第30話 叶わぬ時の神頼み

 神社から畑へと向かう頃には、ポツリポツリと雨が降り始めた。

 台風はまだ遥か彼方にあるけれど、天気予報によれば触発された前線が発達中らしい。あらかじめ雨合羽を着ておいたのは正解だった。


「里花ちゃん。今日はちっと収穫多いだで、覚悟しとくだよ」

「うん、わかった。おばあちゃん」


 耕作の言葉を伝えるまでもなく、熟し切っていない実も収穫していく祖母。当然のように台風に備えるその姿に、あたしの心配なんて大きなお世話だったと痛感する。


(あたしが聞いてきた台風対策なんて、おばあちゃんはとっくに知ってるよね。そりゃそうだよね、長年農業やってるんだし)


『でも、君のその心遣いは尊いものだよ』


 そう言って慰めの言葉を掛けてくれた氏神様。

 台風を過剰に心配していたあたしを気遣って、神社からついてきてくれたらしい。


 背負ったカゴが強くなり始めた雨で湿って、さらにずっしりと肩に食い込む。

 着込んだ雨合羽で蒸れた身体、額に滲む汗、そして叩きつける雨。全身がぐっしょりと気持ち悪い。

 こんな状況でもまだあたしは収穫していい実を見分ける自信も持てず、ただ祖母の前でカゴを差し出すだけ。

 あまりの自分の無力さに、思わずため息とともに独り言が漏れる。


「結局あたしに出来ることなんて、神頼みぐらいなものよね……」


 そんな力ないあたしの声に、氏神様もまた力ない声で返した。


『ごめんよ。そんな君の頼みを、叶えてあげる約束ができなくて』

「んーん、そんなことない。こうして見守ってくれている存在があるってだけで、勇気を一杯もらってるもの。むしろ都合のいいときだけお願い事してごめんなさい」


 激しさを増す雨に、あたしの独り言の声がかき消される。

 祖母に聞かれたくないあたしには、この雨はちょうど良かった。


『それでいいんだよ、僕の存在なんて。あるときは心の平静を保ったり、あるときは一歩踏み出すための励みになったり……。そうやって君たち人間の生きる糧になれるのなら、僕はそれで本望さ』



 午前中に作物の収穫を済ませると、午後は支柱の補強を始める。

 これまた耕作のアドバイスを、あたしが伝えるまでもなく祖母が自ら実践した。


「里花ちゃんがいてくれて助かっただよ。アタシ一人じゃ、こんなに早く片付かねかったからな」

「そっか。こんなあたしでも役に立てたんなら嬉しいよ。未だにおばあちゃんに聞かないと、あたしなんて何もできないから」


 手際よく作業を進める祖母。あたしなんかいなくても、さほど効率なんて変わらない気がする。きっとさっきの言葉はただの気遣いだろう。


『今は仕事を覚える時期なんだよ。力を発揮する時期が来るまでは、コツコツと下積みするのも大事な時間さ』

「そうだね。今は仕事を覚えて、もっともっとおばあちゃんの役に立てるようにならなきゃね」

「立派になっただな、里花ちゃん。まだ子供だと思ってたけんど、さすがに社会に出ると変わるもんだなあ」

「そんなことないって……」


 氏神様への返事を、祖母に聞かれてしまっていたらしい。

 でも祖母に褒められた言葉は完全に買い被りだ。一度は社会には出たけど、あたしはちっとも立派になんてなってない。

 なにしろ入社した会社を、一年経たずに辞めてしまったぐらいなんだから……。


(あの会社は我慢できずに辞めちゃったけけど、こうやって氏神様に励まされながらだったら続いてたかもしれないな……)


