第八十五節:横槍

 

 炎の海を進む。

 人間の生存を許さない灼熱の地獄。

 それをルージュの奇跡と、クロエの魔剣の力によって強引に掻き分けていく。

 他より少しだけ先を行くガルは、炎の中にある僅かな道を勘によって見つけ出す。

 大気が焼け付く熱に、五感は殆ど役には立たない。

 あるのは根拠を言語化出来ない直感、霊感の類だけ。

 ガルに呪文を使う特別な才はないが、多くの死線を超えた事で戦士の勘働きは備わっていた。

 一つ、一つ。炎の中に足跡を刻む。

 その道が正しいかどうかはまるで分からない。

 分からないが、歩みを止めれば炎に沈んで灰になるだけだ。

 

 「大丈夫か!」

 「何とか……!」

 「全然大丈夫じゃないけどまだ生きてはいる!」

 「割と真面目に死にそうではあるねぇ」

 

 こうして誰ともなく、他の仲間の生存を確認する為に声を張り上げる。

 炎の中を歩き出して、どれだけ経つかは分からない。

 過酷過ぎる環境に、正しい時間感覚はとうに失われていた。

 少なくとも、今はまだ誰も力尽きていない。

 その事実だけを確認し、進む足は一秒たりとて止めなかった。

 

 「……何……?」

 

 炎の中、微かに聞こえる音をクロエは聞いていた。

 最初は空耳かと思ったが、明らかに炎が燃える音とは異なる。

 仲間の内では比較的に神経が鈍いクロエが聞こえたから、他の仲間達も同じように聞こえているようだった。

 噴き出す汗すら直ぐに蒸発する熱気の中で、ビッケは反射的に額を拭い。

 

 「まさかとは思うけど、こんな中で敵までいるんかい」

 「いない理由はないだろうな」

 

 獣の唸り声。そう判断し、ガルは頷く。

 

 『超えて見せよ。試練を。此処は死の国、炎熱の地獄。地上を目指すならば、その底から這い上がってみせよ』

 

 狂気じみた神の言葉は、この場では黙殺する。

 最早問答など成立するような状態ではないだろう。

 それよりも、この炎の中でどんな「敵」が襲ってくるかの方が問題だった。

 

 「普通に考えて、こんな炎の中にいるなんてまともな奴じゃあないと思うけど」

 

 ルージュは皮肉交じりにそう呟く。

 時折、虚空に向かって骰子を振り、途切れかけた奇跡を再度上書きする。

 蓄積した炎によるダメージも治癒で癒している為、仲間の中で彼女の消耗が一番大きい。

 思えば此処まで、遺跡の中という事もあってロクに休息を取る事も出来なかった。

 休み無しに精神を削る奇跡を行使し続けるのは、心身に対して途方もない負担となる。

 

 「ルージュ……」

 「大丈夫だから、アンタは前に集中してなよ」

 

 自分も大して余裕などないだろうに、気遣いを見せるクロエをルージュは軽く笑い飛ばした。

 

 「此処で多少無理しなきゃ全員死ぬような状況だ。だったら少しぐらいは仕方ないさ。

  まぁちょっとギリギリではあるし、気遣ってくれるんだったらまたどっかで酒でも奢っておくれよ」

 「……呑み過ぎは注意して欲しいけど、分かったわ」

 「あぁ、それで良いさ」

 

 そう言って、ルージュは軽く笑ってみせた。

 別段強がっているつもりはないが、弱気を見せるところでもない。

 ただ幸運の女神への祈りは途切れさせぬよう、意識は強く保ち続ける。

 

 「……むっ」

 

 先頭を進むガルは、揺らめく炎の中に別の動きを見る。

 相変わらず微かに聞こえる獣の唸り声も、少し強くなったような気がした。

 その瞬間に、大きく前へと踏み出す。

 ほぼ反射的に振り上げた大金棒を、目標も定まらぬままに前に向かって叩き付けて――。

 

 「ッ……!?」

 

 激突。

 クロエ達が反応するよりも早く、炎の一部を吹き飛ばすような衝撃が走った。

 同時に炎を揺らすのは、三つに重なる獣の咆哮。

 

 「っ、またかコイツ……!」

 

 炎の海から立ち上がる巨体を見上げて、ビッケは思わず叫んだ。

 その姿は、既に最下層で一度目にしている。

 三つの頭を備えた漆黒の魔犬ケルベロス

 地下で見た個体が復活したのか、それとも全く別の個体なのか。

 其処までは分からなかったが、そのどちらにせよ途方もない脅威である事は変わらない。

 地獄の住人である魔犬は、炎に対して完全な耐性を有している。

 故に周囲がどれだけ激しい炎に満たされていようと、何の障害にもならない。

 

 『『『GAAAAAAAAA!!!』』』

 

 吼える。不意を打ったはずの爪の一撃は、ガルの大金棒によって正面から打ち落とされた。

 しかしそれで怯む事無く、魔犬はその巨体を炎の中で躍らせる。

 

 「イアッ!!」

 

 飛び掛かって来た魔犬に対し、ガルはその場で迎撃の構えを取った。

 戦の声を上げ、担いだ大金棒を渾身の力で振り下ろす。

 再び、魔犬の爪と大金棒がぶつかり合い、激しい金属音を響かせる。

 三つの首が口を開き、その鋭い牙で蜥蜴人の鱗と肉を引き裂こうとするが。

 

 「この……!」

 

 それは直ぐ傍らに立つクロエが阻んだ。

 炎の中で魔剣を振るい、繰り出される牙を加速した刃で弾き落とす。

 その鋭い斬撃に牙の一部が欠けて、魔犬が僅かに怯む。

 一瞬生じたその隙を、ガルは見逃さなかった。

 

