第8部 束の間の沈黙①


 なんとも不気味な静けさが、極東の戦線に到来した。どういうわけか、数日前から各国の攻撃がぴたりと止んだのだ。嵐の前の静けさというか……非常に気味の悪いものだったが、このべた凪のような平穏を利用しない手はない。相手の隙を突いて敵陣へと攻め込んでいけるだけの余裕はなく、まずやるべきことは整備に励み休養を取ることだった。


【高天原】――SA-00型が人間からより兵器に近づいたことで、劣勢はやや改善されつつあった。だが人手不足は相変わらずだったし、敵国の連合軍だってただ攻めこまれるだけではない。様々な国が各々の最新兵器を投入してくるようになっており、それは極東の人間兵器に酷似しているように思えた。情報も少なく断定することはできなかったが、イヅルはほぼ確定だと思っていた。先日に硫黄島周辺で照合された、別の《アマテラス》の存在が何よりの気がかりだった。


 硫黄島付近でみつきが墜とされたあの日に照合した電気信号は、後にカメリア軍のものだと判った。当日交戦していたのがカメリア軍だったことと、《アマテラス》のものに混じってカメリア軍独特の信号が混じっていることを、慶咲が突き止めた結果に判明したことだった。


 極東に再び居座ってもうすぐ半年だが、その間にいろんな事があり過ぎた。あり過ぎたというか、今まで何も知らなかっただけか。岐山イヅルは誰もいなくなった整備室を眺めて一息つき、自嘲気味にそう思った。


 あのままこの国にいれば兵器開発に加担させられてしまうと、単独での亡命を決意したのは三年前。いなくなれば入念に計画を練ることができなくなり、計画は停滞すると思っていた。


 実際、開発室で深部まで構想できるのは宮下くらいしかいなかったし、大記も自分と同じ反対派だった。仮に二人で実行することになったとしても、練り足りずに計画倒れするはずだったのだ。けれど実際は宮下ひとりで実行しており、イヅルはそれに呆然としたのを思い出す。


 いったい何が、宮下みやした一都かずとを駆り立てるのか。可能性を究明したいという研究者の性か? ただ自身の欲求に従っているだけ? それとも大記同様、国に無理強いされているのか……。彼のことをよく知らない分、考えられる可能性はいくらでも湧いて出る。


 しかしまあ、その真実がなんであれ一度宮下と話す必要がありそうだとイヅルは思った。そうすれば、今抱えているSA-00型の問題も少しは改善されるかもしれないし、彼らの助けとなる新型兵器の開発もできるかもしれない。では直ぐに開発室と連絡を――と思って席を立ったところで、やめた。


 そんなに事が上手く運ぶはずがない、今までのことを考えればわかるはずだ。彼をよく知らないからそう思うのかもしれないが、自分と宮下の考え方は根本的に違う。それを考慮して再び思慮してみたが、話は平行線を辿るばかりで解決する未来が見えなかった。


 宮下が自分の理解と想像の範疇を遥かに超えた男だと思いだしたイヅルは、もう一度椅子に座りなおして腕を組んだ。行動を起こした後に発生しうるマイナスの要素を一切考えないのが俺の甘さなのだろう。こんなやつが中心に立たなければならないなんて世も末だ。イヅルは大きく息を吐いて、天井を見上げながら思った。


 椅子の背凭れに思い切り上体を預けて反り返るように上を見たまま、提供された資料を見る。計画の概要と図面、十人分の施術内容が記されたものだ。それを見ながら、彼らが兵器となる瞬間を思い浮かべて目眩がした。


 構造はなんとなく把握できたものの、未だにこのSA-00型の仕組みが分からない。兵器展開の原理も、展開前に血液が結晶化してしまう仕組みも、そうなってしまっても生命を維持できる理由も、説明しろと言われてもできなかった。


 機銃やミサイル砲などの兵装が、小さく折りたたまれた状態で体内に埋め込まれているのは、メンテナンスで分かった。それに特殊な振動を与えて展開し、最終的には戦闘機やミゼットサブを思わせる外殻を形成するのだということは、実際に出撃を目の当たりにして知った。その際に内蔵された兵器は体を突き破るため、その光景はそれはもう酷いものだった。


 裂けた体からズルリと兵装が飛び出る様は、人の内容物が弾け飛ぶのによく似ている。突き破るより前に血液が結晶化するため、辺りを真っ赤に染めてしまわないのがせめてもの救いだった。そう思いながら脳裏に蘇るのは、十四年前の光景だった。


 恩人である東坂あずまさか称壱しょういちに拾われる前に見た人間の内容物……自分が捌いた男の腹から飛び出た……がりがりと骨を削る感触と……血の赤さと粘膜の腥さと……。自分の意志に反して映し出される映像は直視するしかなく、久々に見たエグさに意識が遠退きそうになる。目の前が暗くなり、ぐっと地面に向かって強い力で引かれるような  



