幕間劇

第六十二節:眠れる薔薇の女帝

 

 一歩、また一歩と。

 長く伸びる石造りの廊下を、一人の男が進む。

 手に持つ剣はうっすらと血に汚れ、纏った黒装束には染み一つない。

 踏み出す足からは微かな音も響かず、するりと滑るような動作はまるで影法師。

 進む。気配らしい気配がないが、用心には用心を重ねる。

 此処は魔窟だ。恐らくは今の世界で最も危険な場所。

 人知を超える事態など、幾ら想定しても足りる事はないだろう。

 故に男は慎重に進む。

 此処まで、幾つもの試練と危難を越えて来たのだ。

 ならば問題はない。必ず、自分は与えられた任務をやり遂げる事が出来る。

 男は自らそう難く信じて、ただ前へと進む。

 

 「…………」

 

 やがて見えてくるのは、男が侵入した建物の最深部。

 《薔薇の宮》などとも呼ばれるその場所は、驚くほどに広い場所だった。

 外側から見た建造物の大きさに比して、明らかに広大過ぎるようにも思える。

 石造りの彫刻があちらこちらに置かれ、それらは等しく金や銀に宝石などで飾られていた。

 彫刻の多くは人間を象った像だった。

 勇ましい戦士に艶めかしい美女、時には身なりの良い老人の姿もある。

 ――果たして、これらは

 そんな不穏な考えが、男の脳裏を掠めた。

 実際、あり得ない話ではない。

 慎重に、慎重に。石像の陰や大きな噴水を盾にしつつ、《薔薇の宮》の中を進む。

 やがて辺りには細い茨のようなものが見えてくる。

 最初は僅かな量だが、いつしか無数の茨が絡み合い、足元に敷かれた緑の絨毯のように広がっていた。

 その茨には、無数の花が咲き誇る。

 薔薇だ。けれど赤くはない。

 むしろその真逆に、茨から顔を覗かせる薔薇は淡雪の如く白かった。

 白い薔薇。それはこれから男が標的とする相手のイメージとは、まったく正反対の代物だ。

 

 「……薔薇か」

 

 唇の中で言葉を転がすように呟いて、男は進む。

 薔薇。薔薇。薔薇。

 その半分近くが白い色で、半分は血を流したばかりのように真っ赤に染まっている。

 改めて見ても、不可思議な空間ではあった。

 そうして身を隠しながら、男は慎重に広間の中心へと向かう。

 ――やがて見えてきたのは、他より数段高い場所に造られた玉座。

 この《薔薇の宮》の……いや、《帝国》と呼ばれる大国そのものの中心。

 

 「…………」

 

 一人の女がいた。

 色とりどりの宝石が散りばめられた黄金の玉座、それよりも尚煌びやかな女が。

 恐らくは魔法によって仕立てられた、美しい深紅のドレスも。

 身に纏う女自身が放つ輝きには届かない。

 白く透き通るような肌も、太陽の光を写し取ったような黄金の髪も。

 淡く紅の引かれた唇も、今は閉ざされている両の眼も。

 その全てが、この世の何よりも美しいと――そう、見る者にごく自然と感じさせる女だった。

 美の女神さえも彼女の前では膝を付くかもしれない。

 或いは、その命を狙う者さえも――。

 

 「……くそっ」

 

 軽く首を横に振って、男は、暗殺者の男は小さく毒づいた。

 此処まで、幾つもの試練と危難を超えて来た。

 超えて、何度も命を危険に晒しながら此処まで辿り着いた。

 しかしまさか、それと比しても尚最大の試練が「女の色香に惑わされかける事」だとは。

 聞きしに勝る毒婦だ。

 その美貌だけで、一体何人の人間を破滅させたのだろう。

 いや、彼女が他人を破滅させるのは、何もその美しさだけではない。

 極論、ただ在るだけで自分以外の誰かを犠牲にし続ける大輪の花。

 ――《狂気の薔薇帝》。

 大いなる魔剣の王、その一角。

 そして未だに大陸に侵略の手を広げ続ける恐るべき《帝国》の頂点。

 玉座で眠りにつく魔王の様子を、暗殺者は慎重に観察する。

 

 「(……情報通りか)」

 

 男は腕利きだ。

 汚れ仕事を含めて、幾つもの困難を為し遂げて来た自負もある。

 それでもただ一人で魔王を討ち取る事が出来るなどと自惚れてはいない。

 彼がある筋からこの仕事を受けたのは、勝算があったからだ。

 曰く、薔薇帝は大半の時間を「眠り」に費やしている、と。

 

 「…………」

 

 近付く。声は出さず、音も殺しながら。

 周囲に自分達以外の気配はない。

 ――薔薇帝は、極々近しい「お気に入り」以外は、決して他者を傍に置かない。

 その情報も、どうやら正しかったようだ。

 今この《薔薇の宮》にいるのは、玉座で眠る皇帝とその命を狙ってきた暗殺者のみ。

 手にした剣は魔剣でこそないが、強力な毒と呪いを十重に仕込んだ逸品。

 魔王の暗殺という大役の為、特別に用意した代物だ。

 近付く。動きはない。

 眠れる薔薇帝は、まるで御伽噺に出てくる眠り姫のようで。

 とても大陸を戦火で焼き続ける悪鬼の類には見えない。

 それでも、この女こそが《帝国》という地獄の機械を生み出した元凶である事は間違いないのだ。

 

 「…………」

 

