海の底で

「ずっと、伝えたかったの」


 そう言い終えると、彼女は手から離れた。そして、海の底に消えていった。



 ◇



 ぶくぶく、と息を吐く音がする。

 その音で、私は意識を取り戻した。久しぶりによく眠れた気がして、背伸びをする。視界はまだぼんやりといていた。


 ぶくぶく、息を吐く音がする。

 その音に少し違和感を感じた。


 まるで、水の中で息を吐くようなそんな音。

 そこで、私の意識ははっきりする。


 辺りを見渡す。体が重い。


「……ここ、どこ」


 目の前には、見覚えのない景色が広がっていた。海藻のようなものがゆらゆらしていて、透き通った碧の液体が周りを取り囲む。深海みたいだ、と思ったけれど、それは違うとすぐに思い直す。深海みたいなんじゃない、深海だ。


 どういうわけか、私は部屋で寝ている間に、深海に来てしまったようだ。は、と息を吐くとぶくぶく、という音がする。でも不思議と、息は苦しくなかった。


「どこだと、思う?」


 私の疑問に答えるように、透き通る少女の声がした。


「誰?」


 この声を私は知ってた。誰の声かも見当がついていた。でも、その声の持ち主がここにいることが信じられなかった。


「忘れちゃったの?」


 忘れるはずがない。遠い思い出の一つだが、未だに鮮明に覚えている。その声を、姿を。


 振り返ると、麦わら帽子がよく似合う可愛らしい女の子がいた。


「忘れるわけ、ないじゃん」


 海で1日だけ、遊んだ少女。海をぼんやりと見て、変わることが怖いんだといった少女。名前を聞き忘れた、ずっと記憶の中にいる少女。


「ようこそ、“海の底”へ」

「海の、底?」

「この場所の名前よ。本当に海の底かもしれないし、そうじゃないかもしれない」


 スカートをふわっと浮かせて、少女は回る。


「これは夢かもしれないし、幻かもしれない。もしかしたら、現実かも」

「どういうこと?」

「決めるのは貴女ってこと」


 ぶくぶく、息を吐く音がする。


「……私はどうしてここにいるの?」

「なくした現実ものを取り戻すため」

「それって……!」


 なくしたもの。私が、なくしたもの。

 それはあの日以来、姿を見せない最愛の彼女……、のことなんだろうか。


「なくしたものに心あたりがあるのね」

「ある」

「それを取り戻したい?」

「勿論」


 ぶくぶく、と息を吐く音がする。


「じゃあ、私の名前を呼んで。私を捕まえて」

「え」

「それができたら、貴女はなくしたものを取り戻せる。それができずに諦めてしまったら、貴女は海の底に沈んでいく」


 少女は微笑みを浮かべて。


「待っているわ、波来はく


 そう私の名前を呼んで、少女は一瞬で姿を消した。

『何をすればいいの』『私の名前をどうして知ってるの』。

 そんな疑問を口にする前に、視界は暗転した。



 ◇



「ねえ、聞いてる?」


 その声で、私の視界は色を取り戻す。


「ごめん、聞いてなかった」

「人に海を見てるのは楽しいのって言ったくせに、自分だって海を見てるじゃない」


 目の前にいたのは、麦わら帽子の少女。私がいるのは海の底じゃなくて、浜辺だった。


「……どういうこと?」

「難しいことは言ってないけれど」


 思わず漏らしてしまった言葉を、少女は違う意味で捉えてしまった。慌てて私が訂正すると、少女はそっかと納得いかない調子で相づちをうった。


「それでね、話に戻るけどいい?」

「あ、うん」

「今日の約束、忘れないでね」

「約束?」

「十年後、またここで会おうって約束」

「わかった」


 私たちは小指を絡めて、指切りげんまんをした。私の指は小学生くらいの大きさだった。

 そこで思い出した。同じ約束を私も実際、十年前に少女とテトラポットに座って海を見ながらした。全く同じ。私の記憶のままだ。


 これは、記憶の再現?過去を私は見ているの?


