第36話 ひとり、またひとり
水は高いところから低いところへと流れる。
台風が去って雨水の供給がなくなれば、高台にある奥日多江からはあっという間に水が引いていく。けれども山から運ばれてきた土砂は、畑も道路も家も庭も区別なく覆いつくしたままだった。
通れるようになった日多江と奥日多江を結ぶ道。
耕作は骨折している祖父を乗せて日多江の病院へと車を走らせ、逆に日多江からは集落の親類縁者たちが続々と押し寄せる。
もちろんあたしの両親もその中に含まれていて、帰る家をなくして大広間に留まっていたあたしと祖母のところへ、大声で叫びながら飛び込んできた。
「里花、良かった! 家の電話も携帯も通じないから心配してたのよ」
あたしの顔を見るなり抱きついてきた母。少し照れ臭かったけれど、久しぶりに味わうその温もりはとても心地いい。その感触に、あたしは生命の危機から無事生還できたことを改めて実感した。
ここへ来たということは、きっともう土砂に埋もれた家も通っただろう。父はそのことは口に出さずに祖母を気遣う。
「お義母さんもご無事で何よりです。お身体は大丈夫ですか? これ途中で買ってきたんです、よければ召し上がってください」
父が差し出したのは『奥日多江の春の息吹』。
きっと耕作の兄の店で買ってきたのだろう、その商品の由来も知らずに。
本来ならそんなエピソードを、話を少し盛りながら得意げに語っていたはず。けれど今のあたしは、とてもそんな気分にはなれなかった。
「さっそくで申し訳ないのですが、単刀直入に言います。私たちの家で一緒に暮らしてくれませんか? お義母さん」
「…………」
感動の再会もそこそこに、祖母に村を離れるよう説得を始める父。
けれども祖母は、その言葉を無視するかのように聞き流した。
あたしには祖母の気持ちがよくわかる。きっと祖母は奈落の底に突き落されて、未だに落下中なんだ。
まだ地面に叩きつけられていないから痛みも感じない。地に足が届いていないから安堵もできない。空中でじたばたと、ひたすらにもがいている真っ最中に違いない。
「ちょっと外の様子を見てくるね。それからおばあちゃんはもうちょっとの間、そっとしておいてあげてね」
そう言い残してあたしは大屋敷を出る、氏神様を探しに行くために……。
覚悟はしていたものの、様変わりした奥日多江は地獄絵図だった。
温泉につながる山道は土砂でふさがり、山肌も何か所か土砂崩れを起こしている。
集落の畑はほぼ全滅。いつもなら農作業に勤しむ時間帯なのに、誰一人としてその姿を見ることもない。
その代わりに奥日多江のあちらこちらには、親族との再会を喜び合う姿があった。まるでさっきのうちの家族を見ているように。
――孫を抱きかかえる者。
――子供夫婦と楽しく談笑する者。
普段はなかなか見ることのない光景。雨降って地固まるというやつかもしれない。
ちょうど通りかかった文治の家も一家団欒の真っ最中だった。そして彼らはあたしに気付くと、丁寧に頭を下げて別れの挨拶を始めた。
「実はオラ、息子夫婦の家に厄介になることにしただよ。集落のために今までありがとうな、里花ちゃん」
「そうですか。良かったじゃないですか。いつまでもお元気で」
あたしにはもう引き留めることはできない。
愛想笑いを浮かべて、社交辞令を並べ立てることしかできなかった……。
氏神様の行きそうなところはどこだろうと、考えながら集落を回る。
『氏神様~』と呼びかけながら探すわけにもいかないので目視が頼り。キョロキョロと周囲に目を配りながら歩くと、大きな荷物をワゴン車に積み込む牛尾一家に出くわした。
「お姉さん、昨日はうちのオカンが、ひどいことを言ってすいません」
あたしの所に駆け寄るなり、ぺこりと頭を下げたのは諒太だった。
ご主人もすぐ後に続いてやってきて、事情の説明を始めた。
「以前勤めていた会社に事情を話したら、復職を検討してくれることになりまして……。それで取り急ぎ、最低限の荷物を持って向かうところなんですよ」
「そうですか……。出ていかれてしまうのは、ちょっと寂しいですね」
――また転出……。
元々一年の契約だったから、それが少し早まったに過ぎない。
けれど文治の直後のせいか、さすがに気が滅入ってしまう。
「学校はちゃんと行くよ。前の学校に戻るってのもいいかな……。それでまた無視してきたら、今度は僕の方が全員を無視してやるんだ」
屈託のない笑顔で、諒太が今後の抱負を語る。
その生き生きとした前向きの姿勢に、あたしはちょっとだけ癒された。
「正式な引っ越しは後日になりますんで、その節に改めてご挨拶に伺います」
ご主人と諒太はあたしに深々と頭を下げ、そして車に乗り込んでいく。
奥さんはすでに車内にいた。あたしと目が合うと気まずそうに視線を逸らして、形ばかりの会釈をする。
そしてそのまま走り去る車を、あたしはぼんやりと手を振って見送った。
(また一世帯いなくなっちゃうのか……)
そう思った瞬間、すぐ左隣でも手を振っている人影をあたしは感じた。
ひょっとしてと思い、すぐさま左に首を振る――。
「氏神様! ……って、ヒロさんじゃないですか。びっくりしたぁ。いつからそこにいたんです?」
「なんですか? 氏神様って……。それに僕はずっといましたよ、さっきから」