「――イヅルっ!」



 突然聞こえた声にハッとして、イヅルは閉じかけていた目を開いた。まだ明るさを取り戻せない視界に映り込んだ影を見て、微かに眉間に皺をよせる。どうしてこんなところに。俺は幻覚でも見ているのだろうか。



「……百合恵?」


「大丈夫? さっきから何も言わないから心配だったんだけど……やっぱり疲れてる?」



 背凭れに上体を預けて上を向いたままのイヅルの額に手を当てて覗き込むのは、間違いなく東坂百合恵だった。触れる手は確かに温かくて、決して幻覚などではないと伝えていた。そうだ思い出した。俺がここに呼び寄せたのだった……。まだぼんやりとした頭のまま考えたイヅルは、呟くように「大丈夫」と返し、その手をやんわりと持ち上げてきちんと座り直した。



「悪かった、続けてくれ」


「わかった。他国の兵器展開の現状から、だったよね」



 イヅルにしっかりと意識があることを確認した百合恵は、安心して微笑みながら話を続けた。今は、彼女が持ち込んでくれた情報を受け取っている最中だった。


 東坂百合恵は高校教師だ。だが、非公式の諜報員でもある。軍属ではなくて、ただイヅルと大記のためだけに始めた活動だった。「自ら身を危険に晒す必要はない」とイヅルが反対しても、彼女が聞き入れてくれたことはなかった。どうやらあのことを根に持っているらしいと判った時、厄介なことになったと本気で思った。


 イヅルは前回の戦後に、戦死した先輩たちの故郷巡りをすると決めていた。戦後間もなくて道も険しく、危険が伴う旅だったから一人で行くと決めていたのに、その理由を何度言って聞かせても、百合恵は「何があっても大丈夫だから付いて行きたい」と言って譲らなかった。


 結局彼女を大記のもとに預けて、夜も明けきらないうちに黙って旅立ったのだが……それがどうにも気に入らなかったらしい。彼女に反対するたびにそれを持ちだされては閉口するしかなく、本当にもう、厄介だった。


 すっかり少女から女性に成長した彼女から、人見知りで消極的だった頃の影は見当たらない。穏やかな微笑みはそのままだが確かに強かになっており、そのあまりにハッキリとした物言いにどぎまぎさせられることも度々あった。


 彼女の変わりように戸惑った、と言う人たちの話もよく聞く。だがイヅルと大記にしてみれば、これが東坂百合恵だ。昔から何も変わらない。ただちょっと、猫を被る必要がなくなったというくらいのことだろう。まあこんなことは、間違っても本人には言えないけれど。



「こっちのSA-00型に似た兵器は、もう他国でも実装されてるみたい。素材も同じ人間なんだけどちょっと違ってて。向こうは人造人間だとか」


「人造、」


「そう。人だけど人じゃないっていうか、似せて作った別の生物っていうか。とにかく、兵器開発の素材に使うために作られた人間って思ってくれていいと思う」



 結構えぐいでしょ? と黒目がちなアーモンド型の目を細めて笑った。笑い事じゃないだろうと頭を小突くと、彼女は肩を竦めて更に笑った。


 現在、人間兵器を開発しているのは、カメリアとゲルマニアと、ブリタニアの三カ国だ。実戦投入されているのはカメリア一機、ゲルマニア三機、ブリタニア二機と、やはり数は少なかった。だが一番の問題はそこではない。問題は、そのどれもが「見覚えのある顔」だったことだった。


ブリタニアは《ドレッドノート》と《アークロイアル》の二機。そのうちの《ドレッドノート》は、どう見ても島風煉そのものだった。煉の評価は、本人の意に反して非常に高い。生まれ持った身体能力もそうだが、冷静な判断力と、劣等人種であることに由来する冷遇にも耐えぬく精神力は類稀なものだった。


 能力を正当評価しないそんな国は見限ってうちに来ないか。各国の軍隊からそんな誘いを受けていたけれど、煉はどれにも乗らなかった。それはただ単に「どこに行っても結局同じ」と失望していただけなのだが、その姿勢は騎士道精神と捉えられ、本人を置き去りにしたまま更に賛称される結果になってしまった。ブリタニアの女王も煉に惚れ込む者の一人で、彼女の指示によって造られた彼そっくりのバイオロイドが、《ドレッドノート》の本体だった。



「これは……問題だな……」



 イヅルは小さく呟いて、机上の資料に目を落とした。添付された本体の写真はほとんど毎日見ている顔そのもので、目に生気がないこと以外に相違はなかった。高い再現率は素晴らしい技術をもってしてのことなのだろうが、ここまでくると恐怖すら感じる。


