第七十一節:新たな侵入者

 

 神殿の心臓部たる石室。

 長い年月を閉ざされたままのその内側で、樹海の神たる者は一点に意識を向けていた。

 地の底から這い上がらんと、試練に挑む者達。

 踊る黒球を壁に叩き付け、今まさに最下からの脱出を果たそうとしている。

 かつて多くの者は、その石段にすら辿り着く事が出来なかったが。

 

 『……おのれ』

 

 光無き石室の闇の中、神たる者は一人呟く。

 黒球は触媒である壁の彫刻を介して、神の思念によって動いている。

 複雑に動かし、時に速度に緩急を付けもしていたが、侵入者達はあっさりと対応していく。

 一度の突破を許してから、更に二度三度。

 人面壁は罅割れて、間もなく砕けてその力を失うだろう。

 それそのものは、仕方の無き事だ。

 これが試練である以上、挑む者が超えるのは当然の事。

 しかし秘された石室に在る樹海の神は、何か表現し難い感情を胸に抱いていた。

 ――次だ、まだ次がある。

 黒球が弾き飛ばされ、石壁の一部が崩れる。

 これで第四階層へと上がる為の石段を遮っていた力場も消え去った。

 まぁ良いと、樹海の神は思考を切り替えようとする。

 どの道、彼らは此処までは決して辿り着けない。

 最下層を突破したとしても、次の第四階層の試練で朽ち果てるだけ。

 その為の試練だ。いや、そもそも何を目的とした試練だったか。

 

 『…………』

 

 ふと、まったく唐突に沸き上がった疑念が神の思考を滞らせた。

 何か、何かを忘れているような気がする。

 あの狂った薔薇に滅ぼされ、こんな小さな石の神殿に置き忘れられたあの日から。

 ズキリと、痛むはずのない頭が痛む。

 何故だ。何を。何が。どうして。

 一体、自分は何を忘れている?

 

 『……いや、違う』

 

 否定する。何も、何も忘れている事などないと。

 義務だ。神として、その内側に踏み込んだ不埒者には罰を与えねば。

 試練とはその為のものだ。其処に誤りは無い。

 乱れて、崩れかけた何かを立て直し、樹海の神は再び意識を己の内に向ける。

 既に砕けて力を失った石壁と、更に遮断の解けた石段を侵入者達が念入りに調べているのが分かる。

 多くの罠に襲われたせいで、慎重になり過ぎているのだろう。

 何もないと知っている場所を必死に探索している様は、傍から見ているとなかなかに滑稽だ。

 

 『……進むがいい。そして、此処で朽ち果てる事を望まぬのなら、私の元へ来い』

 

 半ば意識せずに、そう呟く。

 辿り着ける可能性など万に一つもないと、そう断じながらも。

 まるで辿り着く事を期待しているかのような物言いに、当の神自身は気付いていなかった。

 ただ、次なる第四階層の試練を動かそうと力の流れを操作し……。

 

 『……む?』

 

 ふと、小さな乱れが生じた事を感知した。

 神殿とは神の肉体。其処に異常が起きれば直ぐに知る事が出来る。

 何かが起こった。

 今まさに第四階層へと向かう侵入者達とは別の、何かが。

 一度意識をそちらから外して、今度は新たに起こった異常を確かめようとする。

 しかし、何か。奇妙にざわめくような感覚が。

 

 『――まさか』

 

 香るのだ。それは錯覚に過ぎないのだが。

 物理的に匂いを感じ取っているわけではなく、その「気配」が神の記憶を刺激した結果だ。

 噎せ返るような、

 それを想起させる気配を持つ者が、新たに神の内側へと侵入を果たしたのだ。

 怒りが沸き上がる。その事実を認識した瞬間に、焼ける程の怒りが。

 恐らくは「薔薇」本人ではないだろうが……。

 

 『今さら、何をしに此処へ来た……!』

 