 切っ先を向ける。狙うのは無防備に晒されている胸元。

 薔薇帝に不死の逸話はない。

 心臓を毒と呪いに塗れた刃で貫かれれば、必ず絶命する。

 動きはない。気配もない。

 歴戦の殺し屋であるはずの男は、自身の鼓動が早まるのを感じていた。

 魔王殺しという大役の前に、流石に高揚しているのか。

 そう、終わる。終わるのだ。

 恐らくは遠い神話の時代から続く、終わらない殺戮の円環が。

 この麗しき魔王さえ仕留めてしまえば――。

 

 「…………?」

 

 違和感は、身体の内側から沸き出して来た。

 身体の動きが鈍い。手足の感覚が、徐々に麻痺している。

 何が――言葉にしようとした瞬間に、喉の奥から声の代わりに熱い塊が込み上げた。

 血。ゴホリと咳き込みながら吐き出して、暗殺者の男はその場に崩れ落ちる。

 一体、何が起こっているのか。

 毒ではない。毒ならば大抵のモノには耐性がある。

 ならば呪いの類が、罠として仕掛けられていたのか。

 それもまた予想した上で、幾つかの対策を用意してきた。

 そしてそれらが反応した様子は少しも無い。

 

 「っ……こ、れは……!?」

 

 冷たい、鋭く刺すような気配を感じて、男はかろうじて顔を上げる。

 視線。赤い、血のように真っ赤な瞳が地に伏した暗殺者の姿を見下ろしていた。

 《狂気の薔薇帝》。いつの間に、眠りから覚めていたのか。

 予想通り――いや、予想以上に美しいその眼差しが、死にゆく男の魂を貫く。

 

 「痴れ者めが」

 

 その声もまた美しく、天上の調べのように涼やかに響く。

 尤も、男にとってそれは死神の囁きに他ならないが。

 玉座からは動かず、目や口元から血を流す暗殺者を薔薇帝は見下ろす。

 見下ろして、汚らわしいモノを見てしまったように少しだけ表情を歪めて。

 

 「余が眠りに囚われているから、その状態であれば余の首を容易く取る事が出来ると。

  そう唆され、勘違いして此処まで来てしまったか。だとすれば哀れな話よ」

 「っ……ぁ……!」

 「あぁ、何も言うな。そもそも言葉にならぬであろう、耳障りだ」

 

 女帝は動かない。暗殺者は動けない。

 急速に死へと落ちていく男に見せつけるように、女帝は軽くその細い手を掲げる。

 魔力が渦巻き、形を成す。全てが深紅に染まった長剣を、細い指が握った。

 魔剣だ。魔王の一柱たる、《狂気の薔薇帝》が有する剣。

 その力は「」とだけ伝わっており、詳細なところは分からなかったが……。

 

 「何も知る必要はない」

 

 刃が触れる。斬られたわけではなく、その切っ先が軽く男の顔に触れた。

 落ちる。死に墜ちる。

 自分の身に何が起こったのか。自分が何をすべきだったのか。

 何も分からないまま、暗殺者の男は動かなくなる。

 完全に絶命した男の亡骸から、女帝はそっと剣を離した。

 ポタリ、ポタリと。何も切っていないはずの切っ先から、赤い雫が零れ落ちる。

 それは血のようであり、事実血液そのもので。

 雫は玉座の周りに咲き誇る、白い薔薇の一つの上に落ちた。

 落ちたのは一滴。けれど何かの魔法のように、白い薔薇は一瞬で赤い薔薇へと変わる。

 まるで、死んだ男の魂を吸い取ったかのように。

 

 「――嗚呼、美しき薔薇よ」

 

 その有様を、女帝は満足そうに眺めていた。

 赤く染まったのは、今の白薔薇一輪だけではない。

 一つ、また一つと。白かった薔薇が赤い色に染まっていく。

 女帝の愛する深い紅に。

 その光景が意味するところが何であるのか、知らずに死んだ男は幸いなのかもしれない。

 ただ赤き女帝は、その狂気のままに歓喜を示す。

 

 「もっとだ。もっともっと、赤く染まっておくれ。余の魂を、眠りの茨から解き放っておくれ」

 

 ザワリと。

 女帝の声に応えるかのように、見えざる茨が蠢いて。

 再びその魂を、眠りの淵へと誘おうとしていた。

 薔薇が染まる。赤く、赤く。

 けれどまだ、その数は魔王が望むものとは程遠い。

 足りない。足りない。もっともっと、この薔薇を赤く染めなければ。

 けれど今の女帝に、それを自らの手で行う事は出来ない。

 手にした魔剣は解けて消えて、再び女帝は深い眠りに沈んでいく。

 ただ、その直前。

 

 「――ただいま戻りました、陛下」

 

 美しい声。霞みつつある視界に映るのは、白い姿。

 それが誰であるのかを認識して、眠りに囚われながらも女帝は笑みを浮かべた。

 そして、先ほど死んだ男に向けたのとは異なり。

 慈愛に満ちた声で、ただ一言。

 

 「あぁ……よく、戻った。我が、愛しき――娘、よ」

 

 愛しい、愛しい薔薇。

 赤に染まらず、穢れを知らぬような純白なれど。

 その白き薔薇もまた愛おしい、と。

 手を伸ばし、その指先に微かな温もりを感じながら、薔薇の女帝は眠りに落ちた。

 そうして眠る女帝の手に触れながら――白い少女は、心の底から満ち足りた笑みを浮かべる。

 蕩けるような親愛と、焼け付くような狂信を込めて少女は囁く。

 

 「どうか、今は穏やかにお眠りください。陛下。

  必ず――必ず、貴女様が完全に目覚められる日が来ます故」

 

 その為にこの国が、私達が在るのだと。

 そう囁きながら、白い少女は愛しい薔薇を――己の「母」を抱き締めた。

 今日も薔薇は、赤く染まる。

 それはまるで、死した者の血を啜るかのように――。

 

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