第五十七節:魔王との戦い(5)
勝ち目なんて最初から殆ど無い。
それは分かり切った事実だ。
魔王カリュブディス。伝説にその名を遺す魔剣の王、その一角。
仮に今の状態が全盛期と比べてどれだけ劣っていたとしても、此方から見ればはるか格上。
向こうに「戦う」つもりが無ければ、とうに全滅していた事だろう。
けれど魔王自身が、尋常な戦いを望んでいる。
其処にどんな思惑や感情があるのかはビッケは知らない。
ただその一点にほんの僅かな道筋を見て、今は全力で駆け抜ける。
「お願いしますよ神様……!」
神頼みを口にしながら迫る敵の姿を、カリュブディスは見ていた。
大魔術の発動は、如何にカリュブディスとて明確な隙だ。
呪文で妨害した戦士二人は届かずとも、機を伺っていた者ならばどうか。
小柄な影は驚くほどに素早い。
加速させた思考で外界の動きを緩やかに捉えつつ、魔王はほんの少しだけ次の手に迷った。
届く。恐らく小人の刃は、此方の詠唱が完成する前に届くはずだ。
だが仮に届いたとして、それが此方をどう害するか。
手にした刃は細く、仮に身体で受けたとしてもダメージにならないだろう。
そもそも不死の王であるカリュブディスに、大半の物理ダメージは効果がない。
魔剣や、或いは蛮人が振るう金棒は防ぐ意味もあるが、小人の振るう細剣は脅威とは言い難い。
――ならば無視するか?
星降りの大禁呪は、あと一言の詠唱と僅かな動作で完成する。
逆に今、向かってくる小人に対応すればこれを中断せざるを得ない。
何かあると思わせて、最初からその為に動いたのか?
逆にただの妨害目的と思わせて、何か必殺の刃を隠しているのではないか。
どちらもあり得そうな話だ。
かつては、相手に何も出来ぬと思い込んだ末に愚かな失態を演じた。
ならば今、走る小人の刃に「何もない」と断じるのはかつてと同じ侮りではないか。
『――――』
カリュブディスの思考は、ギリギリまでそどちらを選ぶべきか迷った。
迷い、けれど過去に得た教訓が最終的のその行動を選択させる。
禁呪の詠唱を中断し、ビッケの細剣の切っ先を魔剣の刃で軽く弾き返す。
収束していた魔力は霧散し、カリュブディスとビッケの視線がほんの一瞬だけ交わる。
そして魔王は見た。
賭けに勝ったと――そう言わんばかりの小人の笑みを。
「さぁ、まだまだ賭けの時間だ」
そう呟き、ビッケは「それ」を投げ放つ。
カリュブディスの視界を、飛来する小さな影が遮った。
短剣だ。細剣の刺突に注意を向けさせた上で、もう片方の手で投擲したのだろう。
小賢しい目くらましか――もしくは、先ほどやられたように此方の反射的な行動を引き出すのが目的か。
今度は即座に、カリュブディスは前者と断じた。
既に呪文による拘束を無理やり解いて、ガルとクロエの二人も迫りつつある。
此処でまた隙を作れば、今度はあちらの攻撃をまともに受ける羽目になりかねない。
故にカリュブディスは、投げ放たれた短剣は防がなかった。
それがただの短剣である事は一目で分かっていたから。
骨の顔に刃が当たって、そして弾かれる。
やはり、狙っていたのは単純に呪文の妨害だったか。
『その無謀さには、敬意を表そう』
結果として、小人の思惑に乗るような形で動かされてしまった。
カリュブディスはその手際を賞賛し、そして躊躇いなく魔剣の刃を振るう。
錆びついた剣は、あっさりとビッケの小柄な身体を切り裂く。
「ッ……!!」
鮮血が派手に飛び散り、斬られたビッケはその場に倒れ伏す。
少々傷が浅く即死ではないが、それでも奇跡の治療がなければもう立ち上がれまい。
離れた場所に立つ女司祭の動向には注意しながら、カリュブディスは迫る二人の戦士に意識を向ける。
決着を付ける禁呪の発動は邪魔されたが、状況は何も変わらない。
むしろ厄介な相手が一人倒れた事で、ある程度の余裕さえ得た。
――これ以上、長引かせても仕方がない。
良い戦いだった。そしてもう、その先で得る答えも見えた。
ならばこの手で幕を引くべきだろうと――カリュブディスはそう慢心して。
『?』
何かが足に当たった。
最初に来るだろうガルの突撃に備え、少し後ろに下がった時だった。
それは何か、細かい破片のようなもの。
加えて、水にと似たものに触れたような感触もある。
屍の身体は感覚が鈍い為、触覚だけでは詳しくは分からない。
一瞬、ほんの一瞬だけ、カリュブディスは視界を自らの足元へと向けた。
先ず目に入ったのは、砕けた硝子の破片。
床に細かく散らばったそれは、いつの間にそんなところにばら撒かれたのか。
それと水だ。いや、水ではないが何か。
正確には、硝子の破片は床ではなくその液体の上に散らばっていた。
何だ、これは。そもそもいつの間に――。
『(……そうか。あの投剣は、同時に投げたコレを気付かせない為だったか)』
だとすれば、その時に投げつけた物とは。
魔王の思考がその答えに辿り着く前に、ガルの大金棒が先に届いた。
「イアッ!!」
戦の声と共に打ち込まれる一撃。
カリュブディスは一旦考えを打ち切り、それを魔剣で受け止める――が。
予想だにしていあに、奇妙な事が起こった。
『なに……っ!?』
衝撃を受け止められない。
膂力は魔術によって強化済みで、その気になれば蛮人相手でも正面から力比べも出来る程だ。
故に、大金棒の一撃を止められないはずがない。
にも関わらず、魔王の身体は大きく後方へと吹き飛ばされた。
挙げ句、まったく足の踏ん張りが効かずに危うく転倒しかける始末。
――何が起こっている!?
