第七十七節:私は誰だ

 

 ……時間は少しだけ遡る。

 不明の場所に放り出されたルージュだったが、相変わらず酒を舐めていた。

 水袋に入っている分はもう残り少なく、貴重なそれを少しずつ口にする。

 幻影の森は変わらずざわめいているが、生き物の気配は何処にも感じられない。

 ゆっくりと、散歩でもするような歩調で向かう先。

 古びた神殿のような建造物を、とりあえず目指しているが。

 

 『……来い、早く来い。声を聴く者、神に祈りを捧げる者よ』

 「そうは言うけどねぇ……」

 

 先ほどから、頭の中で延々と響く声。

 呑み過ぎた日などはよく幻聴も聞こえるが、これはそういう類のものではない。

 例の樹海の神だろう。

 一体どういう用向きがあるのか分からないが、同じような言葉を延々と繰り返している。

 導こうとしている先は、十中八九あの神殿のような建物だろう。

 この場所が地下神殿と同じ場所であるなら、神殿の中に神殿があるのは一体どういう構造なのか。

 分からない。正直に言えば、このまま素直に進んで良いのかも不明だ。

 本当は何処かで身を潜めて、他の仲間達が助けに来るのを待ちたいところではあるが。

 

 『来い。私には必要だ。祈る者が。そうでなければ、あの薔薇の侵略に抗えない』

 「……薔薇ねぇ」

 

 熱病に冒された者が繰り返すうわ言のように、同じ言葉が何度も出てくる。

 伝承を信じるならば、この樹海の神は薔薇の魔王との争いに敗れたはず。

 ならばその恨みは相当根深いものだろうが。

 

 「(少なくとも、あたしらが落ちて来たばかりの頃は此処までじゃなかった。

  ……もしかして、《帝国》の手先もこの地下神殿に入り込んだとか、そういう話かね……?)」

 

 だとすれば、それはそれで厄介な話である。

 《帝国》がわざわざこんな辺鄙な場所に兵力を送り込む理由など無いはずだ。

 仮に送り込むにしても大規模な軍ではあり得ない。

 少数の、腕に覚えのある精鋭。

 そしてそんなものを派遣する理由を考えれば、候補は幾つも無い。

 以前に自分達は、帝国の将である大鬼と炎竜を討ち取った事がある。

 其処に帝国と何らかの関わりあるクロエもいれば、刺客が送られてきてもそう不思議ではない。

 正確な居場所をどう割り出したかという疑問はあるが、高度な占術でも使えば魔法的に探り出されるか。

 もう一つ、狙われたのが自分達ではない場合は。

 

 「なぁちょっと、話をする気はあるかい?」

 『……なんだ? 嗚呼、無駄話をするぐらいならば、早く私の元へ来い』

 「いやいや、大事な話だって」

 

 樹海の神。未だ正体定かならない、かつて魔王に討ち取られた神威の残骸。

 此方が狙いであるという可能性もあるが、その場合は「何故今になって?」という疑問もある。

 伝説に語られる神の死は、それこそ神話の時代の事だ。

 その時からこれまで、樹海の片隅で忘れ去られていたこの神威を、今さら帝国が狙う理由があるかどうかだ。

 それを確かめる意味でも、ルージュは少しでも情報を得られないかと言葉を向けてみる事にした。

 

 「そもそも、あたしを一人だけ招いてどうするつもりだい? 具体的な話を聞かせて欲しいねぇ」

 『私は神だが、今は魔王によって肉体の活動を停止させられてしまっている。

  この神殿は私の肉体も同然だが、それ以外に力を行使しようと思うなら私の「声」を聴く者が必要だ』

 

 その返答の内容は予想の範疇だった。

 ほぼ全ての神がそうであるように、肉体を失った神格は物質世界に直接影響は及ぼせない。

 故に自らの「声」を聴ける人間と契約を結び、祈りを対価として司祭は地上に神の「奇跡」を行使する。

 死して尚この世界に残留し続けている樹海の神も、制約に関しては他の神々と変わらないのだろう。

 地上に残っている為に自身の神殿の中では力が使えるが、恐らくそれも完全ではない。

 神としての力を振るう為に、「声」を聴き取り祈りを捧げる者を欲している。

 だからこそ、あの場で唯一司祭であったルージュだけを連れ去った。

 

 「けど、あたしが素直にアンタと契約を交わすとは限らないよ?」

 『……自分の立場を弁えているのか、人の子』

 「脅しかい? そりゃ怖いが、一応あたしも幸運の女神デューオと契約済みでねぇ。

  二重契約が無効な事ぐらいは知ってるだろ?」

 

 そう言いながら、ルージュはその手に輝く骰子を呼び出した。

 デューオ神の化身。既に幸運の女神の司祭としての契約が成立している証だ。

 それに対して、樹海の神は僅かに沈黙し。

 

 『……契約の破棄は可能なはずだ。信仰を捨てる事を、神は罰する事は出来ない』

 「そうだねぇ、信仰の契約をした状態で戒律に違反すれば神はその信徒に対して裁きを下せる。

  けど信仰を捨てて契約そのものを破棄する事に対しては、神々は口を挟む事は出来ないからねぇ」

 

