第五十三節:魔王との戦い(1)
その姿を目にした瞬間、魂が凍るほどの恐怖に襲われた。
《死の大渦》、魔王カリュブディス。
自分で選んだはずだった。
過去に命じられ、折られた心で唯々諾々と従う事を拒否したはずだった。
けれど、いざその眼前に立つと全ての決意が解けてしまいそうになる。
それほどまでに、その存在は強大だ。
闇色の黒衣で隠した身体は、殆ど骨と皮だけで出来ている。
手にした魔剣《死人の支配者》もまた、錆びついたボロボロの有様だ。
そんなみすぼらしい状態に墜ち果てても尚、魔王カリュブディスは強大に過ぎた。
――勝てない。駄目だ、逆らってはいけない相手だった。
死の前には
それを刻み付けるかのように、魔王は呪文を発動し。
「やばっ……!?」
小さな手に、大きく身体を引っ張られた。
有無を言わさぬ力強さに、クウェルは身を投げ出すように床面を転がる。
爆発。背後で自分を呑み込むはずだった炎が爆ぜた。
「ッ……!」
凍ったはずの魂が、僅かに動くのを感じた。
恐怖の象徴、魔王の存在だけに囚われていた視界がほんの少しだけ開ける。
そうだ、この場にいるのは自分とあの魔王だけではない、と。
気付いて、クウェルはもう一人を見た。
全身を少し焦がして、震えながらも剣を構える小さい背中。
恐ろしくないはずがない。彼は決して、恐れを知らぬ戦士ではない。
死の恐怖に晒されながらも、それでも抗う意思を折っていないだけで。
それと比べて、自分はどうだ。
望んで此処まで来たというのに、恐ろしいとただ震えるばかり。
無力に、無意味に。
大人しく死の前に平伏す為だけに、こんな場所まで来たのか?
『――さぁ、凌いでみせろ』
魔王の声。その言葉と共に、頭上から死が形となって降り注ぐ。
回避不能、必中である力場の矢。
それが数を考えるのも馬鹿らしい数量で押し寄せる。
まともに受ければ死ぬ。
《火球》の爆発さえ身のこなしで捌くビッケであっても、不可視の矢の雨を避けるのは不可能。
ならばこのまま、無力に砕け散る他ないのか。
「っ……見えざる盾よ!!」
否。それだけは断じて否定する。
恐怖に震える心で、それでもクウェルは絞り出すように呪文を叫んだ。
そのすぐ後に、金属音に似た耳障りなノイズが嵐のように響き渡る。
《
《見えざる矢》と同様に、不可視の力場を盾のように展開する防御魔術。
単純に物理的な打撃を防ぐ他、同じ性質を持つ《見えざる矢》の対抗呪文でもある。
力場同士が干渉し合い、不可視の矢は不可視の盾に当たった瞬間に硝子のように砕け散った。
矢の雨が落ちるのは数秒ほど続き、クウェルはその間必死に呪文を維持し続ける。
やがて死が過ぎ去ると、盾の呪文を解いて大きく息を吐き出した。
「っ、はぁ……!」
「あっぶな……助かった、ありがと!」
鼻先で力場の矢がバリバリと砕けまくるのを見ていたビッケは、安堵と共に礼を言う。
言った側としては、本当に何の事も無い言葉だったが。
言われたクウェルは、心に染みるような充足感を覚えていた。
恐怖は未だに拭えない。
けれど自分は、それでも抗う事が出来たのだと。
『良いぞ、そうでなくてはな』
だから、カリュブディスの声を聞いても、真っ直ぐに顔を上げる事が出来た。
恐ろしい。恐ろしさが消えたわけではない。
だが今は、其処に立つ者が「倒すべき敵」だと認識出来る。
無力に首を差し出して良い死など、この世にありはしないのだ。
『ただ震えるだけの小鼠を嬲り殺しても、意味などない。
爪と牙を備えた者でなければ、此処まで待ち続けた甲斐がないというものだ』
「ちょっとおジイちゃん、そういう悪趣味なお遊びに他人様を巻き込まないで貰えます?