あたしは慌てて手で口を塞ぐ。
あたしの迂闊さにもほどがある。
「どうしてヒロさんが、こんなところで牛尾さんたちを見送ってるんですか?」
「実は僕が住んでた家、床上浸水してて家財道具が全部台無しになっちゃったんですよね。それで牛尾さんの家を使わせてもらうことにしたんですよ。だから今日は、荷造りの手伝いをしてたってわけです」
確かにヒロの住んでいた家は窪地になってたっけ。ここからは見えないけれど、あたしはヒロの家の方を遠く眺めた。
浸水が床上まで達した家はほとんどなかったのに、どうしてヒロだけ……。
やっぱり彼は自身が言っているように、不運を招き寄せているのかもしれない。
あたしは自分の境遇に重ね合わせて、ヒロに同情の言葉をかける。
「そうですか……。みんな無くなっちゃいましたね、あたしたち……」
「いえ、大丈夫です。まだ命が残ってますから」
あたしはヒロの意外な返答に驚いて、思わずその顔をじっと見つめた。
傷口を舐め合おうと思ったわけじゃないけれど、ネガティブな言葉を予想していたあたしは少し裏切られた気分だ。
まさかあたしの方が励まされるとは思わなかったので、ヒロにその心境の変化の理由を尋ねてみた。
「どうしたんです? ヒロさんらしくないですね」
「そうですよね……。僕も驚いてるんです。でもここまで見事にすべてを失くしたお陰で、なんだか目が覚めた気分です」
得意気に、キッパリと言い切ったヒロ。
けれども、どうしてその結果に至ったのかが今一つわからなかったあたしは、改めてヒロに尋ねてみた。
「どういうことですか?」
「全てを捨ててここへ来た。最初に会ったときにそんなことを言いましたけど、まだまだだったみたいです。きっとあんなに怯えていたのも、残されたわずかなものをさらに失うのが怖かったんでしょう。だけど今回は、畑を失って収入はゼロ。他に働き口なんてない。その上、家は床上浸水で家財道具も全滅して寝る所もない。見事になくなっちゃいましたよ、全部」
こんなに饒舌なヒロを、あたしは見たことがない。
そしていよいよ決め台詞らしく、ちょっと自分に酔うようにヒロは言い放つ。
「とことんまで失くしたおかげで、ようやく開き直れました。唯一残ったこの命、それさえ失くさなければ何とかなる!」
それって、フラグなんじゃ……。とあたしは言いかけてやめた。
その代わりに、ヒロのこれからの予定を尋ねる。
「ヒロさんも、奥日多江を出ていかれるんですか?」
「そうですね……。できることなら、ずっと皆さんと一緒にいたかったけど……。仕事を探さないと食っていけないし、どうやら皆さんも出て行ってしまうみたいですからね……」
「あの……変な質問でごめんなさい。ヒロさんは今、後悔してないですか?」
「するわけないじゃないですか。今の運気は最低最悪のネガティブ状態ですけど、こんなにポジティブな気持ちになったのは久しぶりですよ」
ヒロの陽気さに当てられて、あたしは逆に気が滅入ってしまった……。
あたしは奥日多江をさまよい歩く。けれど氏神様はどこにもいない。
神社にも、祖母の家にも、日多江川にも、バス停にも……。
いつしか辿り着いたのは桜の大樹。
そこであたしは、来年の春にここで桜まつりを復活させる夢が、完全に断たれてしまった現実を突きつけられた。
――幹が根元から折れてしまった、桜の大樹。
老木は暴風雨に耐え切れず、小枝を周囲にまき散らしながら、その太い幹を奥日多江の地に横たえていた。
昨夜、大屋敷にまで響いた地鳴りはこれだったのだろう。
同時に聞こえた悲鳴にも似たあの音は、大樹の最後の別れの声だったに違いない。
茫然と立ち尽くすあたしに、背後から声が掛かった。
「お取込み中すみません……」
「こんなところに居たんですね、探しましたよ。今日は話があって来ました」
振り返ると、そこにいたのは研究員の二人組。
わざわざあたしを探して話があるなんて、研究施設の件ぐらいしか思いつかない。さらにこんなタイミングなんて、どう考えても悪い予感しかしなかった。
「実は……その、言いづらいんですけど……」
「今回の台風の被害状況を見て、奥日多江が候補地から除外されてしまいました。村長や舘花さんにはもう伝えたんですが、津羽来さんの耳にも入れておいた方がいいだろうと思ったもので」
「……そうですか」
予想通りの話の内容に、あたしは相槌の言葉を絞り出すのがやっとだった。
そして二人組は、あたしの心をえぐるように追い打ちをかける。
「それで、僕たちの畑もあれなんで……。別な場所を探そうかと……」
「でもここで学んだことは、とっても役に立ちました。新天地では、ここでの経験を活かすつもりです。短い間でしたけど、ありがとうございました」
「……いえ、こちらこそ。ありがとうございました……」
二人を見送ると、大樹の幹にしがみついてあたしは思いっきり泣いた。
頭の中の全てを洗い流すほどに、泣いて泣いて泣き続けた。
奥日多江の象徴だった桜の大樹の最後は、奥日多江そのものの最後を暗示しているようで、胸が締め付けられる。
(――大樹様、ぽっきりと折れちゃったね……。まるであたしの心みたいだよ……)
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