第五十八節:魔王との戦い(6)

 

 地獄が溢れ出していた。

 それは比喩ではなく、まったく言葉通りの光景だ。

 カリュブディスが掲げた魔剣の力によって引き起こされているのだろう。

 腐った血肉は汚泥のように。

 真っ黒に染まった怨霊は嵐のように。

 噴き出し、全てを呑み込まんと荒れ狂う。

 正に《死の大渦》の名が示す通り。

 文字通りその渦中へと挑む姿は二つ。

 床に倒れたまま、ビッケはその光景を見ていた。

 傷はズキズキと痛む。血が流れ過ぎたせいか妙に寒い。

 なかなか体験しないレベルで死にそうだなと、他人事のように考えながら。

 見ていた。この馬鹿騒ぎの決着を。

 

 「……大丈夫かっ!?」

 

 声。悲鳴に近いそれが頭上から響くと、細い手に抱き起こされる。

 クウェルだ。すぐ傍にはルージュの姿もあった。

 

 「あー……あんま大丈夫じゃあない、かも」

 「だろうねぇ。やる事を聞いた時からまぁ死ぬ気はしてたけど」

 「まだ死んでないだろう……!」

 

 物騒な事を言いつつも、ルージュは手早く奇跡による治療を施し始める。

 軽い口調だが、既に度重なる奇跡の行使で疲労困憊である事をビッケは察していた。

 だからこそ、治療の為にかざされた手を軽く押して。

 

 「オレもヤバいけど、あっち手助けしなきゃもっとヤバくない?」

 「そうしたのは山々だけど、アンタの方が一分一秒レベルで死にそうだからね」

 

 《死の大渦》に挑むガルとクロエ。

 二人は今まさに、魔王を討てるか否かの瀬戸際にある。

 もしその刃が届かなければ、結局此方は死者の戦列に加えられる事になるだろう。

 ならば司祭たるルージュはそちらの助けに向かうべきだと。

 直ぐに奇跡による治療を施さなければ危険な状態のビッケは言う。

 それに対し、ルージュは小さく息を吐いて。

 

 「悪いけど、クウェル。ちょっと頼まれてくれないかね」

 「? 一体、何を……」

 

 腕に抱えている半死人の方は引き受けつつ、ルージュは手にしたものをクウェルに渡す。

 細長い、短めのワンドを。

 

 「こっちは死にかけの馬鹿を死なせないので手一杯だからね。

  ソイツを貸してあげるから、ちょいと向こうを手伝って来ておくれよ」

 「――――」

 

 一瞬、クウェルは言葉に詰まった。

 託された魔道具は強力ではあるが、果たして自分が助けになるのか。

 魔王相手に挑むも、あっさりと返り討ちにあってしまった記憶が脳裏に浮かぶ。

 

 「……ほら、まーた無駄に考え込んで」

 

 そんな血の気が失せかけたクウェルの手を、ビッケは力の入らない手で軽く叩いた。

 はっとなって顔を上げた彼女に対し、死相が浮かびそうな顔でニヤリと笑い。

 

 「オレ頑張り過ぎて死にそうだし、頼みますわ。なに、大概の無茶はあっちの二人が何とかするから」

 

 だから気軽に行けば良いと、なかなか無茶な事をビッケは言った。

 それを受けてクウェルは、託された杖を強く握ってから、一度だけ深呼吸をして。

 奥歯を噛み締め震えを抑えて、確かに頷いた。

 

 「分かった。お前は、大人しく治療に専念するんだ」

 「まぁマジで死にそうだしね、ウン。大人しくしてますわ」

 

 ぐったりとしながら笑うビッケに、クウェルもまたぎこちないながら小さく笑みを返す。

 そうして直ぐに、踵を返して駆け出した。

 《死の大渦》が荒れ狂う、最後の戦いの場へと。

 

 

 

 「イアッ!!」

 

 雄叫びを上げ、溢れる地獄を殴り返す。

 湿った音と鈍い音。

 その二重奏は途切れる事なく、死者どもの断末魔と混ざり合う。

 殴る。殴る。殴る。殴り続ける。

 少しでも気を抜けばあっという間に押し流されそうな圧力を、只管腕力だけで押し込む。

 その傍らで、クロエもまた手にした魔剣で黒い怨霊の海を切り裂いていた。

 

 「ガル、大丈夫……!?」

 「あぁ、問題ない」

 

 問題ないわけがないのだが、それはいつもの事だ。

 凄まじい、という言葉ではまるで足らない。

 どれだけ蹴散らしても、死肉と怨嗟の海は途切れず溢れ続ける。

 その力は本当に無尽蔵なのかと信じてしまいそうだ。

 

 「この……っ!」

 

 斬る。切り裂く。そして生まれた僅かな空白に一歩踏み出す。

 裂けた血肉からは毒気が、払った怨霊からは呪いが。

 それぞれ大量に撒き散らされ、触れる生者を蝕もうとする。

 幸い、それらはクロエの纏う「帳」を超える事は出来ず、傍らで戦うガルもその恩恵をある程度受けていた。

 しかしあくまで「ある程度」であり、ガルは猛毒の中を僅かな防備だけで暴れている状態だ。

 気合と根性で我慢をし、問題ないように見せてはいるが……。

 