「じゃあ、今日はこれでおしまい。そろそろ帰らないと」

「もう行っちゃうの?」


 この言葉も、このとき言った。


「もう、日が沈むよ」

「そうだね」


 全く同じ会話。


「じゃあ、またね」


 名残惜しそうに、麦わら帽子の少女は去っていく。


 ––––––––そうだ、名前。私は少女の名前を聞かなきゃいけないんだ。


「あの、名前、なんて言うのっ!」


 テトラポットから降りた少女の背中に声をかける。


「そんなのは、駄目」


 返ってきたのは、否定の言葉。その声音は、思い出の少女のじゃなくて、海の底にいた、少し意地悪な少女のものだった。


「貴女自身が名前を見つけないと」


 少女は私の方を向く。少女の深淵を覗くような瞳から、目が離せない。


「まだ、始まったばかり。焦らないで」


 少女は消える。そして、暗転。



 ◇



「ねえ」


 ゆさゆさと体を揺すられて、私は夢から引き戻される。


「おはよう」

「おは、よう?」


 頭がぼうっとして、上手く状況が把握できない。

 ここは……大学の講義室?

 右隣にいるのは……。


「ええっ!」


 思わず声を出して驚いてしまった。


「ど、どうしたの」

「どうして、どうして貴女がいるの?」


 右隣にいたのは、茶髪で色白な女性。それは、海で消えたはずの最愛の彼女、辻浦つじうら海音まりんだった。


「どうしてって、私もこの講義を受けてたからだよ」

「そういうことじゃ、なくて……!」

「それとも私がいると何か都合が悪いかな、飯窪いいくぼ波来はくさん」


 海音にフルネームを呼ばれて、私の胸が痛む。

 これはただの記憶に過ぎないことを、目の前にいる海音は本物じゃないことを、実感してしまったから。


「……急に黙ってどうしたの?」


 それでも、心配してくれる海音が偽物だとは思いたくなかった。


「偽物なんかじゃ、ないよ」


 ふと、海音の表情が変わる。


「……海音?」

「これは、貴女の記憶にある、辻浦海音の再現。偽物なんかじゃない」


 その言葉遣い、声の使い方で、海の底の麦わら帽子の少女だということがわかった。


「でも、幻想でしょ」


 投げ捨てるように言う。いいから、早く海音を返してほしい。


「でも現実かもしれない」

「は」

「言ったじゃない。『これは夢かもしれないし、幻かもしれない。もしかしたら、現実かも』って。決めるのは貴女次第。貴女がこれを現実とするならば、ずっとこの海音といれる。この海の底で」

