第37話 最後の一人

 奥日多江からの人の流出は止まらない。もはやカウントダウン。

 あたしと祖母の元へ別れの挨拶を告げに、集落の人たちが代わる代わる訪れる。親類縁者からの説得に、奥日多江を後にする覚悟をしたらしい。

 基盤だった畑が台無しになってしまっては、ここでの生活はままならない。そしてやり直すにはみんな歳を取り過ぎている。そんな人たちに向かってもう一度やり直そうとは、あたしにはとても言えなかった。


 誰も迎えに来なかった者もいた。それでもやっぱり奥日多江から出ていくという。

 一人また一人と集落から人が去れば、ここに居続ける理由も薄れる。人は一人では生きてはいけない。いざというときに誰もいない奥日多江よりはと、ふもとの日多江集落に移り住むことに決めたらしい。



 今日は祖母の介抱は母に任せて、父と一緒に祖母の家をスコップで掘り起こす。祖父の位牌やアルバム、貴重品などを回収するために。


「金で買えるものは諦めよう」

「うん、そうだね……」


 力なく返事をしながら、あたしは父の作業を手伝う。あたしがこんなにも無気力なのは、台風の夜を最後に氏神様に会えていないからだ。

 ――神力を使いすぎて消えてしまったのか……。

 ――氏子が奥日多江を離れ始めたから、もうお隠れになってしまったのか……。

 ――あたしにも氏神様を見ることができなくなってしまったのか……。

 考えた理由はどれもありそうだけれどどれも無意味だ。だって神様の事情なんて、あたしにわかるはずがないのだから。


 掘り起こした品々を、父の車に積み込んで大屋敷へ。

 ここにはもうミドリおばあちゃんも住んでいない。使わなくなったら鍵を届けてくれればいいからと、今は由加里の家に身を寄せている。

 そして大広間に入ると、父は少し苛立ちながら祖母に懇願した。


「僕もいつまでもは会社を休めません。どうかお願いですから、僕らと一緒に暮らしてくれませんか? お義母さんだっていつまでも、ここに厄介になってるわけにはいかないでしょう?」


 説得する両親に、沈黙する祖母。

 両親がここへ来てからというもの、毎日のように根競べになっている。

 けれども今日は、いつもとは違う展開を見せた。


「そうだべな。いつまでも先延ばしにしてすまなかっただな。アタシゃあんたらの言う通りにするだで、これからよろしくお願いしますだよ」


 祖母もついに奥日多江を去ることを決意した。

 住む家がなくなった時点で、こうなることは決まっていたのかもしれない。今日まで決断が伸びたのは、きっと心の整理をつけるため。

 もうこれで奥日多江には誰もいなくなってしまう。たった一人を除いては。


「あたしだけでもここに残る!」


 駄々をこねるように叫んだあたしの声に、両親と祖母までもが呆気にとられた。

 それはそうだろう、誰がどうみたってあたしがここに残る理由がない。


「誰もいなくなったこの集落で、お前一人で生きていけるわけがないだろう」

「里花、あんた一体何がしたいの? おばあちゃんだって家に来てくれるって言ってるんだから、これ以上あんたがここにいる意味ないでしょ?」


 両親の言い分はもっとも。けれども母の言う、あたしがここにいる意味がないというのは間違いだ。

 あたしまでもがここを離れたら、氏神様は間違いなく隠れてしまう。けれども理由は言えない。氏神様を守るためなんて、理由として認めてもらえるはずがない。


「ひょっとして里花ちゃん、氏神様のために残ろうとしてるだか?」

「おばあちゃん、どうして……そんな……」

「里花ちゃん、いつも熱心に日多江様にお参りしてただからな」


 祖母の言葉にあたしが驚く。

 あたしが奥日多江に滞在していた理由も、村おこしを頑張っていた理由も、誰にも話したことはない。

 動揺するあたしに構わず、祖母は話を続けた。


「人が暮らしやすい所に移り住むのは、自然の摂理だで仕方のねえことだ。きっと里花ちゃんが無理して、ここで苦しみながら暮らしても氏神様は喜ばねえだよ」

「…………」


 そういえば氏神様も似たようなことを言っていた。

 まるで氏神様のような祖母の説得に、あたしはついつい黙り込んでしまった。


「里花ちゃんは奥日多江のために、良く頑張っただな。ほんとによく頑張った、奥日多江の運命まで変えちまいそうなほどにな。でもやっぱり自然の摂理には勝てなかった、それだけのことだ」