 「イアッ!!」

 

 それなりの時間を共有したクロエには、微細な変化が見て取れる。

 少しずつだが確実に、ガルの身体にも限界が近付きつつあると。

 視線を正面に向ければ、打ち寄せる死の波濤の合間から魔王の姿が見える。

 大渦の中心、死を解き放つ魔剣を掲げたまま、カリュブディスも動けずにいた。

 恐らくは、剣の力を解放するのに手一杯なのだろう。

 其処まで辿り着ければ、この戦いは終わる。

 だが一歩は重く、目に見える距離は何処までも果てしない。

 ――このままでは、此方が先に力尽きる。

 ごく自然と浮かび上がる結論。

 僅かに顔を見せた弱気をクロエは噛み潰すが、精神の力だけでは現実は覆せない。

 何か、あともう一押しがあれば……。

 

 「……爆ぜよ!!」

 

 そう考えた矢先、物理的な圧力が吹き付けて来た。

 爆発。ガルやクロエ達がいる場所とはずれているが、それでも熱と衝撃は伝わってくる。

 そして、それらをモロに受けた死肉の海の一部が派手に蹴散らされた。

 その衝撃は当然、中心に立つカリュブディスも感じ取り。

 

 『ッ……まだ折れておらんかったか……!』

 

 火球の杖を掲げるクウェルの姿を認識し、呪いのような言葉を吐き出した。

 少しでも、溢れ出す大渦の勢いを殺そうと。

 クウェルは残る力を杖に注ぎ、叫ぶように呪文を口にする。

 

 「爆ぜよ……!」

 

 放たれる《火球》は、ガルやクロエを巻き込まぬように着弾する。

 爆発。その威力は、死の濁流の勢いを大きく掻き乱す。

 完全ではない――が、一歩を刻んでいくには十分過ぎた。

 

 「彼女も、無茶するわね……!」

 「場に染まってきたのだろう」

 

 進む。進。今にも力尽きそうな身体で、確実に。

 味方を巻き込む事だけはないよう、《火球》は微細なコントロールで放たれる。

 

 「っ、爆ぜよ……!」

 

 呪文の通りに炎が爆ぜ、死の波濤が散る。

 魔法の杖を介したものとはいえ、明らかな魔術の過剰行使でクウェルの身体は軋む。

 無理だ。届かない。どうしようもない。

 そんな弱い自分を振り切って、持てる力の全てを吐き出す。

 

 『――――』

 

 炎に圧されて、死の渦の勢いは弱まる。

 魔王の力とて無尽蔵ではない。

 全てを押し流すはずの大渦を切り開き、命を削るように進む姿。

 それをカリュブディスは見ていた。

 毒気と瘴気、その両方に蝕まれながらも、鋼の身体を損なう事なく。

 ガルは、遂に魔王の眼前に辿り着いた。

 「帳」をギリギリまで広げながらも、自身は限界近いクロエを片手で抱きながら。

 そんな状態でこの渦の中心にまで踏み込んだのかと、カリュブディスは呆れを込めて笑う。

 そして真っ直ぐ向かってくる、大金棒を正面から見据えて。

 

 『見事だ』

 

 己の敗北を認めて、勝利者達に賞賛の言葉を手向ける。

 程なく、渾身の一撃がカリュブディスを捉え――。

 

 「さらばだ、魔王。良き戦だった」

 

 ガルの返答と共に、吹き飛ばされた。

 大渦の中から弾き出され、更に塔の外側へと落ちていく。

 その気になれば、飛行や転移の術式を発動することも出来ただろう。

 カリュブディスは一瞬だけそれを考えて、直ぐに止めた。

 良き戦だった。蜥蜴人の言葉が全てだった。

 落ちる。熱は大して感じないが、やがて魔剣ともども炎の中へと沈むだろう。

 死ぬ事も滅びる事も無い、永き眠りがまた始まる。

 口惜しさはある。再び敗北を得た事は、魂を焦がす程の屈辱だ。

 しかし同時に、奇妙な満足感も胸にあり。

 

 『……さて、次は果たして如何なる目覚めとなるか』

 

 呟き、そして魔王は山の火へと落下する。

 魔剣も、朽ち果てたカリュブディス自身も、等しく地の底へと沈んでいく。

 そんな地獄にも似た状況で――魔王は、高らかに笑っていた。

 笑う。笑う。最後は無様にではなく、笑いながら消え去る事をカリュブディスは良しとした。

 そう、今は再び炎の中に消える。

 しかし不滅たる身は、またいずれ地の底から目覚めるだろう。

 その時は、如何なる者が我が前に立ちはだかるのか。

 そして勝利と敗北、今度はどちらを得られるだろうか。

 其処まで考えてから、魔王はニヤリと笑って。

 

 『いや――次こそは、勝つのは我の方だ』

 

 最後に吐いたその言葉は、遠い未来に向けた魔王の呪いそのもので。

 今はただ、永遠に木霊するような哄笑の余韻だけが残り続けた。

 

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