こっちとら良い迷惑なんですけどねェ」
魔王の言葉を軽口で返しながら、ビッケは視線で互いの距離を測る。
間合いはさほど遠くはない。大きく跳んで二歩で潰せる程度。
兎に角、あり得ないレベルの魔術の規模が厄介過ぎた。
カリュブディスが扱えば、低位の魔術ですらとんでもない殺傷力を持つ。
これを少しでも妨害する為に、取るべき手段は一つ。
『むっ……!?』
不意に、カリュブディスの視界を遮る影。
それはビッケが手首の先だけで投げ放った
当然、そんなものが命中しても何の痛みもない。
しかし恐るべき魔王とて元は人間。
ほんの少しだけ残る生物的な反射が、顔面に向けての飛来物に否応なく反応する。
そして、その一瞬に隙にビッケは滑り込んだ。
「よしっ……!」
一息で剣の間合いに入ったビッケは、思わずそう呟いた。
危険である事に変わりはないが、離れた状態で延々魔術を浴びせられるよりは大分マシだ。
そのまま一歩踏み込み、掬い上げるような刺突を放つ――が。
『良い腕前だ』
賛辞の言葉と共に、カリュブディスが動く。
突き込まれた細剣の切っ先を、髑髏の杖で絡め取るように受ける。
ビッケの方は、驚いている暇すらない。
引き込まれるような形で体勢を崩され、更に軽い衝撃がビッケの胸元を打った。
「っ!?」
息を詰め、ビッケは軽く床を転がる。
転がって、すぐさまその場から飛び退けば、間一髪で追撃の一刀が掠めていく。
立ち上がりながら細剣を構え直し、ビッケは思わず呻いた。
「そんな
『心外だな。剣を持っているのだから、白兵の心得などあって当然であろう?』
この身体では軽すぎるせいか、転がす程度しか出来なかったが、と。
カリュブディスは軽く笑った。
ビッケの方はとても冗談を聞いて笑う気分ではなかったが。
魔法もヤバい上に、戦士としても達人とかアリかよ。
ほんの僅かな攻防だったが、カリュブディスの動きは明らかに戦い慣れていた。
恐らく、まともに打ち合うならばガルやクロエぐらいの実力が必要だろう。
乱戦での不意打ちや奇襲を得てとするビッケでは、少し分が悪い。
攻め手に迷いが生じたビッケに対し、カリュブディスは自分からゆるりと近付いて。
『来ないのか? 来ないのならば――』
「稲妻の槍よ!!」
割り込んだのは、叫ぶような詠唱。
後方に立つクウェルの指先から、言葉通りの雷が放たれた。
《
雷撃は狙い違わずカリュブディスを直撃するが。
『――稲妻の槍よ』
光が逆流するように、魔王の手から雷が撃ち返された。
使った呪文は同じだが、威力と規模はクウェルのものより遥かに大きい。
空気を焼き切りながら、今度はクウェルの身体を稲妻が貫いた。
「ぐああぁっ!?」
全身を襲う激痛に、クウェルは思わず叫ぶ。
魔法への強い耐性を持つ銀鎧でも、その威力は殺し切れない。
ただの一度で身体を焼かれ、クウェルはその場に膝を付く。
それと同時に、ビッケは地を蹴っていた。
『ほう……!』
踏み込む動きに迷いはない。
呪文の使用で一瞬逸れた意識を突く形で、細剣の切っ先が魔王の黒衣を捉えた。
手応えは軽く、そして硬い。
防具の類は身に付けているようには見えないが、纏った黒衣が魔法の産物なのだろう。
構わずに、ビッケは二度三度と黒衣の上から剣先を打ち込む。
当然のように、魔王は大した痛手を受けてはいないが。
『仲間が倒れたというのに、躊躇いも無しか』
「うるせーやいジジイ」
揺さぶりの言葉を、ビッケは一言で切って捨てる。
それから剣を握っていない方の手で、何かをカリュブディス目掛けて放り投げた。
いつの間に取り出していたのか。
カリュブディスはそれを剣の一振りで払い落とし――結果、それは硬い音を立てて砕けた。
小さい、握り拳大の小瓶。
錆びた刃で砕かれた事で、中身の液体が周囲に飛び散る。
毒ではない。死人であるカリュブディスにそんなものは意味がない。
それの正体は「油」だった。
但し、このタイミングで使ったのだから、当然ただの油でもない。
『ッ!?』
ぬるりと。酷く滑る感触と共に、カリュブディスの手から魔剣が滑り落ちた。
触れたモノの摩擦を限りなくゼロにしてしまう魔法の油。
使い道が少なく、手に入れてからずっと鞄の奥にしまい込んでいた代物だ。
「とりあえず売らずに持ってて良かった……!」
すっぽ抜けた魔剣を、ビッケは間髪入れずに爪先で蹴り飛ばす。
油まみれの剣は、文字通り床の上を滑っていく。
更にビッケは、カリュブディスに向けて小さく指を鳴らした。
パチリッ、と。指の間で火花が散る。
指に嵌っているのは《火打ちの指輪》。その名の通り、擦り合わせる事で火花を散らす。
野営で焚き火をする時に便利な代物だ。
大きく散った火花は、魔王の方へと降り掛かり。
『――――!』
その身体を濡らす魔法の油に引火した。
真っ赤な炎が、一息にカリュブディスの全身を呑み込んだ。
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