第八十六節:炎獣


 『薔薇の走狗が……!』


  炎が渦巻く中、樹海の神が吐き出す怨嗟が響く。

  それをどこ吹く風と受け流して、シリウスは手にした剣を軽く振るう。

  その動きに合わせて周囲で炎が踊るように揺らめくのは、恐らく目の錯覚ではない。

 赤く灼熱する刀身。その剣が何であるか、考えるまでもない。


 「魔剣……」

 「そ、銘は《炎獣ボルカニス》。魔力に関しては、まぁ見ての通り」


 クロエの呟きに対し、シリウスは律儀に応じた。

 女戦士が語っている通り、その力は恐らく炎の操作か。

 魔犬が吐き出す炎すら、空中であらぬ軌道を描いてシリウスの身体に触れる事も出来ない。


 「成る程、便利なものだな。この状況では特に」

 「……シリウス、軽々しく手の内を見せるのは止めろ」


 率直な感想を漏らすガル。

 それに続くように、シリウスの背後から大柄な影が姿を見せた。

 半竜人の神官戦士、ガイスト。

 変わらず巨大な大戦斧を肩に担ぎ、やや非難めいた視線を自らの相棒に向ける。


 「どういうつもりだ?」

 「だって、一人以外は生死不問って言っても、このままじゃちょっと危ないでしょ」

 「……それはそうかもしれんが」


 それならば、その最低限の目標――クロエだけでも生きたまま回収すれば済む話だ。

 一度矛を交えたガイストは、この冒険者達の強さを理解している。

 確かに今は危うい状況だろうが、それでも彼らが為す術なく全滅するとは考えていなかった。

 それでも魔犬を打ち倒すのと引き換えに、多大な消耗は受けてしまうはず。

 与えられた任務を考えるなら、その隙を突くのが最善だったが……。


 「言いたい事は分かるけど、そういうのはちょっとね。

 あっちの女司祭助けておいて、此処はただ見てるだけってのは私の中で理屈が合わないし」

 「……理屈ではなく、単に思い付きで動いているだけだろうに」


 かもしれないねーと、シリウスは軽く笑い飛ばす。

 この気紛れな性質は本当に難儀する。

 それでも能力的には優秀である為、ガイストにとってはこれ以上ない頭痛の種だ。


 「……よく、分からないけど。この場は手助けしてくれる、っていう事で良いのかしら」

 「とりあえずはその認識でオッケオッケ。あ、私はシリウス。こっちのデカブツの同僚だけど、宜しくねー」


 その明るいというか、軽い態度は、未だこの場が死地である事を忘れてしまいそうになる。

 やや困惑を浮かべるクロエの隣で、ガルは一つ頷き。


 「まぁ、面倒な話は後で良いだろう。とりあえず、この状況から片付けるか」

 『……簡単に言ってくれるな、定命モータル

 

 その怒りは、聞く者の心に根源的な恐怖を呼び覚ます。

 例えるならそれは、抗い難い天変地異を前にした人間の胸中。

 抵抗は無意味だと、ただ首を垂れる事しか許さぬと、そう言わんばかりの原始の圧力。

 文字通りの神威、言葉通りの神の怒り。

 ルージュは一人、後方で小さく身震いをした。

 それは神殿内部に「嵐」を引き起こした時と同じか、それ以上の憤怒だったから。

 

 『――殺せ、我が従僕! 此処は死の国、生きる者はなく、在るのはただ喰らわれる死者のみ!』

 

 樹海の神は叫び、その神力を炎に立つ魔犬へと向けた。

 眷属であり、それ故に霊的な繋がりを持つ魔犬に対しては、死したる神も直接影響を与える事が出来る。

 変化は速やかかつ、劇的なものだった。

 

 『『『GAAAAAAAA!!』』』

 

 メキメキと、耳障りな音を立てて。

 ただでさえ大きかった魔犬の身体が、更に二回り以上も膨れ上がる。

 筋肉は膨張し、その上で密度も増して鋼の如き変化を起こす。

 牙や爪も同様に、より硬く、太く、鋭く。

 骨格さえも変化を起こし、身体のあちこちから鋭い角のように突き出す。

 まるで全身から、剣や槍の穂先が生えて来たような有様だ。

 加えて、その骨の角からは体内で渦巻く地獄の炎も噴き出した。

 正に怪物。先ほどまではまだ犬に似た姿だったが、今はもう完全に別物だ。

 その脅威は恐らく成竜さえも超えるだろう。

 強烈な神威を漂わせるその姿は、最早「魔獣」ではなく「神獣」とでも呼ぶべき存在だった。

 

 「イアッ!!」

 「ふんっ……!!」

 

