第九十二節:祈りの価値

 

 激しい戦いの最中に、クロエはそれを見ていた。

 空を塞ぐ暗雲、其処から地に落ちる雷。

 樹海の神が撒き散らす嘲笑、嵐の如く荒れ狂う黒泥の巨人。

 地獄と表現する他ない光景。

 ガルや、帝国の戦士であるガイストやシリウスが。

 ジリジリと追い詰められながらも、一歩も退かずに抗い続ける戦場に。

 まるで散歩でも出向くような足取りで、後方に下がっていたはずのルージュが踏み込んだ。

 一体、彼女は何をするつもりなのか。

 クロエは驚き、同時に疾風となって地獄を駆け抜ける。

 

 「ふっ……!!」

 

 迫りつつあった黒泥の波を、その魔剣の切っ先で斬り払う。

 それは変わらず巨人に痛手を与える程ではないが、多少なりともその動きを鈍らせる。

 黒泥の嵐に、僅かに出来た空白。

 其処に滑り込むように、クロエはルージュの傍らに降り立った。

 

 「やぁ、悪いねぇ」

 「ちょっと、何をしてるのよルージュ! 前に出たら危ないから……」

 「まぁ危ないのは分かってるんだけどねぇ」

 

 言葉を交わしながらも、ルージュは歩みを止めなかった。

 慎重ではないが、性急でもない。

 本当に普段通りの足取りで、女司祭は黒泥の巨人の方へと進み続ける。

 

 「ルージュ……!?」

 

 クロエは呼び止めようとするが――同時に、目の前の光景に息を呑んだ。

 荒涼とした祭壇に、その中心で怒りを嵐に変えて振り回す神威。

 本来ならば心身共に凍り付きかねない畏怖も、ルージュは風が吹いた程度に受け流す。

 降り注ぐ雷は一つでも、彼女の歩みを阻む事はしなかった。

 一歩、また一歩。

 ゆっくりと、だが確実に死せる神の元へと向かうその姿。

 その場面だけを切り取れば、神秘に満ちた宗教画にも見えるだろう。

 ――或いは、こういった光景を人は「奇跡」と呼ぶのか。

 

 「……ま、此処までは予想通りと」

 

 歩み続けながら、ルージュは小さく呟く。

 そう、此処まではいい。

 樹海の神にとって、ルージュの存在は大事な生贄であり人柱だ。

 下手に負傷を与えるような攻撃を直接当てては来ないだろうと、そう踏んでいた。

 外したら最悪だったが、其処は何とか予想通り。

 本当の正念場は此処からだ。

 

 『――贄よ』

 

 思念が響く。

 それは、飢餓に近い感情を含んでいて。

 黒泥が渦を巻いて、さながら巨大な蛇のようにうねる。

 それはそのまま、凄まじい勢いでルージュ目掛けて押し寄せて来た。

 当然、避けられるようなタイミングではない。

 

 「イアッ!!」

 

 ガルが雄叫びと共に、それを大金棒で蹴散らす。

 僅かに遅れて、クロエもまた魔剣を振るって黒泥の波を裂いた。

 それと同時に数発の矢が頭上を越えて跳び、神の注意を引こうと黒泥を穿つ。

 

 「姐さん、やっぱり無茶だってば!」

 「あたしも出来ればやりたかないんだけどねぇ」

 

 遠く、雷を避けながら弓を構えるビッケの言葉に、ルージュは苦笑いと共に答える。

 それでもやはり、その足は止まらない。

 助けに入ったガルは、何かを悟ったように一つ頷いて。

 

 「勝算はあるんだな?」

 「ま、助けがあれば勝ち目のある博打だとは考えてるねぇ」

 「そうか」

 

 詳しくは聞かなかった。

 そこまで細かく確認している余裕もない状況だ。

 故にガルは、ルージュのその一言だけで十分だと判断した。

 

 「進め。邪魔をさせない程度の仕事はしよう」

 「や、悪いねぇ。旦那」

 

 迫る黒泥を叩くガルの背に、短く礼を述べてルージュは進む。

 せめてもの援護として、幸運を呼ぶ祈りを唱えながら。

 

 「っ……もう……!」

 

 どう見ても無茶なことをしようとしている。

 それは分かっているが、もう止められる流れでもない。

 細い尻尾を感情的に揺らしながら、クロエもガルに倣って剣を構えた。

 

 「死んだりしたら怒るからね……!」

 「あたしも死にたくはないねぇ。いや心配させて悪いね、ホントに」

 

 この少女は、本気で自分の命を気遣ってくれている。

 そんな人の良さに苦笑しながらも、ルージュは本心からクロエに謝罪を口にした。

 そう、最初から死ぬ気はない。

 自己犠牲を肯定できるほど、ルージュは自分を聖人とは思っていない。

 だから、これは単純な博打ギャンブルだ。

 勝ち目の見えない戦況で、少しだけ見えた一つの勝機。

 それに何とか手が届きそうなのが、たまたま自分だっただけの事。

 失敗したら死ぬだろうが、戦いとはいつもそんなものだ。

 

