君と交わる
ぽたっ、ぽたっ。髪の先から、水が滴り落ちる。その雫は、浜に落ちしみを作る。
しゃり、と足元で砂が鳴る。濡れた足にまとわりつく砂が少し気持ち悪い。
戻ってきたんだ、と海風に髪を揺らされながら思う。
海の底から戻って来たんだと。なくした
『あれから丁度、十年後よ』
そばで、麦わら帽子の少女が笑う。
幼い頃、海音と交わした約束。『十年後、ここでまた会おう』。
その約束を海音も果たそうとしているならば、きっとあのテトラポットの元で、会える。絶対会える、そう予感していた。
私はぽつりと置いてあるテトラポットを目指して、走った。砂に足を取られて走りにくいけど、それでも海音に会いたい。その一心で走り続ける。
テトラポットまでもう少し、というところで、人影を見つけた。あれは海音だ、とすぐに確信できた。
彼女も私を見つけたようで、目を大きく開いていた。そして彼女は泣きそうな顔をして、こちらに向かってくる。
スピードが上がる。距離が縮まる。もう少しで体に触れられる。
「海音っ!」
感極まって、彼女の名前を叫ぶ。
海音だ。私の愛する海音が、目の前にいる。
海風が強く吹く。
「波来っ!」
海音も私の名前を呼ぶ。
そして。
––––––––––私の横を通り過ぎていった。
「え……?」
どういうこと。なんで、海音は私の横を通り過ぎていったの。
まるで、私のことが見えてないみたいだった。私の名前をあんなに愛おしそうに呼んだのに。
呼び止めるために、私は彼女の名前を呼んで、振り向いた。
だけど、そこには海音はいなかった。何も、なかった。
わけが、わからない。
『そんなにぼうっとしてどうしたの』
未練がましく、いない海音の背中を見続けていた私に、麦わら帽子の少女が声をかけてきた。その言い方だと、少女には海音は見えていなかったらしい。
「そこに、海音がいたの」
『え』
「そこに、海音がいたはずなんだよっ!私の横を通り過ぎて行った、はずなのっ」
叫ぶ。頬を水滴が伝う。
『何を言っているの』
「海音が、いたんだよ……」
『海音なら、私なら、あそこにいるじゃない」
そう言って少女はテトラポットの方を指した。そこには、倒れている海音がいた。
「……っ!」
しゃり、と音を立てながら私は駆け出す。
「……海音」
体も服も濡れている海音がいた。目は開こうともせず、体も動く気配はない。でも、白い肌は不気味なほど綺麗だった。
私は彼女のそばにしゃがんで、恐る恐る彼女を抱く。体は氷のように冷たい。
「海音。ねえ、海音」
体を揺する。でも力なく、海音は揺れるだけ。声も出さない。
「海音。海音。お願いだから、起きて」
すでにわかっていた。私の愛する人は、辻浦海音は、もう死んでいるんだと。でも、信じたくなかった。彼女は起きてくれるって、また笑ってくれるって、信じたかった。
『辻浦海音はすでに死んでいるわ』
「……」
『だって、私がここにいるんだもの。
「わかってるよっ!」
淡々と告げる少女に腹が立って、私は叫んでしまう。
「そんなの、わかってるよ」
違う。私が腹を立ててるのは、現実を受け入れられない自分にだ。“辻浦海音は死んだ”という、見たくもない現実から、逃げたい私に。
「どうして、なの。なくした
『……取り戻したのよ』
「取り戻してなんかいないっ!」
『取り戻したの。いなくなった私が、こうして戻ってきているじゃない』
死体となって。或いは、麦わら帽子の少女の幻となって。
「そんなのっ。そんなの……」
取り戻したって言わない。ただ、帰ってきただけ。ただ、帰ってきただけじゃないか。
『…………』
少女は黙る。私も涙が止まらなくて、言葉が出せない。
静寂の中、私は海音の存在を確かめるように抱いた。体温なんて感じないけど、確かにそこに海音はいる。
「好きだよ、海音。ずっと愛してる」
顔を近づける。やっぱり彼女からは、海の匂いしかしなかった。
「……私は信じてる。さっき、私の横を通り過ぎていった貴女は、夢でも幻でもなくて、現実だということを」
だって、他の誰でもない海音が言ったのだ。『夢か幻か現実か。決めるのは貴女』って。
そして、私は声を出して泣いた。涙は枯れることを知らなくて、次々に溢れてくる。今は泣いて、泣いたら前を向こうと思った。
『それでいいんだ。それだけで、いいんだ』
いつの間にか、麦わら帽子の少女・辻浦海音は消えていた。
◇ ◇ ◇
波来が消えてから、もうどのくらいの時間が過ぎたんだろうか。
私はスマホの待ち受けの笑う波来を見ながら、ため息を吐いた。
大学の夏休み。海に行こうと誘われたから、2人で海に行ったあの日。波来は突然、姿を消した。
『ずっと、伝えたかったの』
2人で手をつなぎながら、海に浮いていた時。私はあることを告白するつもりだった。
私と波来、実は会ったことあるんだよって。
貴女が懐かしそうに話す、麦わら帽子の少女は私なんだって。
しかし言おうとしたそのときには、波来はいなかった。私の手から離れて、消えてしまった。
今でも急に手が軽くなった感覚は、忘れられない。
「どこに行ってしまったの、波来。もう、約束の十年が経ったよ」
波の音を聞きながら、私はテトラポットに寄りかかる。
「ねえ、波来。貴女が約束を覚えているのであれば、お願い。戻ってきて。もう一度だけ、私を貴女に会わせて」
海風が私の髪をさらう。
「……っ!」
髪の隙間から、あるものが見えた。私の待っていたもの。
遠くて、はっきりしなかったけれど、あれは波来だ、と確信が持てた。波来が帰ってきた。帰ってきてくれた。
海風が強く吹く。
「波来っ!」
私は貴女の名前を呼ぶ。
その時、一瞬だけ誰かとすれ違った気がした。懐かしい気配がしたけど、きっと気のせいだろう。
私はそれどころじゃなかったのだ。
目の前の、愛する人。波来に会いたい一心で、走り抜ける。
懐かしい気配はすでに消えていた。
「……波来」
彼女は浜辺に倒れてた。安らかな顔で、眠っている。
私はいてもたってもいられずに、波来の体を抱きしめる。
「波来……。約束、覚えててくれたんだね」
視界が歪む。波来が死んでいるなんてこと、覚悟できていたのに。目の当たりにするとやっぱり苦しい。
涙が波来に落ちる。彼女の遺体は、傷なんてなく、とても綺麗だ。
「帰ってきてくれて、ありがとう」
今まで注げなかった全ての愛を込めて、私は愛する人を抱きしめた。彼女からは海の匂いがした。
「帰ってきてくれただけで、嬉しい」
涙は止まらない。
「それで、いいんだ。それだけで、いいんだ」
そうして私はまた、波来を抱きしめた。
彼女はここにいると、感じながら。
涙はいつの間にか枯れていた。
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