「……っ」


 私がこれを現実と認めてしまえば、ここでずっと、海音といれるんだ。ずっと、幸せな夢を見ていられる。


「……ねえ、大丈夫?具合でも悪いの?」


 海音の優しい声。麦わら帽子の少女の声の使い方じゃなくて、本物の海音の声音。


「大丈夫。まだ眠気が覚めないだけ」


 彼女の声を聞いて揺らぐ。これを現実だと認めたら、どんなに幸せか。どんなに楽か。

 でも、これは私の記憶の中の海音。本物じゃない。


 私は、なくした現実ものを取り戻すために、ここにいるんだ。消えてしまった、辻浦海音を見つけたいのだ。


「それならいいんだけれど」

「ありがとう、海音。心配してくれて」

「このくらいなんてことないわ、波来」


 微笑みを浮かべ、海音は私の名前を呼ぶ。胸がきゅっと締まる。それでも。


「さようなら、海音。また会おう」


 別れを切り出さないといけない。

 その言葉をきっかけに、舞台は転換する。



 ◇



「私、波来のことが好き」


 唐突にされる告白。その『好き』が友情の好きじゃないことくらい、わかっている。


 これは、告白の記憶の再現だ。


 少しお洒落なカフェ。ジャズが心地よい音量で流れている。

 カフェオレと珈琲の香り。目の前には、海音。


「……海音?」

「私、やっぱり波来のことが好き」


 静寂を表現するように、ジャズが流れ込んでくる。


「……私ね、変わることが好きじゃないの。このままで良いって思うことの方が、多いのよ」


 海音は私を真っ直ぐに見てくる。真剣な表情に思わずどきりとする。


「でも、なんでだろうね。波来との関係は変えたいの。この、仲の良い友達だけの関係じゃ、嫌だと思ってる」

「……海音?」


 変わりたくない。変わるのが怖い。


 その言葉を聞いた時、どうしてか麦わら帽子の少女の姿が重なった。


「波来は私のこと、どう思ってるの?」


 記憶の再現だとわかっていても、体の熱が一気に上昇したのを感じる。きっと何度繰り返しても、私は同じ反応をするだろう。


 どくんと胸が鳴る。


「顔が赤いよ、大丈夫?」


 意地悪い笑みを浮べる、海音。

 私の気持ちなんか、知ってるくせに。

 だから、私は言ってやる。この時の私も、同じことを思って、同じことを言った。


「私も海音のこと、愛してる」

「あ、愛っ?!」


 全ての愛してるをこめて、私は海音を見た。


 海音は頬を赤く染める。そういうところも愛おしい。


「うん。愛してるよ」

「どのくらい、愛してるの?」


 声音が変わる。


「それは本当に愛しているの?その愛は偽物かもしれないよ?」


 麦わら帽子の少女が、海音の姿で問い詰めてくる。どきりと心臓は鳴るが、もうそんなことで恐れる必要なんてない。


「そんなことない。私は、海音を愛している」


 まっすぐに見つめて言うと、麦わら帽子の少女は興味深そうに私を見つめてきた。そして、嬉しそうに笑った。


「じゃあ、答え合わせといきましょう」



 急速に暗転。

 そして舞台は、最終幕へ。



 ◇



 手に重みを感じた。


「あのね、波来」


 隣で海音が海に浮いている。何やら真剣な顔をして、でも照れ臭そうにしている。


 これは、あの時の再現だ。


「ずっと、伝えたかったの」


 海音がいなくなってしまった、あの日の。


 そして、するりと手から重みがなくなる。海音が消えた。

 どくりと心臓が嫌な音を立てる。



 ––––––––––––私を捕まえて。



 麦わら帽子の少女の声が聞こえた気がした。


「そんなの、言われなくてもわかってるよ。……海音」


 海音は海の底へと沈んでく。

 それを必死になって追いかける。潜る、潜る。


 ぶくぶく、と息を吐く音がする。

 手を伸ばすけど、届かない。


 ぶくぶく、と息を吐く音がする。

 もう少し、もう少しなんだ。



 ––––––––––––私の名前を呼んで。



 麦わら帽子の少女の声がした。


「貴女は……」


 ぶくぶく、と息を吐く音がする。水が口の中に入ってくるけれでも、そんなことを気にしている場合じゃない。


「貴女は、海音っ!辻浦海音っ!」


 ぶくぶく、と息を吐く音がする。息が苦しいけれど……。


 やっと。海音の手をつかめた。今度は離さないように指を絡めて、しっかりと握る。


「捕まえた」


 そうして、舞台の幕は降りた。



 ◇



「やっと気づいたのね、波来」


 いつの間にか、私は海の底に戻って来た。麦わら帽子の少女の手は、まだ繋がれたままだった。


「……だって、変わりすぎてたんだもん。茶髪になってたし、さらに綺麗になってたし」

麦わら帽子の少女わたしを美化しすぎよ」


 くすくすと麦わら帽子の少女は笑う。


「私は大学で再会したとき、すぐに気がついた」

「そうなんだ」


 本人に麦わら帽子の少女の思い出を話していた、ということになるのか。そう思うと照れくさくなった。


「でも、やっと捕まえた。もう逃がさない」


 ぎゅっと握る手に力を入れる。

 海音は、切なそうな嬉しそうな顔をして笑った。


「これで、旅は終わり」


 ぶくぶく、と息を吐く音がする。


「さあ、なくした辻浦海音ものに会いに行こう」


 どくどくと胸が鳴る。緊張と嬉しさが絡み合う。


「待っててね、海音」


 ぶくぶく、息を吐く音がする。

 それが拍手のように聞こえて。



 舞台は終わる。

 そして、次の舞台が始まる。



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