 魔犬の変化は確かに速やかだった。

 が、それでも一瞬と呼ぶには長すぎるその隙を、歴戦の戦士が見逃すはずもなかった。

 大金棒を構えたガルと、大戦斧を担いだガイストが動くのは殆ど同時。

 破壊不能の魔犬すら砕く蜥蜴人の業と、奇跡を宿した半竜人の一撃。

 それは鉄より強靭な毛皮も、鋼にも等しい筋肉も、どちらもぶち抜いて魔犬の身体に負傷ダメージを刻み込む。

 

 『『『GAAAAA!!?』』』

 「流石に、卑怯とは言わないでしょう?」

 

 苦痛に吼える魔犬。その頭上を疾風と化したクロエが走る。

 それでも先ほど以上の反応で、魔犬は自らの頭上へと炎を吐き出して迎え撃とうとする――が。

 

 「変身までして貰って悪いけど、これ消化試合だから」

 

 シリウスの魔剣がそれを許さない。

 もうこの場にある炎は全て、その灼熱の刀身が支配を及ぼしている。

 魔犬が吐き出したはずの炎は無力に散り、其処に漆黒の刃が振り下ろされた。

 

 『『『GAAAッ!!』』』

 

 クロエの魔剣の切っ先は、殆ど抵抗なく三つ首に備わった目の一つを切り裂いた。

 傷口から迸る血さえも、焼けた油のように熱い。

 下手に返り血を受ければそれだけで大火傷だろうが、クロエは身に纏う「帳」でそれらを弾く。

 

 「いやぁ、やっぱ囲んで棒で叩くって最高だね!」

 「ま、数の暴力がやっぱ一番だねぇ」

 

 炎による視界の妨害が無くなった事で、ビッケも躊躇いなく弓矢による支援射撃に徹する。

 クロエが首一つの片目を潰したのに合わせ、更に別の首の目元辺りに向けて鋭い矢を放っていく。

 ルージュの方は多くの奇跡を維持する必要が無くなった為、やや距離を取りつつ一息吐いた。

 

 「イアッ!!」

 

 叫ぶ。戦士の咆哮は、今や獣の咆哮を完全に圧倒していた。

 一撃、二撃、三撃。

 細かい駆け引きなど何も無しに、ただ渾身の力を込めて大金棒を振るい続ける。

 神威を得た強大な魔犬も、当然やられっぱなしではない。

 炎による攻撃を封じられても、魔犬にはまだ巨大な体躯も鋭い爪と牙も備わっている。

 尻尾もまた、突き出した骨によって恐るべき棘付き棍棒フレイルと化している。

 如何なる戦士であれ、定命の者がこれと正面に当たれば、引き裂かれて無惨な肉塊となるしかない。

 ――少なくとも、樹海の神はそう考えていた。

 

 「どうした、アテが外れたか?」

 

 ガイストはそう言いながら、やはり手にした大戦斧を振り回す。

 すぐ傍で見せられるガルの奮戦に対抗する為か、此方の戦いぶりもまた凄まじい。

 単に膂力だけではなく、信仰を糧とする奇跡の力を宿す斧の破壊力。

 それは魔犬の肉を切り裂き、容易く骨まで断ち斬っていく。

 

 『まだだ、こんなものではまだ終わらぬぞ……!』

 

 切り裂かれ、叩き潰され、少しずつ生命の炎を弱らせていく魔犬。

 けれど主たる神は、簡単に倒れる事を許さない。

 

 『『『G……GAAA……GAAAAAAAA!!!!』』』

 

 潰れた肉が、砕けた骨が。

 外部から注ぎ込まれる神力により、半ば無理やり再生させられる。

 司祭が行う奇跡による治療と変わらないようで、その力の規模が異なった。

 ただ単純に傷が治るだけでなく、既に変化し終わっている魔犬の肉体に更なる変化を引き起こす。

 切り裂かれた傷口は、盛り上がった肉によって埋まっていく。

 砕けた骨は、砕ける前よりも更に太く再生する。

 治癒の域を完全に超えた過剰回復。

 それは魔犬に凄まじい苦痛を与えているのか、叫びは殆ど悲鳴に近い。

 最早生物としてのバランスさえも失い出した魔犬の有様に、ビッケは思わず顔を顰めた。

 

 「これは酷い……っつーかあの神様、キレ過ぎて試練だの何だのって建前忘れてない?」

 「ぶっちゃけ正気とか殆ど失ってるだろうしねぇ」

 

 敵とはいえ余りに哀れな魔犬の姿を見て、ルージュは己の神に祈った。

 せめて楽に死ねるよう、その幸運を戦士達が過たず与える事を。

 

 「面倒だな。致命傷では死ぬ前に無理やり治されるか」

 「どうするの?」

 「頭を潰して殺す」

 

 クロエの問いに、生き物ならば須らくそれで死ぬとガルは即答した。

 そのシンプルが結論が気に入ったのか、傍で聞いていたシリウスは愉快そうに笑って。

 