 忌々しい。忌々しい。

 民を滅ぼし、我が身を滅ぼし、この樹海の片隅に追いやったあの魔王。

 此処に至ってトドメを刺す為に、刺客を送り込んで来たのか。

 四人組の侵入者に対するものとはまったく別種の怒りを燃やしながら、樹海の神は蠢く。

 

 『そちらがその気ならば、良いだろう』

 

 石室の闇で、一人呟く。

 声を届かせる必要はなく、ただ抑えきれない殺意を己の内に発露させる。

 実体無き神は、その力を神殿の中で渦巻かせた。

 朽ちていくだけの墓標は、入った者の命を呑み込む魔境へと変じる。

 最早試練などという生易しいものではない。

 改めて明確な殺意を抱き、樹海の神は深淵の底にて笑う。

 

 『誰であれ、我が神域を冒すならば死するのみだ。薔薇め、狂った薔薇め。

  そうはいかない。私は滅びない。滅びない。此処で朽ち果てるのは、お前の手駒の方だ』

 

 憤怒。憎悪。或いは狂気。或いは恐怖。

 己の中の感情をまったく抑制できぬまま、樹海の神は笑い続ける。

 その声は何処に届く事も無く、そして神殿の内にある者達もまた、何が起こっているかを知らぬままだ。

 

 

 

 ……その場所は、第四階層の更に上。

 第三階層。かつては古き民の居住区であった場所の一角。

 天井から落ちた瓦礫に埋まったその場所から、這い出す者の姿があった。

 先ず石片を蹴り飛ばして出て来たのは、一人の人間の女。

 

 「いやー、死ぬかと思った!」

 

 まったく死に瀕していたなどと思わせない様子で、女はケタケタと笑った。

 長く伸ばした金髪と、深い藍色の甲冑に付いた土埃を乱雑な手つきで払っていく。

 手にした紫闇の刃を持つ長剣は、一度払うように振ってから腰に下げた鞘に納めた。

 続いて、積み上がった瓦礫の山を崩しながら大きな影が立つ。

 此方は甲冑の女とは異なり、防具らしい防具は殆ど身に付けていない大柄な男だった。

 顔と身体にはボロ布に近い外套を引っ掛けており、その表情は伺い知れない。

 

 「……余り無茶をしてくれるな」

 「あら、文句ならちょっと言うのが遅くない?」

 

 表情は分からないが、男の言葉には女に対する苦い感情に満ちていた。

 一度や二度ではないのだろう、やり取り一つも実に慣れた様子で。

 

 「変な連中に追い回されて、対処を任せたのはそっちじゃん? 私はやる事やっただけだからなぁ」

 「それで何もかもフッ飛ばして、足下まで崩していたら世話もない」

 

 悪びれた様子のない女に対し、男はため息を一つ。

 それから改めて、外套の下から周囲の様子に目を向けた。

 

 「……しかし、こんな場所に本当にいると思うか?」

 「さて、そんなん私に聞かれても分かんないけどさ」

 

 男の問いに、女の方は肩を竦める。

 それから細い指先で胸元を漁ると、何か小さな物を取り出した。

 握り込めば手のひらで完全に斯くしてしまえる程度の水晶球。

 その中にはより小さな針が浮かんでおり、常に一定の方向を指し示している。

 

 「ほら、将軍から預かった探しの針。この下の方をずっと指してるじゃん」

 「……それはいいが、お前は少し恥じらいを覚えろ」

 

 躊躇なく胸の谷間に指を突っ込む行為に、男は顔を抑えながら苦言を呈した。

 言われた方は一瞬きょとんとしてから、人を喰ったような悪い笑みを浮かべて。

 

 「アンタそんななりで何をナヨっちぃこと言ってんのさ。別に童貞ってわけでもないでしょうに」

 「俺は品性の話をしているんだがな」

 「殺し屋なんて商売に品性もクソもないっしょ」

 

