第32話 うなる日多江川

(――何もしてあげられなくてごめんね)


 川へと向かう耕作の軽トラックの窓から見えるのは、激しい風雨に晒され続ける農作物たち。手足を引きちぎられかけて、悲鳴を上げているように見えてくる。

 手塩に掛けて育てた農作物。我が子のように愛おしい。

 なのに指をくわえて見ているだけなんて、切なすぎて耐えられない。


 やがて差し掛かったのは、村のほぼ中央にそびえる桜の大樹。奥日多江の集落では御神木としてあがめられるほどの立派な枝ぶり。

 来年の春に復活させようとしている桜まつりは、この木を囲んで盛大に集落を挙げて花見をしたところから始まったらしい。


「桜の大樹様もかなり揺れてるだな。そういや里花ちゃん、桜まつりも復活させるって言ってたけど、収穫祭みたいにそうそう上手くいくだかね……?」


 弱気な耕作の声を無視して助手席の窓から眺めると、桜の大樹のあまりの大きさにあたしは改めて圧倒された。

 すると不意に幼い頃の思い出がよみがえる。それは祖母に連れられて、満開のこの桜を見上げた記憶。きっとあれが桜まつりだったのだろう。

 あたしは忘れてただけで、なんだかんだとこの集落の祭りに参加していたらしい。


『久しぶりに桜まつりも見てみたいけど……。どうかな……』


 軽トラックと並んで漂う氏神様が、桜の木を見つめながら弱気な言葉を漏らす。

 氏神様に桜まつりの復活は無理って言われたようで、あたしは思わず声を荒げた。


「なに弱気になってるの、大丈夫に決まってるでしょ!」

「そ、そうだな。大丈夫に決まってるだな、うん。間違いねえ」


 耕作は背筋を伸ばして顔を引きつらせる。

 そっちに向けて言ったつもりはないけれど、この状況では誰が見ても耕作を叱ったとしか思われない。かといって発言の意図を説明もできないので、あたしは適当な言葉で慌ててごまかす。


「それよりも、前見てちゃんと運転してよね。視界もかなり悪いんだから……」



 やがて軽トラックが到着すると、日多江川は昨日以上に水かさを増してうなりを上げていた。ここ数日は雨が降りっぱなしなのだからそれも当然。

 それでも朝からみんなで積み上げた土嚢はかなりの量で、堤は数段高くなっている。この分なら心配も杞憂に終わりそうだ。


 あたしはたすき掛けにしていたカバンから首を抜くと、中に詰めていたおにぎりをみんなに振舞い始めた。

 具は鮭、梅干し、昆布、おかかとありきたりなものばかり。しかもあたしが握った分は形も不揃いで、おにぎりというよりは握り飯と言った方がしっくりくる。

 そんな握り飯も含めて、みんな嬉しそうに次々と掴んでは口の中に放り込むところを見ると、よほどお腹を空かせていたんだろう。

 頬を一杯に膨らませながら浮かべるみんなの笑みに、朝から黙々とこなした単調作業も報われたと、あたしまでもがニンマリと頬が緩んだ。


 そんな中、誰よりもハイペースで次々と握り飯を平らげていく耕作。

 そのあまりの能天気ぶりに、あたしは少しばかり苛立ちを覚える。


「何が『日多江には台風はこねえだ!』よ。思いっきり直撃しそうじゃないの」

「いやいや、心配すんなって。台風の進路が変わるのは、ここからだってばよ」

「どうだか……」


 相変わらず危機感のない耕作に、あたしは思わずため息をついた。

 これじゃ、あたしだけが台風を心配していて馬鹿みたいだ。けれども不安感を募らせていたのは、あたし一人だけじゃなかったらしい。


「何言ってるんですか、僕がここにいるんですよ? 台風は直撃するに決まってます。あああ! やっぱり、やっぱり僕はここに来ちゃいけなかったんだぁ!」

「ヒロさん! そんなはずないって。そんなはずないから、責任感じないで。それに縁起でもないから、台風直撃なんて変なこと言わないで」


 耕作との話を聞いていたのか、突然ネガティブに叫び出したヒロ。

 ヒロの奇行も今や日常。そしてあたしが懸命になだめるまでがお約束。


(でもこれだけ繰り返し言われると、本当にヒロが不幸を呼び込んでいるような気になっちゃうな。危ない、危ない……)