 思い返せば当時の仕事なんて、今の農作業に比べれば楽なものだった。

 それに会社を辞めた理由だって『あたしがやりたいのは、こんなことじゃない』。じゃああたしは農業がやりたかったのかというと、もちろんそんなはずもない。

 結局忍耐不足で嫌になって、自分に言い訳をして辞めただけだった。そんなあたしが立派なはずがない。


「こっちは目途がついたで、里花ちゃんは排水路の方を見てきてくれねえだか?」


 ぼんやりと作業の補助をしていたあたしに、祖母から声が掛かる。

 そう言えば耕作も、排水路の詰まりを確認するように言っていたことを思い出す。そしてその言葉を集落のみんなに伝えて欲しいことも。


「排水路が詰まってないか確認したら、集落のみんなにも伝えてきていいかな? 耕作さんに頼まれてたのを忘れてたよ」

「ああ、もちろんだ。雨も強くなってきただで、気を付けて行ってくるだよ」



 うちの畑の排水路に問題がないことを確認すると、あたしは集落の巡回を始めた。

 かなり大きくなった雨粒は、身体に打ち付ける一粒一粒が感じられるほどに。フードを被り直して、あたしは屈みながら進む。

 すると向こうからやってきたのは、毎度毎度の白い軽トラック。耕作はあたしに気付くと、車を停めて窓から身を乗り出した。


「こんな大雨の中で何してるだよ?」

「何って……。耕作さんが排水路が詰まってないか、みんなに見るように伝えてくれって言ったんじゃない」


 しばらく記憶を辿る素振りを見せていた耕作。すると今朝のやり取りを思い出したようで、「ああ……そういえば」といい加減な言葉を漏らした。

 よくよく考えてみれば、あたしがこうして歩いて集落を回るより耕作の車で巡回した方がずっと早い。あたしは図々しくも助手席のドアを開けると、有無を言わさず耕作の車に乗り込んだ。


「さあ、ちゃっちゃと巡回しちゃいましょ」

「え? これからだか?」

「車で回ればすぐよ、すぐ」


 巡回してみると、やっぱり集落の年寄りは手慣れたものでどの家も対策済み。

 農業インターンシップの参加者の畑も指導員がしっかりと仕事をしているお陰で、ただの大きなお世話に終わってしまった。ただ一ヵ所を除いては……。


「ヒロさんすまねえ、伝えるの忘れてただな、俺」


 ヒロの畑だけが、見事なまでに流れ込んだ泥で排水路が詰まっていた。

 指導員は言わずと知れた耕作だ。


「もう、ちゃっちゃとやらないと日が暮れちゃうよ」

「手伝ってもらってすまねえだな、里花ちゃん」


 あたしだって手伝う破目になるなんて思ってなかった。

 でも畑を維持する苦労を知ったあたしは、他人事だと放っておくことなんてもはや出来ない。

 あたしたちは懸命に、排水路に流れ込んだ泥をスコップでかき出す。

 三人がかりなら日暮れまでには間に合うだろう。



「ありがとう、助かっただよ、里花ちゃん」

「どういたしまして。それにしてもこの台風大丈夫かな? なんだか風も出てきたけど、この辺通るのって明日の夜中って言ってたよね?」


 雨合羽のフードが時折風で煽られるほどに、風も徐々に強まってきた。

 日多江には台風は来ないなんて耕作は言っていたけど、信用していいものかとても怪しい。

 すると毎度のことながら、突然ヒロが謝り始める。


「ごめんなさい、ごめんなさい。僕がこの地に引っ越してきたせいです、ごめんなさい。きっとこの台風は僕が連れて来たんです、ごめんなさい」

「台風ぐらいでそんな大げさな……。それを言ったら、ここに住み始めたのはあたしだって今年からだよ。とにかく、せっかく育てた作物に被害が出ないといいね……」


 あたしは真っ黒い雲に覆われた空を、恨めしく思いながら見上げた……。



「里花ちゃん、家に送るついでにちょっと寄り道していいだか?」


 軽トラックで送ってもらおうと、助手席に乗り込んだあたしに耕作が言った。

 台風が接近中で天気も荒れ始めているんだから、遊びのお誘いではないだろう。かといって行き先に思い当たる場所もないので、あたしは耕作に尋ねてみた。


「寄り道ってどこへ?」

「ああ、ちょっくら日多江川にな」


 日多江川といえば集落のすぐ西を流れる川。バーベキューをしたのはかなり上流だったので川幅も細かったけれど、この辺りまでくるとそこそこの太さになる。

 もう日も暮れかかって周囲はかなり暗くなってしまった。そして車のヘッドライトに照らされた川は、想像以上に水かさが増していた。


「まあ、こんなのは珍しくもねえんだが。念のために明日は、朝から集落総出で土嚢積んどくだかな……」


 川を眺めながら耕作が呟く。

 あたしはその言葉に一気に不安が募り、居ても立っても居られなくなる。


「大丈夫なの? あたしも手伝った方がいい?」

「かなりの重労働になるだで、里花ちゃんは無理しねえでいいだよ」

「そっか。それじゃあたしはおばあちゃんと一緒に、おにぎりでも差し入れするよ」

「そいつは嬉しいだな。里花ちゃんの手料理楽しみにしとくだよ」


 そう言って耕作は素直に笑顔を浮かべたけれど、あたしには不安しか浮かばない。

 家まで送ってもらう車の中でも、話しかける耕作の言葉はろくに耳に入ってこない。あたしは適当に相槌を打つことしかできなかった。


(だけどいくら悩んでも、出来ることしか出来ないよね……。天網恢恢疎にして漏らさずだね……)


『――それを言うなら、人事を尽くして天命を待つじゃないかな?』

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