 何がそんなに面白いのか、女は腹でも抱えて転げ回りそうなぐらいに笑っている。

 口で何を言っても響かないと悟ったか、男はため息だけを残してのそりと歩を進めた。

 続く通路に明かりはなく暗闇に閉ざされているが、男は構わず歩いていく。

 その遠ざかりつつある背を、女の方は慌てて追いかけた。

 

 「ちょいとちょいと、置いてくのは流石に酷くない?」

 「知らん。さっさと仕事を済ませるぞ」

 「やだやだ拗ねちゃったー? 男なら女の子相手にはもうちょっと紳士的になりなよー?」

 「殺し屋に品性も糞もないんじゃなかったか」

 

 それにお前は、もう女の子なんて歳じゃないだろう――と。

 言いかけて、男は寸前でその言葉を呑み込んだ。

 口に出したが最後、血みどろの殺し合いになるのは想像に難くない。

 流石に任務中に仲間割れで自滅、などという間抜けは避けたいところだ。

 

 「? なに、どうかした?」

 「いいや、何でも無い」

 

 そう?と比較的簡単に女は納得したようだった。

 それでも一瞬様子がおかしかった事は勘づかれたか、外套から覗く素顔をじろじろと見られて。

 

 「しっかりしてよ? 今回の相手は大物で、アンタの調子が悪くちゃ危ないんだから」

 「分かっている。目標が一筋縄ではいかぬ事もな」

 

 暗闇の中を進みながら、甲冑の女と大柄な男は言葉を交わす。

 分岐は幾つかあったが、手にした水晶球の針が指し示す方向だけを選び続ける。

 

 「アルガドの奴と……あとアイツ、あのうざったらしい赤い竜。そいつらをぶっ殺した冒険者一行らしいじゃん」

 「それだけではない。少し前、魔王の一柱であるカリュブディスが復活する事件があった」

 「あぁ、らしいね。私は丁度別件で動いてたから、噂しか知らないんだけど」

 「その魔王と直接戦い、再び眠らせたのも今回の冒険者達だそうだ」

 「……へぇ?」

 

 強大な魔剣を持つ大鬼の戦士に、恐るべき炎を宿した赤き竜。

 その上、現世に復活した魔王を打ち倒すなど。

 まるで古い英雄譚として語られる伝説そのものではないか。

 それを聞いて女は笑う。

 その笑みは血に飢えたケダモノそのものだった。

 

 「……生死は不問だっけ?」

 「一人を除いてはな。間違えるなよ」

 「大丈夫大丈夫、流石にそんなヘマしないって」

 

 口ではそう言いながらも、不穏極まりない笑みが説得力を完全に消し去っている。

 その身に流れる戦士の血は、果たして自分と徒人である彼女、どちらの方が濃く流れているのか。

 男はそんなことを考えながら、外套の下でこっそり息を吐く。

 実力に関しては絶対的な信頼を置いているが、こういう場合はやはり信用ならない。

 そんな相方の空気を感じてか、女は男の広い背中をバシバシと叩く。

 

 「まーまー、久々の遠征なんだから。そんな湿気た空気出さないの」

 「樹海の奥地だからな、湿度は当然高かろうさ」

 「いやいやそういう意味じゃなくってー」

 

 くだらない話を続ける女だったが、ふと首を傾げて。

 

 「そういえばさー」

 「何だ」

 「此処、この遺跡だけどさ」

 「あぁ」

 「どういう由来の場所だか、アンタ知ってる? 前情報だと、此処に遺跡あるなんて聞かなかったけど」

 

 相棒にそう問われて、男は暫し黙り込む。

 自分の中の記憶を一通り漁ってから、一言だけ。

 

 「いいや」

 「あ、そうなんだ」

 「少なくとも、帝国おれたちの記録には残っていないな」

 

 忘れ去られた神の神殿にて。

 忘れ去った者達の言葉だけが、酷く空しく響いた。

 

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