 故に「改宗」という言葉が存在する。

 流石に神と契約を交わして奇跡を得た者で、また別の神と契約を交わす者は稀ではあるが。

 それでもまったく無い話ではないため、ルージュも否定はしなかった。

 

 「けどまぁ、これでも一応『敬虔な信徒』でいるつもりだからねぇ。

  これまで散々奇跡とか色々貰っておいて、今さら命惜しさに別の神様に鞍替えってわけにもいかないよ」

 『私に祈れば、直ぐにでもこの神殿から抜け出す為の道を示せると、そう言ってもか』

 「それはあたしの仲間連中がどうにかしてくれるだろうから。一人ここで孤立しちまってる方が問題かね」

 

 残り少ない酒を舐めながら、ルージュはケラケラと笑ってみせた。

 それとは逆に、樹海の神は言葉の代わりに再び沈黙を返す。

 向こうの反応を見ようと普段通りの調子で会話をしてしまったが、少し拙かっただろうか。

 内心冷や冷やしながらも、ルージュはそれを悟られぬように努める。

 歩調はそのままに、やがて幻影の森を抜けて古びた建造物も目の前まで見えて来た。

 

 「……そも、アンタは一体どういう神様なのかね」

 『……どういう?』

 「そーだよ、信仰して欲しいってンなら、先ずどういう御利益を持ったどういう神様なのかを教えて貰わないと」

 

 少々迷ったが、接触が近付いてきたことを予感し、ルージュは敢えてそこに切り込む事にした。

 神話伝承にも「魔王に敗北して死んだ」という事実しか記されていない、謎めいた樹海の神。

 その正体に繋がる情報を得られれば良いかと、ルージュはそう考えていたが。

 

 『…………』

 

 返ってきたのは沈黙。

 それも、先ほどまでとは少し空気が異なる気がする。

 

 「……ちょいと、いきなり黙られても怖いんだけどね」

 

 やはり地雷だったかと、内心冷や汗が噴き出す。

 古びた神殿――いや、祭壇の前。

 積み上げられた石段に足をかけるところまで、その沈黙は続いた。

 そして。

 

 『……私は、誰だ?』

 

 何か、決定的な亀裂の入った音をルージュは聞いた気がした。

 その声、樹海の神を名乗った何者かの言葉は続く。

 

 『私は、この地に根差す神威……だが、いや、私は本当に……?』

 「なぁ、ちょいと。ホントに大丈夫かい?」

 

 大気がざわつく。

 幻影の森が乱れて、一瞬別の景色が映りこんだ。

 それがどんな景色だったか、本当に一瞬過ぎて正確に見る事は出来なかった。

 ただほんの少しだけ、赤茶けた荒野のようなものが見えたような気がして。

 

 『私は、祈りに応えなければ。私は、それが私の役目、私の義務、だが、私は、何だ。私は……一体、何を……?』

 「あー……ダメだね、こりゃ」

 

 酔いも完全に冷めて、ルージュは小さく息を吐く。

 今すぐにでも回れ右をして逃げ出したいが、素直に逃がしてくれるとはとても思えない。

 むしろ錯乱した状態のまま、八つ裂きにされて死ぬ可能性まである。

 見上げる。三角錐ピラミッドの形に石を積み上げて作られた、小規模な神殿。

 石の階段を上がった先にあるのは祭壇だろうが、其処には何が待つのか。

 行くしかないが、行ってどうなる保証もない。

 

 「行くも地獄、退くも地獄かい。ったく、早く助けに来て欲しいもんだねぇ」

 

 今この場にいない仲間達に悪態を吐きながら、ルージュは覚悟を決めて踏み出す。

 樹海の神は相変わらず、支離滅裂な呟きだけを延々と垂れ流している。

 最早正気など欠片も見られない状態だ。

 いつどんな形で爆弾が破裂するかとヒヤヒヤしながら、ルージュは一歩ずつ石段を上がっていく。

 ――空気が重い。

 それは雰囲気とか比喩的な意味でなく、本当に空気の質量が増したように感じられた。

 目には見えない粘液の海を泳ぐような感覚。

 ルージュはその息苦しさに顔を歪ませながら、何とか進み続ける。

 石段の頂上は果てしなく遠い。

 それでも一つ、また一つと足を動かして……。

 

 「っ、ヨシ……!」

 

 ギリギリ意識を失うことなく、ルージュは石段を上り切った。

 古びた、最早手入れなどの管理をする者もいなくなって久しいだろう、荒れた石の祭壇。

 かつては其処も多くの信徒達が祈りを捧げる、壮麗な儀式の場であったのだろうか。

 その名残も今は無く、半ば打ち捨てられた祭壇に捧げられているのは一つの石棺だけ。

 石棺。それだけは傷や劣化の兆候もなく、表面には複雑な彫刻も施されている。

 大気を乱している異様な力の中心は、間違いなくその石棺だった。

 

 「…………」

 

 悪寒がする。嫌な予感が止まらない。

 けれどもう、何も見ないで引き返すという選択肢は残っていなかった。

 ルージュが半ばひっくり返すように、その石棺の蓋を押し開ける。

 ――其処には、見覚えのない一人の少女が眠るように横たわっていた。

 

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