第八十九節:風を裂く

 

 風が荒れ狂う。

 だがそれは、先ほどとはまた少し意味合いが異なる。

 最早、吹いている風に紛れる事もかなぐり捨てて風の精霊が暴れ出す。

 出鱈目に振り回される風の刃は、階段や壁の一部も容易く削り取っていた。

 それを正面から受けるのは、壁として立つ二人の戦士。

 ガルも、ガイストも。

 切り裂かれた傷から赤い血を散らしながら、どちらも微動だにしない。

 

 「面倒だな」

 「それに関しては同感だ」

 

 ガルが呟いた言葉に、ガイストが同意を示す。

 先ほど、不用意に近づいて痛手を負った事を警戒しているのか。

 狂える風の精霊は、階段の吹き抜けの辺りを浮かびながら一定の距離を保ち続けている。

 武器は届かず、けれど風による攻撃は一方的に届く距離。

 此方は矢を射ろうにも、吹き荒ぶ強風の中ではまともに飛ぶとも思えない。

 その為、相手の攻撃を一方的に受けながら、それを無視して前進を続けている状態だった。

 受けた傷は、後方のルージュが治癒を施してはいるが。

 

 「流石にこのまま延々と、ってのは出来れば避けたいところだねぇ」

 「コイツどうにかしても、多分上行ったら本命がいるだろうしなぁ……」

 

 今も十分厄介ではあるが、この風の精霊はあくまで障害物の一つでしかない。

 この階段の先が地上に繋がっているのであれば、間違いなく樹海の神は干渉してくる。

 その予想にげんなりとしつつも、大柄な二人を盾にビッケは試しに弓矢を構えた。

 風のせいで弦を引くのも一苦労だが、それでも何とか風の精霊に矢じりを向けて……。

 

 「……まぁ、やっぱダメか」

 

 放った矢は僅かに飛びはしたが、案の定風に阻まれ弾かれてしまった。

 遠隔の武器では、この吹き荒れる風を突破するのは難しい。

 分かり切っていた事ではあったが、事実の再確認には意味があった。

 

 「結局、あの風の精霊を直接殴るか、それとも完全に無視して先へ進むしかないってわけね」

 

 相変わらずの軽い調子で、シリウスはその結論を口にする。

 そのどちらも、言うほど容易い事ではないが。

 

 「…………」

 

 クロエは風の中に視線を凝らす。

 強風のせいで、視界はお世辞にも良いとは言い難い。

 その中で、半透明の蛇のような姿の風の精霊が踊るように飛び回っていた。

 ――魔法ならば、或いは。

 そう考えたが、直ぐにそれが難しい事も思い至る。

 手元から攻撃を飛ばすような魔法に関しては、先ほどビッケの放った矢と同じ事だろう。

 吹き荒れる風を超えるだけの力がなければ、あの風の精霊まで届かない。

 指定した空間に対し、直接影響を及ぼすような魔法ならば風による妨害は関係ないが。

 そういった呪文は、大抵が範囲に対して攻撃するような呪文だ。

 例えば《火球》とか。

 この状況で炸裂する炎を放てば、一体辺りがどういう状況になるか。

 一度や二度、炎を浴びる程度では死なないだろうが、それは風の精霊の方も同じだろう。

 

 「……いっそ跳躍ジャンプして殴り掛かるとかは?」

 「強風に煽られてすっ転ぶのがオチじゃないかねぇ?」

 

 ビッケのやけっぱちとしか思えない案に、ルージュは苦笑いを溢す。

 確かに、風の精霊が浮かんでいるのは螺旋階段の吹き抜け、その中心辺り。

 手にした武器こそ届かないが、仮に《跳躍》の呪文を受けていれば十分に跳べる距離だ。

 しかしルージュが言うように、この場には突風が吹き続けている。

 今はガルとガイストの二人が壁をしているおかげで、何とか両足で立っている事も出来るが。

 其処から一歩でも出てしまえば、そのまま下の床まで無力に転がり落ちる他ないだろう。

 そうやって思考を巡らせている間も、風の精霊は一方的な攻撃を続けている。

 後方に動きがないと見るや、前に立つ二人に向けて間断なく風の刃を飛ばし始めた。

 見た目は派手だが、受ける傷の一つ一つは深くない。

 だがそれも、いつまでも続けばどうなるか。

 

