第九十三節:たった一つの冴えないやり方

 

 最初に感じ取ったのは、森の匂いだった。

 重く沈んでいた意識はそれに引き寄せられるように浮上する。

 

 「……あー」

 

 小さく呻き声を上げながら、ルージュは目を覚ました。

 軽く頭を振ってから、改めて周囲の状況を確認する。

 其処は森の中だった。

 神殿地下で一度、豹頭に攫われた時に見た幻影の森と雰囲気は近い。

 少し考えてから、先ず手近な木の枝に手を伸ばす。

 幻で作られた森とは違い、此処は指で触れる感触がある。

 幻覚ではない。が、現実世界でもないだろう。

 

 「神サマの心象世界……ってところかねぇ」

 

 自分は確か、あの巨人を形作る黒泥へと飛び込んだはずだ。

 中心核であろう石棺、それを直接どうにかする腹積もりだったが。

 どうやら得られた成果は、予想よりも大きいようだった。

 

 「さて……」

 

 迷わず、ルージュは目の前の森へと歩き出した。

 此処が現実の世界ではなく、あの樹海の神の心象に基づく世界であるならば。

 迷うかもしれない、という心の動きが実際に反映される可能性も高い。

 必要なのは強い心の在り方だ。

 根拠などいらない。ただ確信を持って前へと進む。

 そうして森の中を歩きながら、ルージュは視線を巡らせてその様子も観察する。

 森は静かで、流れる空気は酷く穏やかだ。

 あの神殿地下で見た幻覚の森は、この心象風景が現実世界に投影されたものだったのかもしれない。

 それだけ樹海の神にとって、この森は特別なものなのだろう。

 最早、神自身も忘れてしまった過去の残滓なのか。

 

 「……やっぱ構造もあの場所と似通ってるねぇ」

 

 程なく、木々の向こうに大きな石の祭壇が見えて来た。

 これもまた神殿地下や、先ほどの神殿頂上にあったものと良く似ている。

 傷つき、朽ち果て、もう何の神を祀っていたかも分からない祭壇。

 その前には、樹海の神が今の人柱として憑依している少女が一人跪いていた。

 人柱の少女は――いや、その姿を借りているだけの樹海の神は、微動だにしないまま祭壇に祈っている。

 ルージュは自分の存在を隠す事なく、堂々とそちらの方へと近付いた。

 

 『……何故』

 

 思念。森全体から響くような、樹海の神の声。

 

 『何故、何故だ』

 「聞きたい事があるんなら、質問の意図をもっと明確にして欲しいねぇ」

 

 軽い口調で言いながら、ルージュもまた石造りの祭壇の前に立った。

 相変わらず、樹海の神の思念は強い圧力を伴っている。

 此処が神の心象世界であるなら、それは相手の腹の中にいるのも同然だろう。

 仮にこの場で力に訴えられたなら、ルージュには抗う術は存在しない。

 だが同時に、ルージュは気付いていた。

 樹海の神から、怒りや敵意といった強い感情が失せている事に。

 

 『……何故、お前はこんなところに来られた』

 

 祭壇に祈る姿勢のまま、樹海の神は思念だけで問いかけてくる。

 其処にあるのは困惑に近い感情。

 何故、どうして、理解が及ばない。

 

 『私に祈らぬ者よ。何故、お前は私の中へと踏み込む事が出来たのだ。

  お前は何故――私に対し、敵意を持っていないのか』

 「前者はあたしもよー分からんから、ちょいと答えるのが難しいけどねぇ」

 

 頭を掻きながら、ルージュは軽く答える。

 此処は樹海の神、その心の世界だ。嘘偽りに意味はない。

 故にルージュは言葉を選ばず、ただ本心だけで神の問いに答えた。

 

 「敵意がないってのは、まぁちょっと違うかもしれないけどね。

  別におたくは憎い仇ってわけでもなし、散々脱出の邪魔されてムカっぱらぐらいは立ってはいるけど」

 

 言葉を少し区切って、大袈裟に肩を竦めて見せる。

 それから何でもないように笑って。

 

 「そんなのはまぁ、一晩酒でも呑めば忘れるぐらいの事さ。

  コイツ邪魔しやがって鬱陶しいなぁ、ぐらいにゃ思っても、敵だの何だのとは考えちゃいないね」

 

 まぁ他の連中がどうかは知らないけど、と付け加えて。

 ルージュは樹海の神の疑問に答えを示した。

 それは理屈のようで、何と滅茶苦茶な話だろうか。

 これまで、試練と称して何度も死ぬような目に遭わせた相手だろうに。

 ムカっぱらが立つどころか、討たねばならぬ敵と認識するのが普通だろうに。

 それでもルージュは簡単に、「ただ道を邪魔してきただけの相手」と言ってのけたのだ。

 樹海の神は、その心に理解が及ばず暫し絶句する。

 敵とは、己の道を阻む者だ。そしてそれは、必ず滅ぼさねばならない。

 多くを忘却した樹海の神の中にも、「薔薇」に討たれた際の屈辱は消えぬ傷として残っている。

 その傷は今も尚、痛み続けていて。

 

 『……その考えは、余りにも愚かだ』

 「かもしれないねぇ。まぁ酔っ払いの戯言と思っておくれよ。あ、今アルコール抜けてるか」

 『それならば何故、お前はたった一人でこの世界に踏み込んだ。

  私がその気になったならば、お前の心を千々に砕く事など容易いというのに』

 

 その言葉に従い、世界全体の圧力が強まる。

 握った手に少し力を加えるように。

 樹海の神がそうしようと思ったのなら、この心象世界ごとルージュの存在を握り潰せると。

 そう示されても、ルージュは動揺の一つも見せない。

 

