カメとウサギの交流記
@heatstar
第1章
第1話カメとウサギのスタートライン
「亀みたいだな。」
と、いつだったか誰かが僕を評してそう言った。
少々の蔑みを込めて放たれた言葉ではあったのだろうけれど、僕はその一言がどうにも的を射ているように思えて、不思議と不快に感じなかったことを覚えている。
「今日は何を食べた。」「このテレビ番組が面白かった。」「あの俳優がカッコいい。」「このゲームのこのキャラが使いやすい。」
まるで川に置かれた飛び石を、ぴょんぴょんと駆け渡るかのように、現れては過ぎ去って行く会話たち。移り変わる流行。変わって行く人間関係。対して、飛び石を両足で踏みしめて1つずつ渡っていきたい僕のような人間には、周囲の変化は目まぐるしくてついて行けず、気づけば周回遅れのような有様。少しずつ他の人たちとの間にズレが生じて、友人がいないわけではないけれど、一人でいることが多くなった。
それを思えばなるほど確かに、僕はのろまで鈍感な亀のようだった。加えて、昔の童話に語られたウサギとカメのように、奇跡的な逆転劇を起こすことも、めげずに歩み続けることもない。亀の中でも平凡な人間だった。
そんな僕だから、小説というジャンルに、物語という世界に、魅入られ魅せられたのは必然と言えよう。なにせあの世界は僕を置いて行くことはない。どれだけゆっくりと、噛みしめるように文字を追っていったとしても、登場人物たる彼らは僕のペースに合わせて緩やかに世界を駆け巡ってくれる。
じっくりと、慈しむように読めば読むほど物語の世界は色鮮やかで輝きを見せて。現実のように僕を見放すこともなく、あるがままに受け入れてくれる。美しきあの世界が、僕は大好きだ。
古びたスピーカーから流れ出す、ここ数十年変わらないであろうチャイムの音が放課後の到来を告げる。終礼の挨拶を終えて、疲れた足取りをした先生の背が教室から見えなくなった瞬間に、コルクを抜いたシャンパンのように勢いよく喧騒が溢れ出す。若者は元気だな。なんて他人事のように思いながら、僕は同級生たちの口から吹き出した言葉の波に背中を押されるようにして、教室を後にした。
上履きを 外靴に履き替え、校舎を後にする。校門を通り過ぎて、しばらく歩くと「ふうっ」っとため息をひとつこぼした。どうにも人がたくさん集まる場所は苦手なのだ。視界に、聴覚に、入ってくる情報が多すぎて頭がパンクしてしまう。
一息ついた時に体に降って来た疲れを飛ばすように頭を一振りすると、沈み際に全力で踏ん張る太陽の眩しさに目を眇めながら、夕焼けの方へ足を進め始めた。
最近の若者の必携品とも言っていい、音楽を聴くためのイヤホンも、再生するためのスマートフォンも持ってはいるけれどあえて使わずに、周囲に目を遊ばせながらゆっくりと歩く。
音楽自体が嫌いなわけではないけれど、ありのままの自然の音に耳を澄ませるのが好きだった。
そうやって、気まぐれに吹く風の音にリズムを見出してみたり、電線に止まったカラスの合唱に耳を傾けて、一体何を話しているのだろうと想像を膨らませているうちに目的地へとたどり着く。
そこにあるのは行きつけの本屋さん。本屋とは言っても駅前にあるような立派な書店ではなく、定年後ほどの老人が細々と続けているようなこじんまりとしたお店。この本屋もその例に漏れず、おばあちゃんに先立たれて独り身のおじいちゃんが気まぐれにやっている。そのご老人がまた気のいい快活なおじいちゃんで。
「こんな寂れた店に足繁く通う奴なんかおめぇくらいなもんだし、好きに使ってくれや。」
と宣い、話し相手が来てくれるのが嬉しいのかどうなのか。本屋さんだというのにどれだけ立ち読みしても怒られないわ、挙げ句の果てに僕のために椅子を用意し飲み物を出してくれる始末。加えて店にない本は全て注文して取り揃えてくれるなんていうVIP待遇をしてくれるもんだから、僕がこの店の常連客になるのにそう時間はかからなかった。
ちなみにそんな寂れた店がなぜ潰れないのかと日々疑問に思い、ある時怒られるのを覚悟で聞いてみたところ、「近所の学校さんが教科書購入だのどうこうで結構使ってくれるから店を持たせるくらいはなんとかなる。」と笑いながら答えてくれた。この時、僕の学校に教材を提供しているのがこの本屋だと初めて知った。世界は画一化の波に飲まれているのに、案外地元のつながりというものは強いらしい。