 「イアッ!!」

 

 叫び、大金棒を横薙ぎに振り抜く。

 金棒の先端は真っ直ぐに魔犬の顔面を捉えて、その巨体を炎の中へと転がした。

 火の粉が散り、苦痛に悶える魔犬の絶叫が辺りに木霊する。

 

 「この状態でアレとやり合うのは流石に拙いと思う……!」

 「あたしも同意見だけど、向こうが逃がしちゃくれないでしょ」

 

 ビッケの言葉にルージュは頷くが、彼女が言う通りそう容易い状況ではない。

 正面からの激突を前衛二人に退けられた魔犬だが、痛みに吠えながらも平然とその場で立ち上がった。

 最下層で戦った時もそうだったが、その巨体が伊達ではない事を証明するような頑丈さ。

 まともな環境ならまだしも、辺りを炎で満たされたこの状況で戦うのは余りにも危険だった。

 だからこそ、魔犬の方は目の前の獲物を逃がすつもりはない。

 故に導き出される結論は一つだけ。

 

 「結局、倒して進み以外に道はないな」

 

 大金棒を構え、ガルは炎の向こうに立つ魔犬を睨む。

 対する魔犬も、三つの首に備えた三対の眼に怒りと敵意を滾らせて、低く唸り声を上げた。

 

 『『『GAAAA!!』』』

 

 咆哮。けれど魔犬の動きは、先ほどより少し異なる。

 自分が圧倒的優位である事を、本能で理解し始めた為か。

 憤怒を見せながらも無理に踏み込む事はせず、ガルやクロエに対して炎や爪による牽制を繰り返す。

 それは明らかに、相手をその場に釘付けにする為の動きだった。

 

 「面倒な」

 

 魔犬の意図を感じ、ガルは小さく舌打ちした。

 元々燃え上がっていた炎に、更に魔犬が吐き出す炎まで加わる。

 既に限界近かった熱気は勢いを増し、奇跡に守られた冒険者達の身体を焼いていく。

 特に他よりずっと背の低いビッケは、炎に殆ど呑み込まれているような状態だ。

 

 「これは流石に死ぬかも……!」

 

 最低限窒息はしないよう、呼吸を補助する魔道具《生命の石》を口の中に放り込む。

 これで酸欠などで死ぬ心配は殆どなくなったが、状況は悪いままだ。

 ルージュは奇跡の維持で手一杯で、ガルとクロエは魔犬相手に苦闘を続けている。

 何か、状況を変えるような手はないか。

 ビッケは炎の中で思考を巡らせるが、冴えた答えは出て来ない。

 前衛二人ほど白兵に優れているわけでもないので、魔犬との戦いに加わるのも危険だろう。

 せめて弓が使えれば良かったが、周りが燃え盛る炎では矢も弦も焼けてしまいかねない。

 

 「きっついなマジで!」

 「ホント、さっさと抜け出して楽にして欲しいもんだよ」

 

 半ば独り言だったビッケの言葉に、ルージュは冗談めかして笑った。

 笑っている場合ではないのは百も承知だが、だからといって辛気臭い顔をしても仕方がない。

 ガルとクロエは魔犬相手に良く戦っている。

 正直、どちらの限界が先に訪れるかも分からないが、それでもよく戦っているのは間違いない。

 ――本当に最悪の最悪、あの樹海の神様に身売りすれば慈悲の一つも買い取れるか。

 治癒の奇跡を行使しながら、ルージュはその可能性について考えていた。

 自己犠牲なんてガラではないし、するつもりもないが。

 最悪の最悪で助かる可能性が僅かにでも出てくるのなら、検討しないわけにもいかない。

 とはいえ、結果に対する保証がない以上は安易な選択は取れない。

 

 「……せめて、もうちょっと何かあればね」

 

 ルージュは呟く。魔犬にせよ、炎にせよ。

 どちらか一つでも封じる事が出来たなら、状況の打開は可能だろうに。

 どうしたって手は足りず、魔犬と炎の勢いにジリジリと追い詰められていく。

 最悪の選択肢すら、ゼロよりはマシではないかという考えが頭をもたげ始めて――。

 

 『『『GAAA!?』』』

 

 その思考に、魔犬の叫びが割り込んで来た。

 ガルとクロエが押し返したのかと思ったが、違う。

 炎だ。辺り一面を焼いていた炎が、不自然な動きを取り始めていた。

 炎は渦巻き、勢いよく燃え続ける。

 最初はただの炎の揺らめきかと思えば、やがて踊るような動きで魔犬とその周囲に空間を作り出す。

 それは炎に焼かれていない、真っ新な場所。

 相変わらず熱気は凄まじいが、炎に直接炙られているよりは大分マシだった。

 

 「これは、一体……?」

 

 まったく唐突な炎の動きに、クロエは困惑と共に呟く。

 そして、その言葉に応えるように。

 

 「――ちょっと、楽しそうな事してるじゃない」

 

 渦巻く炎の壁を割いて、一人の女が姿を現した。

 深い藍色の甲冑を身に帯びた金髪の女戦士。

 その手には紫闇――いや、真っ赤に灼熱した剣を携えて、地獄の空白地帯へと踏み込む。

 警戒を露わにする魔犬に、驚きや戸惑いを見せる冒険者達。

 そんな全員の様子を一度見渡してから、女戦士――シリウスは。

 

 「ねぇ、折角だから私も混ぜてよ。退屈はさせないからさ」

 

 不敵な笑みを浮かべながら、軽い言葉でそう告げるのだった。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る