湧き出た疑問。それに対し、魔王はそくざに答えを導き出す。
そもそも、これは一度この身で受けた物だった。
『あの摩擦を消す油か……!』
ビッケが持っていた油の瓶は、一本ではなかったのだ。
気付きはしたものの、状況はもう手遅れに等しい。
「何かをやったか」
目の前で起こっている事について、ガルも当然理解はしていない。
理解はしていないが、ビッケが何かした事だけは察せられる。
ならばそれで十分。彼は一つをやり遂げた。
次は自分が成し遂げる番だと、熱く戦意を滾らせる。
この千載一遇の好機、逃す無様は氏族の恥だ。
「どうやら足元を掬われたようだな、魔王!!」
煽るように叫び、ガルは再度大金棒を真横に振り抜く。
激突。体勢の崩れているカリュブディスは、為す術もなくまた吹き飛ばされる。
まるで突風に揉まれる枯れ葉の如く。
地に転がる事だけ耐えているのは、魔王たる者の矜持が為せる業か。
『おのれ……!!』
このままでは拙いと、カリュブディスは強い焦燥に駆られる。
魔法の油はべったりと、骨と皮だけの足にこびり付いて簡単には除去出来ない。
――ならば燃やすか。
幸いと言うべきか、金棒で殴られる度に相手との距離は開く。
ガルは常に全力で走っているが、どうしても追撃に隙間が出来る。
油を着火する為の火種を生む程度の余裕はあった。
故にカリュブディスはすぐさま髑髏の錫杖、その先端に小さな火を灯す。
それで足を濡らす油を燃やそうと試みるが。
「やらせない」
囁くような少女の声が、直ぐ目の前で響く。
ガルが殴り飛ばした方向に、魔剣の力で疾風となって先回りをしていたクロエ。
魔王の反応は間に合わない。黒い刃が鈍く輝く。
ガルの隙間を埋めるように、クロエはカリュブディスの腕を全力で斬り付けた。
両者の間で、鈍い音が響く。
『がっ、ぁ……!?』
初めて。初めて、振るった剣が魔王自身を捉えた瞬間だった。
不死不滅の魔剣の王とて、決して無敵ではない。
それを証明するように、錫杖を持つ腕がクロエの一刀によって切り裂かれる。
丁度肘辺りから断ち斬られて、そのまま床の上を転がった。
苦痛は無い。だが術式は消え去り、油を燃やす事は出来ずに終わる。
そしてまた、ガルの振るう大金棒がカリュブディスに届いた。
『ッ――――!!』
最早声にならず、またも吹き飛ばされるカリュブディス。
このままではどうなるのか、それは魔王自身がよく理解していた。
自らが舞台として用意した、火を吐く死の山の大口。
如何に死なず滅ぼぬ存在とて、煮え滾る地の底へと落とされればどうしようもない。
それをカリュブディスはよく分かっていた。
分かっているからこそ、このままでは終われない。
『まったく、よくも此処まで追い詰めてくれたものだ……!』
そう、窮地だ。これは紛れもなく窮地だった。
先ほどまでは予感すらしなかった敗北が、もう足元にまで迫ってきている。
杖を失い、魔導の力は半減。
片腕も千切れて、魔法の油で足も封じられてはまともに打ち合う事など到底不可能。
冒険者達は、後は力の限りぶつかるだけで魔王を死の穴へと突き落とせる。
だが、全盛期とは比較にならぬ程に朽ち果てたとはいえ、カリュブディスは魔剣の王。
故に容易い決着などあり得ない。
『我が剣、《死人の支配者》よ!!』
最高位の魔剣の一つが、主の声に従ってその力を解き放つ。
妨害の為に死霊を呼び出したのとは規模が違う。
カリュブディスを中心に、屍肉と黒い怨霊が海の如くに溢れ出した。
「っ、往生際が悪いわね……!」
「あぁ、良い敵だ。流石は魔王」
魔王へ向かって走るガルとクロエ。
二人は変わらぬ調子で言葉を交わしつつ、僅かな躊躇いも無く死の汚泥へと踏み込む。
戦いの決着は、もう間もなく。
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