 祖母の言葉に、あたしの目からは涙がこぼれ始める。

 ――もう一歩のところで全てが台無しになってしまった悔し涙。

 ――あたしの努力を認めてくれた嬉し涙。

 ――氏神様との別れを覚悟しなければならない悲しい涙。

 色々な感情が入り混じった涙は、流しても流しても止まらない。

 畳に滴った雫はやがて染み込み、湿った範囲を広げていく。


「氏神様は長いこと、アタシらを守ってきてくださった。今回だってみんなが無事だったのは、氏神様のお陰だ。氏神様だってお疲れだろうから、ここらで少し休ませてやってもいいんでねえだか? 抗うのと意地を張るのは別物だでな」


 あの時の氏神様の言葉は『自然の摂理は、いくら神でも曲げることはできない』だった。結局あたしがやってきたことは、ただの悪あがきだったのかもしれない。

 完全に返す言葉をなくしたあたしは、もはや首を縦に振るしかなかった……。




「――さあ、お義母さん行きますよ」


 いよいよ奥日多江の最後の住人が、この地を後にする瞬間。

 あたしは助手席に、祖母と母は後部座席に。様々なものを乗せて、車はあたしが生まれ育った家に向けて走り出す。


 途中、祖母の希望で立ち寄ったのは、土砂に押し潰された家。

 祖母は門から数歩敷地に入ったところでしゃがみ込むと、もはや原形を留めていない泥の山に向かって、お墓参りのように両手を合わせた。

 きつく目を閉じ、何度も何度も謝罪の言葉をうわ言のように繰り返す。きっと家を守れなかったことを今も、そしてこれからも悔やみ続けるのだろう。

 母もその隣で、幼い頃に駆けずり回ったはずの実家の変わり果てた姿を、頬に涙を伝わらせながら感慨深そうに見つめていた。

 やがて父に肩を叩かれると、立ち上がった祖母は深々と腰を折って頭を下げる。

 そして乗り込んだ車が走り出してからも、ずっと名残惜しそうにその風景を目に焼き付けていた。


「お願い、最後にちょっとだけお参りさせて……」


 あたしは最後のわがままを言って日多江神社で降ろしてもらう。

 あれだけ探しても会えなかったのに、今さら再会が叶うとも思えない。

 けれども車を降りたあたしは本殿に向けて駆け出した。


「氏神様ー!」


 日多江神社の境内であたしは大声で叫ぶ。

 返ってくるのは静寂。そして木々のざわめき。

 いくら周りを見渡しても、そこにはあの優しい笑顔も温かい声もなかった。


 ほんの半月前の収穫祭の賑わいが幻のよう……。

 本殿は倒壊を免れたものの、戸は吹き飛び、壁にも大穴が開いている。

 転がる赤い丸太は、倒れてしまった鳥居。無残に散らばっている石は、狛犬や石灯籠。参道の石畳も、押し寄せた土砂ですっかり覆われている。

 そして横倒しになった賽銭箱。あたしはその横に転がっていた、泥まみれの大きな鈴を拾って抱きかかえる。


「氏神様、出てきてください……」


 鈴を直接振ってみる。

 かつては綱を引くだけでけたたましい音をたてていたこの鈴も、あたしの力ではカラカラとわずかに寂しい音を出すことしかできなかった。

 そして氏神様はやっぱり姿を見せてはくれない。


「どうして……。どうして、出てきてくれないの? 氏神様。音が小さすぎて、聞こえない?」


 涙があふれて止まらない。

 祖母も奥日多江を出る覚悟をしてしまった。もうこの地に氏子はいないのかもしれない。けれども諦めきれないあたしは、意地になって最後の手段を試す。


「……わかった。やっぱりお賽銭を入れないと、出てきてくれないんでしょ。待ってなさい、今入れるから……」


 あたしは財布から五千円札を取り出す。

 そして躊躇なく、それを横倒しになっている賽銭箱に挿し入れると、再び鈴を振ってかすかな音を立てた。


「……お願い、出てきてよぉ。氏神様ぁ……。お賽銭だって入れたよ? 鈴だって鳴らしたよ? どうして出てきてくれないの?」


 神社の入口の方からクラクションの音が響く。

 どうやら時間切れらしい。最後のお別れも叶わないなんて……。

 あたしは抱えていた鈴をそっと賽銭箱の上に置いて本殿に背を向けると、ぬかるんでいる参道をトボトボと歩き始めた。


『里花ちゃん、ありがとう。あれだけの災害だったのに、一人も犠牲者を出さずに済んで本当に良かったよ。最後に僕の役目も果たせたようだし、もう思い残すことはない。さようなら、幸せになるんだよ』


 そんな、いつもの優しくて温かい声が、不意に耳に届いた……気がした。

 あたしは慌てて後ろを振り返る。


 ――けれどもそこには、どこから飛んできたのか枯葉が一つ、風に舞っているだけだった……。

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