 「跳べない距離じゃない……けど、跳ぼうにも風が……」

 

 そうクロエは呟き、ふとある可能性について思い至る。

 キチンと確かめたわけではない。

 むしろそんな事は、最初に思い付いて試すべきだったのかもしれないが。

 危険な賭けだ。確証がない以上、成功するかは誰にも分からない。

 それでも今、他に有効な手立てはないとクロエは覚悟を決める。

 

 「……ビッケ」

 「ん?」

 「私に《跳躍》の呪文をかけて、お願い」

 「……マジで? え、本気のつもりなかったんだけど、跳ぶ気なの?」

 「予想が正しければ、多分何とかなるから」

 

 確証があるわけではないので、多分と口にする。

 ビッケは一瞬躊躇い、それから傍らに立つルージュの方を見るが。

 

 「ま、やってみるってんならやってみて良いんじゃないかい? どの道、このままじゃジリ貧だろうしねぇ」

 「最悪、私なら落ちても魔剣の力があるから。死ぬ事はないわ」

 「失敗した場合の保険は大事だけど不安になること言われた……!」

 

 これから呪文を施す側として、ビッケは思わず頭を抱える。

 もし本当に駄目だったりしたら、暫くは仲間が奈落の底に落ちていく悪夢に魘されそうだ。

 そんな話を、風の精霊の攻撃を受けながら背中で聞いていたガルは。

 

 「何をするかは分からんが、頼んだ。このままでも特に問題はないが、流石に鬱陶しくてな」

 

 問題はないと、自身の強気をアピールしつつも。

 それが状況を変える一手になるならと、全幅の信頼を込めてガルは言った。

 それに対し、クロエは小さく頷いて。

 

 「……念のため、だけど。ガルにも少し手伝って欲しいの」

 「む?」

 

 それから、クロエは少し気恥ずかし気に。

 ガルに手伝って欲しい事に関して、なるべく相手にだけ伝わるよう背中に身を寄せて囁く。

 加えて、自分が何をするつもりなのかについて、予め仲間達には伝える。

 ――そうしている間も、風の精霊は只管に攻撃を続けていた。

 樹海の神による生み出されたソレに、理性や知性などというものは存在していない。

 ただ、この地上へと繋がる螺旋階段を守る番人として。

 階段を上る者を地の底へと叩き落すべく、休む事無く風の刃を放ち続ける。

 思った以上に相手が硬くしぶといが、傷がついて血が流れる以上は不死身ではない。

 そうと判断する理性もないが、傷付いた相手に対しては本能的に執拗な攻撃を繰り返す。

 蜥蜴人の男も、半竜人の男も。

 その後ろに隠れている何人かの冒険者も、風の精霊には等しく獲物だ。

 食う為に殺すのではない。

 風の精霊は半物質化しただけの魔力体であり、飲食が必要な肉の身体ではないからだ。

 ただ、殺す為に殺す。

 そのように樹海の神が与えた存在意義。

 それを忠実に実行する機械として、狂える風の精霊は駆動する。

 故に、眼下の獲物達が何をしているかなど、精霊自身は欠片も意識していなかった。

 ただ周囲に風を荒れ狂わせ、近くも遠くもその風で切り刻めばいい。

 だからその通りにした。

 風は不定の刃の群れとなり、触れるもの全てをただ切り刻む。

 ――その風が、届くものに対しては。

 

 「――――!」

 

 声は、風の音で掻き消された。

 吹き荒ぶ嵐の如き風の中を、声を上げながら跳躍する少女。

 再び閃くのは、その手に握った黒い魔剣の一太刀。

 跳ぶ。風が荒れているはずの階段を蹴って、斜め頭上の吹き抜けを浮遊している風の精霊目掛けて。

 風の影響は……予想していた通り、殆ど無い。

 

 「やっぱり……!」

 