 「――まっ、特に深い考えがあったわけじゃないねぇ。

  たまたまやれそうなのが、仲間の中であたしだけだったぐらいでさ」

 

 あっさりと。

 本当に呆気ないぐらいに、ルージュは己の無策を暴露した。

 荒れ狂う神威に、比較的に安全に近付けそうなのが自分だけだった。

 そして巨人の核である石棺に辿り着けたなら、何か手立てがあるかもしれない。

 それだけだ。本当に、ルージュの考えはそれだけだった。

 余りと言えば余りの発言に、「愚か」という言葉すら出せなくなる。

 

 『……それで、何ともならなかったら、どうするつもりだったのだ』

 「別にどうも。博打に負けるってのは、そういう事だろ?」

 

 そう言って、ルージュはケラケラと笑ってみせた。

 何処まで本気なのか。いやそもそも、正気に基づく発言なのか。

 若干以上に引き気味な空気を感じたか、ルージュは誤魔化すように咳払いを一つ。

 それから軽く頭を掻いて。

 

 「まぁ、結果としちゃあ大体予想通りに上手く……上手く? 行ったようだし、まぁ結果オーライさ」

 『何を、何をどう予想し、上手く行ったなどと言うのだ。この状況で、何が』

 「分かんないかねぇ」

 

 物分かりの悪い神サマだと、皮肉と共に小さく笑う。

 笑ってから、ルージュはその場に跪いた。

 そうしてから、祭壇に向けてその指を祈りの形に組む。

 それは完璧なまでの、礼拝の姿勢だった。

 今までで一番の驚きが、樹海の神の世界を満たす。

 

 「賭けが上手く行くかどうかって時に、人間は必ず「神頼み」をするもんさ。

  どうか神様、助けて下さいってね」

 

 ルージュはいつも、それを幸運の女神たるデューオに向けて行う。

 けれど今回は、デューオ神だけに神頼みをしたわけではない。

 司祭としての祈りと信仰は、女神デューオの契約に捧げている。

 だが必ずしも、「神を信じる事」は神格との直接的な繋がりだけに依るものではない。

 

 『……お前は、私に祈ったというのか? だが、そんなものは……』

 「届かなかった。まぁ、アンタは自分が何者かも忘れてるし、あたしもよく分かってないからね。

  行き場の分からない祈りが届く道理はないさ。普通ならね」

 

 けれど、ルージュは黒泥の中へと身を投じ、核たる石棺に直接触れた。

 それが物理的な「縁」となって、細やかな祈りはようやく死したる神に届いた。

 故に、そうと意識せぬままに神はその祈りに答えたのだ。

 ルージュは祭壇に向けて、改めて祈りを送る。

 それが正しく神意に通じると信じて。

 

 「……もう、良いんじゃないかい?」

 

 口にするそれこそが、祈りの言葉。

 誰も――自身すらもその名を忘れてしまった神に向け、ルージュはただ祈る。

 

 「アンタがおかしくなっちまったのは、まともな依代もないまま現世に留まり過ぎたからだ。

  もう、あるべき場所に帰っても良い頃合いじゃないかい?」

 『…………』

 

 ルージュの祈りに、樹海の神は黙する。

 彼女は正しい。

 この身が狂気を帯びるのは、摂理に逆らい続けた事で生じた歪みだ。

 歪みは正す必要がある。

 この物質世界を去り、神々の領域へと上がってしまえば歪みも消えるだろう。

 だが、そう単純に済む話ではない。

 

 『私に、全てを忘れて現世を去れと、そう言うのか』

 

 樹海の神は覚えている。

 何もかも忘れて、失ってしまった今でも。

 決して無くすことのない、始まりの衝動がある。

 

 『全て、全て奪われたのだ。あの忌まわしき薔薇に、悍ましき魔剣の王に。

  奴がどれほど凄惨に、どれほど残酷に、私を信じる者達を殺したのかお前は知るまい』

 「…………」

 

 溢れ出す憎悪は、神自身ですら抑える事が出来ない。

 許せるはずがない。忘れられるはずがない。

 この怒りを、この憎しみを楔として、肉体が死した後も現世に留まり続けたのだから。

 森の緑に燃える赤色が混じり始めるのを、ルージュは感じていた。

 この世界の主たる、樹海の神の心を表す形で。

 強烈な熱気と共に、森の木々は煌々と燃え上がる。

 

 『許せるものか! 故に、私は――』

 「それでも」

 

 赤く、炎となって自らの心さえ焼き焦がす神の怒り。

 それに対し、ルージュは第三者として冷たい言葉を差し込んだ。

 

 「。――こんなところで、たった一人で怒り狂ってるだけじゃね」

 

 炎が弾ける。

 憤怒のままに、神威が周囲を圧した。

 熱と圧力に押されながらも、ルージュは退く事はしない。

 一歩も引かず、ただ正面から怒れる神を見据えて。

 

 「さぁ、選ぶのはアンタ自身だよ。神サマ。

  あたしの言葉を戯言だと蹴って、このまま煮るなり焼くなり殺すなり好きにすりゃ良い」

 

 けれど。

 

 「もし、少しでもさっきの祈りが通じているんなら――」

 

 何を選ぶべきなのか。

 樹海の神は黙したまま、炎は未だ燃え続ける。

 一瞬とも永遠とも分からない空白を挟んで。

 

 『――――』

 

 樹海の神は、その言葉を発した。

 ただ一人、この内なる世界に踏み込んで来た愚か者へと向けて。

 それを聞くと同時に、ルージュの意識は真っ白い光に染まっていた。

 

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