そんなこんなで今日も今日とて、来客用のベルをささやかに鳴らす木製の扉をゆっくりと開いて、小さな本の湖へと一歩を踏み出した。
「おじいちゃーん。来たよー。」
店に来たら最初に、お店の端っこに置かれた小学校の教室に1つある先生の机を思わせるレジカウンターの奥、おじいちゃんの居住空間に向けて声をかけるのが日課になっている。たいていここでおじいちゃんが元気な返事をして、飲み物とちょっとしたお菓子と満面の笑みを伴って現れるのだが、今日は気配もないあたり、少し出かけていたりするのかもしれない。
主人がお店にいないことがままあるのは、ここに通い始めてからの1年ほどで分かっていたので、僕は特に気にすることなく本棚の一角に並べられた読みかけの小説を一冊手に取ると、レジの少し後ろに設えられた畳のスペースに荷物を置き、そこに置かれた座椅子に腰をかける。
カバンの中をごそごそと漁って、水筒とクッキーを少し取り出し、ほうっと一息吐いてから、
僕は物語の世界へと旅立った。
それから、時計の長針がぐるりと反対方向に向きを変えた頃だったと思う。日もほとんど沈みこんで、少し暗くなって来た時間。読んでいたミステリの、探偵の推理ショーに没入していた僕の思考は、パシッという乾いた音と、それについで生じた頭頂部の痛みによって引き戻された。
「いたた…」とぼやきながら、ついと後ろを振り返ってみると、おじいちゃんの部屋からのぼんやりとした灯りに背を照らされた。怖い顔の女性が立っていた。
仁王立ちで、わかりやすい憤怒の形相である。
「…」
僕の思考は停止した。
「ちょっとぉ!」
女性は表情と相違ない怒気を込めた声で言う。
「人の店で勝手に寛いで!しかも勝手に商品を読まない!」
どうやら女性は今現在、というより少し前から僕がしている行動にお怒りのようだった。
うん。確かに。
女性が「おーい。」とか「ちょっと聞いてるー?」などと僕に声をかけているのにも気づかず僕は、ふむ…。と少し考え込む。
確かに言われてみれば、冷静に考えてみると確かにおかしいし、僕が失礼というか、マナー違反をしているように思う。
「すいませんでした。」
ひとまず僕は謝ることにした。
「わ、わかればよろしい。ったく早く返事しなさいよ…」
彼女はふんっと鼻息を1つ吐いてから
「ともかく、お店の商品なんだから。パラパラめくるのはいいにしても、じっくり読むのはマナーがよろしくない!そして店でくつろぐな!わかった?!」
荒げる彼女の言葉を、僕は噛み砕き理解してから
「はい。」と返事をする。
しかしどうやら、僕の頭の回転の遅さが気に入らないらしく。
「さっさと返事!」
とさらに怒られてしまった。
しかし申し訳ないながら、僕にはこの返答速度が手一杯なのだ。ママチャリ並みの思考速度しか持たない僕にはどうやったって、自動車には追いつけない。さらに残念なことに、僕のこの態度がどうやら反抗的なものに見えたらしく、女性の怒りは収まらず、しばらく同じような叱られ方をしていると、その声を聞きつけたのか、奥からおじいちゃんがひょっこり顔を出して、女性の肩に手を置くと。彼女を諭すように
「すまん。この子は大丈夫なんだ。」
と口にした。言われた方の女性は何が大丈夫なのかわからないような雰囲気で戸惑っているのを見ておじいちゃんが付け足す。
「言うのが遅くなってすまんの。この子は毎日来てくれる常連さんでね。儂も話し相手ができるのが嬉しかったから、ここの商品ならいくらでも読んでいいって言ってあるのよ。この椅子も机も、ほとんどこの子のために置いたようなもんだから安心せい。」
「本の話ができるやつは貴重だからの。」
照れ臭そうにほっほっほと笑うおじいちゃん。
女性の方はしばらく放心していたけれど、合点を得たような顔を一度して、おじいちゃんを人睨みすると、咳払いを1つ。それから僕の方に向き直ると、申し訳なさそうな顔とともに
「早とちりしてごめんなさいね。」
と丁寧にお辞儀する。
これが僕とお姉さんの、初めての出会いだった。
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