 みんなでおにぎりを頬張っている最中も、風雨はさらに強まっていく。そして時間を追うごとに川の水量も、心なしか増え続けているような気がする。

 じっと川面をみつめる氏神様にも言葉を掛けづらい雰囲気。

 不安に駆られたあたしは、みんなに向かって提案してみた。


「奥日多江のみんなで大屋敷に集まりませんか? 雨も風もすごいし、川だってこんなになってるし。大屋敷なら民宿にするために改築したから、きっと一番安全です」


 あたしは本気だったけれど、集落の人たちから見れば大げさに感じるのだろう。返ってくるのは失笑と、からかいの言葉ばっかりだった。


「なんだかんだ言っても、やっぱり里花ちゃんは都会もんだな。心配し過ぎだべよ」

「ちょっと雨が降りゃ、この川はいつもこんなもんだ。里花ちゃんは初めてだから驚いてるだけだべした」

「こうして念のために土嚢は積んでるけんど、結局台風は逸れて無駄骨だったってなるだよ。いつものこと、いつものこと」


 どうやら不安視しているのはあたしだけ。大屋敷に避難した方がいいと思ったのも、単にあたしが安心感を得たかっただけなのかもしれない。

 祖母も普段通りだったし、ここで暮らし始めて半年足らずのあたしが提案するのはやっぱりただのおせっかい。言葉に自信をなくしたあたしは口をつぐむ。

 けれども、そんなあたしの案に賛成してくれる人が現れた。耕作だ。


「いや、里花ちゃんの言う通りだ。集まればお互いにみんなの面倒も見られるだで、大屋敷に集合しよう。ここにいねえ人んちには、俺が迎えに行くだで」

「正気か? 耕作。おめえ、里花ちゃんと一つ屋根の下で一夜を過ごしてえだけでねえんだか?」

「な、何言ってるだよ。その方がみんな安心できるでねえだか。それに……みんなで集まって酒盛りでもすれば、台風の夜も楽しく明かせるってもんだ」

「確かに、そいつはいいかもしれねえだな」


 耕作の説得の甲斐あって、大屋敷に集合するあたしの案が満場一致で可決された。どうやら『酒盛り』という言葉が絶大な威力を発揮したみたいだ。

 そしてあたしは安堵のため息を漏らす。各自の動機はともかく、みんなと一緒なら少しは安心できるに違いない。

 そしてこの場は解散となり、みんなはさっそく大屋敷へと移動を始めた。


「できたら、その……里花ちゃんも一緒に手伝ってもらえねえだか?」

「一緒に集落を回ればいいの? わかった」


 みんなと同じく移動を始めたあたしに、背後から耕作が声を掛けてきた。

 確かに一人で集落中を回るのは大変だろうと、あたしは同行に同意する。


(どうして耕作さんは、あたしの提案に乗ってくれたんだろう……)


 あたしの不安を感じ取ってくれたから?

 集落の人たちが心配だったから?

 それとも……。

 どうせ考えたところでわかりはしない。氏神様に尋ねたところで、教えてくれるはずもない。あたしは疑問を胸にしまい込むと、ごうごうと唸りを上げる日多江川に背を向けて、耕作の車の助手席に乗り込んだ。



 軽トラックから定員の多いライトバンに乗り換えた耕作の車に同乗して、あたしも一緒に集落を回る。けれどその前に家に寄って、祖母に声を掛けておくことにした。


「おばあちゃん、川が増水してるし台風も激しくなってるから、みんなで大屋敷に集まることになったの。あたしと耕作さんは集落回ってくるから、おばあちゃんは先に大屋敷に向かっててくれる?」

「わかったべした。気を付けて行くだよ、里花ちゃん」


 居間でテレビを見ながら、寝ころんでいた祖母に念を押す。

 けれども祖母はテレビに夢中なのか、振り返りもせずに手を振りながらの返事。

 あまりの緊迫感のなさに、あたしは祖母を急かす。


「もう、雨も風も結構すごいことになってるんだよ? のんびりテレビなんて見てる場合じゃないんだよ?」

「これ見終わったら必ず行くだから、里花ちゃんは心配しねえで行って来たらいいべした」


 呑気な返事に思わず拍子抜け。あたし一人だけが抱える不安感で、みんなを振り回しているような気になってくる。

 けれども外に耕作を待たせたままだったので、「じゃあ、ちゃんと大屋敷行くんだよ?」とだけ言い残して、あたしは居間を後にした。


(さーて、これから大急ぎで集落を一回りしないといけないのね……)


『僕は大屋敷の方へ行って、避難してきた人を見てることにするよ』

「わかった。変わったことがあったら教えてね、すぐに駆けつけるから。でも、なんて理由をつければ……。まあそれはその時考えればいっか」


 玄関で農作業用のゴム長靴を履き直すと、気合を入れて戸を開ける。

 次の瞬間、吹き付けてくる強風と顔を叩く大粒の雨に、思わず尻込みをするあたし。このまま祖母のように、家でゴロゴロしていた方がいいような気さえしてくる。


(あたしみたいな怠け者じゃないから、おばあちゃんは大丈夫だよね……?)


 ――あたしは気合を入れ直すと、耕作の待つ黒いライトバンへと歩みを進めた。

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