 「出来れば、酒を入れときたかったねぇ」

 

 幸運の女神デューオは、酩酊がもたらす忘我の瞬間を愛する。

 酒精で酔っ払っていれば、或いは女神も優先的に幸運を分けてくれたかもしれない。

 そんなことを考えながら、ルージュは黒泥の巨人を見上げた。

 

 『何故、何故何故何故何故何故……!!』

 

 大気を震わせ、樹海の神は怒りを吼える。

 贄が、求めている人柱が来た。

 それはいい。取り込もうとするのを、周りの虫けらが妨げるのもまだ許そう。

 神を激憤させるのは、贄として定めたはずのルージュ自身。

 これだけの神威を、世界を自在つする神力を見せつけているというのに。

 その心を満たすのは、幸運の女神に捧げる純粋な祈りだけ。

 其処にはほんの一欠片も、樹海の神に対する畏怖は存在しなかった。

 

 『何故、我を恐れて頭を垂れぬ……!』

 「いやいや、マジでビビってるって」

 

 樹海の神の言葉を、ルージュは手をひらひらと振って否定する。

 恐ろしくないわけがない。

 嵐や竜巻が目の前まで迫っているのに、恐くないはずがないではないか。

 少なくともルージュはそこまで神経の麻痺した人間ではない。

 ――そう、樹海の神は恐るべき脅威だ。

 天変地異の類と比較して何ら遜色はない。

 だが、

 

 「生憎と、ビビって信仰鞍替えする程、不信心なつもりもなくてねぇ。

  前にも言った気がするけど、祈って欲しけりゃ御利益寄こしなってんだよ。神サマ?」

 

 何処までも俗に、何処までも経験に。

 ルージュはあっさりと、樹海の神が誇る恐怖を笑い飛ばした。

 

 『貴様………!!!』

 

 神威そのものを否定されたと感じ、樹海の神はかつてない恥辱に激怒する。

 何故屈しない、何故そんな風に笑えるのか。

 理解が及ばず、それ故に怒りは際限なく燃え上がる。

 その間に、ルージュは巨人からもう十歩程度の距離まで近づいていた。

 ガルにクロエ、ビッケの奮戦によって黒泥の巨人は阻まれ、其処までの接近を許してしまう。

 一体、何をするつもりなのか。

 樹海の神には分からない。

 分からないが、このまま好きにさせるつもりもなかった。

 

 「っ、空が……!」

 

 凄まじい大気のうねりを感じて、クロエは頭上を見上げた。

 天を仰ぐ巨人、その真上で黒雲が鳴動する。

 今まで落ちていた雷とは規模が違う。

 この神殿そのものを吹き飛ばしかねない程の熱量エネルギー

 それが今まさに、神の怒りとして解き放たれようとしていた。

 

 『もういい! 我が為に祈らぬならば、そんな生命は不要だ……!!』

 「わぉ、そこまで逆ギレするかい」

 

 流石にこれが直撃したら死ぬ。

 それは分かっているが、だからと言って防ぐ手立てはない。

 今さらながらにルージュは走るが、これもギリギリ間に合わないだろう。

 他の仲間達――クロエも、ガルも、ビッケも。

 天から降り注ぐ巨大な雷を防ぐような手段を持ち合わせてはいない。

 そう、不可能だ。

 

 「――ちょっと、こっちのこと忘れてない?」

 

 炎が燃える。

 灼熱の魔剣《炎獣》を構えて、シリウスは笑う。

 樹海の神からその存在を忘却されていた戦士は、この瞬間に最高の横槍を入れる。

 彼女はあろうことか、相棒であるガイストの持つ大戦斧――その刃の上に乗っていた。

 

 「行くぞ、舌を噛むなよ」

 「大丈夫。そら、時間無いからさっさとお願い!」

 

 シリウスの言葉に、ガイストは行動で応えた。

 全身全霊、渾身の力を込めた大戦斧を頭上へと振り抜く。

 その勢いに逆らわず、シリウスは暗雲目掛けて大きく跳躍した。

 狙うは力の中心、巨人の真上で形を成しつつある巨大な雷。

 本来ならば抗う事など不可能な天の暴威。

 これに対し、シリウスは真っ向から己の力をぶつけた。

 

 「吹っ飛べ――――!!」

 

 爆炎が散る。

 シリウスの振るった刃は、樹海の神が操る雷と正面から激突した。

 それは凄まじい爆発を引き起こし、その圧力で黒泥の巨人も一瞬動きを止める。

 逆に、巨人が壁となった事でルージュは大きな影響を受けていなかった。

 走る。後はもう、この一瞬の隙に賭ける他ない。

 

 「神の御加護を、ってね……!」

 

 祈りを口にしてから、ルージュは手にした物を口の中に放り込んだ。

 それは事前にビッケから預かっていた《生命の石》。

 如何なる状況でも、最低限の呼吸を確保する事の出来る魔道具。

 これで準備は整ったと、最後にルージュは大きく地を蹴る。

 そうして躊躇いなく巨人の足元――未だ溢れ続ける黒泥の海へと、自ら飛び込んだ。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る