 クロエは思い付きが正しかった事を感じ、思わず笑みを浮かべた。

 ……思い返せば、この螺旋階段を上り始める前、此処には風など吹いていなかった。

 調べようと階段を上がったビッケが、突然何もないのに転んだのが最初だ。

 如何なる魔法の力が働いているのか、その原理は分からない。

 確かなのは、今まで感じていた突風はこの階段に身体が接している時だけ、影響を受けるという事。

 ならば宙に向かって飛び上がったなら、その間だけ突風に襲われないのではないか。

 そう予測し、試した結果がこれだ。

 先ほどビッケの矢が弾かれたのは、風の精霊自身が放っていた風によるものだろう。

 

 『…………!!!』

 

 風が激しく唸る。

 精霊は言葉を持たないが、それは苦痛の悲鳴にも感じられる。

 完全に不意を打たれて、二度目の刃がその不定形な存在を深く切り裂いた。

 精霊も風を叩き付けてクロエを地に落とそうと試みたが、それは纏う「帳」によって弾かれる。

 

 「この……っ!」

 

 支えも何もない、不安定な体勢。

 未だに滅びていない風の精霊に向けて、クロエは三度魔剣を振るう――が。

 届かない。切っ先は、更に高い位置へ逃げようとする風の精霊を僅かに掠めるだけ。

 単純に跳躍しただけのクロエの身体は、当然それを追う事は出来ない。

 

 「っ……!」

 

 呪文の補助での跳躍も、頂点に達したなら後は落下する他ない。

 落ちるクロエ。風の精霊は殺意の対象を、そんな無抵抗な状態の少女に定めた。

 思考はない。理性もない。

 ただ受けた痛みの仕返しと、相手が殺しやすい状態であると本能で察して風の刃を渦巻かせる。

 そして剣の届かぬ距離は保ったまま、風の精霊は落ちるクロエを追撃しようとして――。

 

 「……成る程ね、どういう仕組みかは知らないけど」

 

 炎が、邪な風を焼き切った。

 吹き抜けの辺りを纏めて薙ぎ払う、強烈な炎の一撃。

 それは傷ついた風の精霊を呑み込み、呆気なく吹き飛ばした。

 その炎を放ったのは、灼熱の魔剣を携えたシリウスだ。

 彼女は相棒であるガイストの背中によじ登った体勢で、ゆらゆらと自身の魔剣を揺らしてみせる。

 

 「しっかし良く気付いたねぇ、これ。おかげでサックリ不意打ち成功っと」

 

 起こった事は、宙に跳んだクロエと同様。

 ガイストの身体に登った事で自身は階段に接していない形となり、シリウスもまた強風の影響を脱していた。

 

 「……早く下りろ馬鹿。お前と違って、此方は未だに突風の中だ」

 「え、このままで良くない? 風がビュンビュン言ってる状態よりも楽なんだけど」

 「早く下りろ馬鹿」

 

 極めて重要な事なので、ガイストは頭の軽い相棒に同じ言葉を重ねた。

 一方、落下したクロエの方だったが。

 

 「無事か」

 「え、ええ、何とか」

 

 彼女もまた階段を真っ逆さま――という事態にはなっていなかった。

 但し、逆さ吊りの状態。

 丁度、ガルの立っている横の辺りでぶらりと揺れる。

 クロエを自由落下から救ったのは、蜥蜴人の長い尻尾だった。

 予め頼まれていたガルが、クロエの落下が始まると同時にその足を尻尾で掴んだのだ。

 かなりギリギリではあったが、どうにか転落死という最悪の事態は避けられた。

 

 「ありがとう、ガル。おかげで助かったわ」

 「少々危なかったがな」

 「ええ。……それで、その」

 

 流石にいつまでも逆さのままというのは、体勢的にもしんどいし恥ずかしい。

 言葉ではなく、クロエは視線で訴えるようにガルの方を見るが。

 

 「うむ」

 

 見られた方は、一つ頷く。

 ガルの視線はクロエの腰や、お尻の辺りに向けられていて。

 

 「……もう少し、成し遂げた事の対価を味わっても良いのではないだろうか」

 「……無茶したのは悪かったし、それは本当に申し訳なく思うけど、下ろして。早く。ほら」

 

 また尻尾の付け根辺りを見られていると感じつつ。

 クロエは赤くなりながら、その細い尻尾でガルの尾を軽く叩いた。

 

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