 「良いね! 私の魔剣じゃ炎は操れても、あっちも炎に耐性あるみたいで決定打にはならないし。

  そういうのはパワーに自信ありなゴリラ勢に任せるよ。あ、援護はするから」

 「……仮にも敵対している相手に、気安いにも程があるぞ」

 

 相棒の態度にガイストは低く唸るも、結論としては同意せざるを得なかった。

 

 『『『GAAAAAAAA!!!』』』

 

 魔犬が吠える。その咆哮は、最早敵意よりも狂気の色が強い。

 度重なる戦傷と、肉体を内側から何度も作り変えられる苦痛とはどれ程のものか。

 当然、クロエにそれは理解出来なかった。

 理解出来なかったが、その命脈を速やかに断つべき事だけは分かった。

 

 「ふっ――――!」

 

 走る。この場の誰よりも速く、そして鋭い斬撃が魔犬の脚を切り裂く。

 宿る神力が直ぐにそれを塞ごうとするが、間髪入れずに《見えざる矢》の呪いを放つ。

 肉が蠢く傷口を、力場の矢が深く抉って押し広げる。

 

 「そら、死なないっても限度があるでしょ!」

 

 同じように、シリウスがその刃で傷の上に傷を重ねる。

 本来ならば魔剣が操る炎で切り裂きながら焼くところだが、魔犬には炎に対する耐性がある。

 それでも魔剣そのものの切れ味により、切っ先は肉や筋を超えて骨にまで達した。

 

 『『『GAAAA……!?』』』

 

 どれだけ無茶苦茶な力で傷を無理やり治癒しても、痛みは消えない。

 苦痛に呻いたところで、細い矢が何本も魔犬の眼球へと突き刺さった。

 傷は治る。だが、痛みは消えない。

 

 「流石にちょっと可哀想になってきたかも」

 「だったらとっととトドメ刺してやらなきゃねぇ」

 

 負傷と治癒の痛みに苛まれる魔犬の姿に、ビッケとルージュは小さく呟いた。

 余りの苦痛にのたうち、暴れ狂う巨体。

 それだけでも物理的に脅威だが、尋常ならざる二人の戦士はそれを正面から迎え撃つ。

 

 「哀れなものだな……!」

 

 戦士であると同時に聖職でもあるガイストは、己の神に祈りながらも攻撃の手を緩めない。

 暴れる魔犬に分厚い斧を打ち込み、苦痛に藻掻く身体にまた斧を叩き付ける。

 傷つけられ、それを神力で歪に治癒される度に魔犬の身体はバランスを失っていく。

 樹海の神は気付いているだろうか。

 膨れ上がり、最早生きている事さえ不自然な状態に。

 肉体は巨大となっていくがそれを支え切れず、三つだけの頭の位置が下がりつつある事に。

 

 「イアッ!!」

 

 最初にそれを達成したのはガルだった。

 振り下ろした大金棒の一撃が、真正面から魔犬の頭部を捉える。

 分厚い頭蓋骨は、同じ厚さを持つ鋼と同じ強度を持つ。

 が、そんな事は知らぬとばかりに大金棒はこれを砕いた。

 砕くが、それだけでは魔犬の頭は潰れない。

 頭蓋が砕け、脳の何割かが大金棒の先端に挽き肉にされても、

 

 『『『GA、GAGAAA、GAAAAAA!!』』』

 

 潰れかけた頭さえも、神力は無理やり蘇生させようとする。

 その様は、ある意味では不死者よりも醜悪で――。

 

 「イアッ!!!」

 

 潰した。構わず振り下ろされた、ガルの大金棒によって。

 怯まないし、気にも留めない。

 死なないのならば死ぬまで殴れば済むだけだと。

 ガルは無心に大金棒で殴り続ける。

 抵抗する力が弱まり、それでも完全に動かなくなるまで何度でも。

 

 「ふんっ!!」

 

 それに対し、ガイストは分かりやすく首を断った。

 一撃。分厚い筋肉も太い骨も構わずに、ただの一振りで完全に切断する。

 再生や蘇生を差し挟む余地は与えない。

 圧倒的な威力によって魔犬の命脈を断ち斬った。

 これで首は二つ。そして、最後の一つは。

 

 「……終わりね」

 

 頭頂部から真っ直ぐに、クロエの魔剣が貫いていた。

 魂を喰らう魔剣《宵闇の王》。

 三つ目の頭部が刺し貫かれた時点で、魔犬の肉体は絶命していた。

 それを樹海の神が無理やりにでも蘇生させる事は、恐らく可能であったろう。

 しかし肉体が死んだ時点で、魔剣が対価を得る条件は整っていた。

 

 『『『――――』』』

 

 魂無くば、それは単なる肉塊に過ぎない。

 魔犬は断末魔の叫びを上げる事もなく、その場に脆く崩れ落ちた。

 

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