、運命の日が訪れる、その前夜の事だとも知らずに。

 

 

 「ッ――――!!」

 

 自分が一体、何を叫んだのか。

 声は言葉にならず、自分の口から発せられた音で覚醒は訪れた。

 呼吸は乱れ、動悸も不規則に早まる。

 滲む視界は、知らず流していた涙によるものか。

 暫し茫然と、クロエは見知らぬ天井をぼやけたその眼で見つめ続ける。

 そうしていると、予告なしの部屋の扉が開く。

 ゆっくりと首だけ動かせば、其処には大柄な影――蜥蜴人の姿があった。

 誰か。誰だったか。あぁ、そうだ。

 

 「ガル……」

 「あぁ、大丈夫か?」

 

 余り大丈夫とも言い難いが、クロエは小さく頷いた。

 頭が鈍く痛む。泣き過ぎた時と同じ感覚。

 そうだ、昔の自分はよく泣く子供だった。

 固く閉じていた蓋が壊れたように、過去の断片は泡のように浮かび上がる。

 全てはあの時、白く染まった自分――姉と、再会した瞬間から。

 

 「……此処は?」

 「覚えていないか」

 

 ガルの確認に対し、クロエはまた小さく頷く。

 其処は、清潔に整えられた寝室のように見えた。

 横たわるベッドは柔らかく、置かれている家具は質素であるが安物ではない。

 確か、次元門ポータルを通じて帝都に入り、其処で姉と出くわして――それから。

 

 「此処は帝都内にある宿屋だ。あの白い女――ヴァイオラと名乗ったが、奴の紹介で部屋を取った」

 「ヴァイオラ……」

 

 そんな名前だったか。

 過去は浮き上がるが、細かい部分は曖昧なままだ。

 そも、妹の自分が姉の名を呼ぶ事もそうそうなかった気もするが。

 

 「お前の具合も悪そうだったからな。一先ず、言う事を聞いた」

 「そう……ありがとう。それと、ごめんなさい」

 「問題はない。辛ければ、少し休め」

 

 そう言って、ガルはクロエの頬を気遣うように撫でた。

 硬い鱗に覆われた、無骨で大きな手。

 過去の記憶ある手とはまるで違うけれど、今はこの手の感触に安心する。

 そうして暫しの間撫でてから、そっと手を離す。

 

 「食事はどうする?」

 「食欲があるとは言い難いけど……食べるわ。身体が持たないし」

 「なら、宿の者に伝えておこう」

 「ありがとう。それと、ビッケやルージュは……?」

 

 今のところ姿が見えない仲間二人。

 一体何処に行ったのか、些細なことがクロエの不安を大きくしてしまう。

 その問いかけに対し、ガルは一つ頷いて。

 

 「ビッケは、街中の探索と偵察に出ている。ルージュは酒の飲み過ぎだ。今は別室でダウン中だな」

 「そ、そう……」

 

 ビッケはまだしも、ルージュの行動はあまりにいつも通り過ぎる。

 今頃、幾つもの酒瓶に囲まれたままグースカと幸せそうな寝息を立てているのだろう。

 そうでなければ、吐き過ぎて起き上がる気力すら失せているか。

 どちらもありそうな話だし、どっちも鮮明に状況を思い浮かべられる事に、クロエは少し笑ってしまった。

 

 「……折角だから、食事は四人で取りたいわ」

 「む。なら、ビッケが戻るのを待つか。そう遅くはならんだろう」

 

 何かしら面倒事トラブルを引っ掛けてしまった場合は、その限りではないが。

 とはいえ、そんな事を考えたしたら切りがないだろう。

 それからガルは、一度ベッドから離れようとするが……。

 

 「……む」

 

 強い力ではない。

 けれど確かな力を込めて、細い指先がガルの大きな手に絡みついていた。

 傍から離れて欲しくないと、そう訴えるように。

 

 「分かった。ルージュの様子は、また後で見に行けば良いだろう」

 「……その、ごめんなさい」

 「構わん」

 

 クロエの小さな手を、痛みを与えないようそっと握り返して。

 立ち上がりかけたガルは、またその場に腰を下ろした。

 それを確認してから、クロエは小さく息を吐く。

 ――果たして、これからどうなるのか。

 分からない。奪われたはずの過去も、今は少しずつ頭の中に断片が浮かび上がりつつある。

 全てを思い出せるのか。思い出せないのか。

 何もかもが曖昧で、一寸先さえハッキリと見えないような状況の中。

 ただ一つ、この手の温もりだけは確かなもので。

 

 「…………」

 

 クロエは何かを言おうとして、それを呑みこんだ。

 何を言おうとしていたのか、そもそも分かっていなかったかもしれない。

 ガルはそんなクロエの様子に気付いていたが、敢えて何も言う事はしなかった。

 ――帝都。《狂気の薔薇》が咲き誇る、巨大な《帝国》の中枢。

 果たしてこれから、此処で何が起きるのだろう。

 今はただ、不安と弱音を誤魔化そうとするように。

 黙って傍にいてくれるガルの手を、少しだけ強く握り締めた。

 

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