 果たして、彼らは煉と戦えるのか。それが対《ドレッドノート》の、一番の問題だった。


 煉はSA-00型の中心にいて、誰もが彼を慕っている。やってくれる可能性があるのは廉也くらいだったが、彼は海で戦ってもらわなければならない。だとすれば、次の可能性は紫燕。近いうちに実現するかもしれない交戦に向けて、彼には戦線復帰して貰う必要がありそうだとイヅルは思った。



「気を落とすのはまだ早いよ。これはゲルマニアの資料。……一番辛いのはイヅルかも。あと、島風君と初春君も同じとこにいたんだよね……?」



 百合恵の言葉を聞きながら、イヅルは資料を引き寄せた。「同じところ」というのは、きっと鹿屋基地のことなのだろう。彼らと自分とではそれくらいしか接点がなく、それは百合恵もまた同じだった。


 頭に疑問符を浮かべながら、綺麗にファイリングされた資料を捲る。表紙を一枚捲ったところで直ぐに閉じたくなって、イヅルは手を元に戻しかけたけれど、百合恵はそれを許さなかった。現実はきちんと受け止めなきゃ駄目。重ね合わされた手にそう言われている気分になって、諦めて資料に目を通す。


 それぞれに《サイドリッツ》、《ニュルンベルク》、《シャルンホルスト》の名を与えられていて、そのうちの《シャルンホルスト》は確かに、あのとき喪ってしまった先輩兵士の石田いしだ和樹かずきと似た姿をしていた。十三年前に勤務地の鹿屋基地で出会った和寧国出身の彼は、よくイヅルを気にかけていた。


 口数が少ない落ち着いた雰囲気の青年だったが、その実茶目っ気があり、よく真面目な顔して悪ふざけをしていたっけ。そんな彼にイヅルもよく懐いていて、そのときの安心感を思い出したイヅルは懐かしさを感じていた。


 それだけではない。《サイドリッツ》や《ニュルンベルク》も、西洋的な顔立ちではあったが石田和樹と同時期に喪った先輩同僚と良く似ていた。《サイドリッツ》は吾妻あづま榛名はるなに、《ニュルンベルク》は深田ふかだ恭二きょうじに。


 吾妻榛名は初めてイヅルに面と向かって好意を示してきた人物で、極東人にしては色素が薄く、当時にしては長身の女性だ。目的のために性別を偽ってまで特別攻撃隊に入隊してきた豪傑だった。明るく朗らかな人物ではあったが、その高い社交性と押しの強さが苦手で、散々に避けてきたものだ。


「女性は男性の三歩後ろを淑やかに」とされていた時世にも関わらず、榛名は隣を歩くどころか先陣を切って進んでいた。その行動力と気持ちの強さは並外れていて、手本にすべきものだったと記憶している。


 それに漸く気付いたのは彼女が出撃する前日で、面と向かって話をしたのはほんの数分間だけだった。榛名は特攻したきり帰ってこなかったが、それ以来はイヅルにとって姉のような存在だ。今も、彼女の遺髪に守ってもらっている。


 深田恭二もまた兄のような存在で、この三人のなかでも殊更に特別な存在だった。石田和樹と幼馴染みの和寧人で、彼を一言で言うなら、「面倒見の良い飛行機バカ」。普段は馬鹿みたいに明るいお調子者を演じているくせして、航空機絡みになると人が変わったように真面目で精悍だった。


 そのつかみ所のなさに振り回されて揺さぶられて、がっちがちに密封したはずの感情の蓋をこじ開けられた感覚があったのはよく覚えている。この人が絡むと碌なことがないと思うほどには面倒事に巻き込まれてきたけれど、なにか大きな困難があるたび、近くで見守ってくれていたのも彼だった。その聡明さや優しさを本当は心から尊敬したいのに、憎らしい一面をわざと見せて尊敬させてくれないのだ、彼は。それがとてももどかしかった。


 そんな恭二は、終戦二ヶ月後に自分の目の前で息を引き取った。「飛行機に乗るために穢した民族の誇りを浄化するために征きたい」と言っていたにも関わらず、特攻できずに終戦を迎えた彼は、これ以上のうのうと生きるつもりはないと自決の道を選んだのだった。手榴弾での自決に失敗して即死できず、苦痛を感じながらじわじわと死んでいく様を目の当たりにした思い出は、いまでも薄れず鮮明に、脳内に残っている。



「どうしてこんな、」


「きっと偶然……って言いたいけど、イヅルへの牽制のためかもね。海外ではやっぱりイヅルを中心に開発してるって思ってるから。イヅルが不利になるようなことを徹底的に調べ上げて、あの人の姿にしたみたいね。……イヅル、戦うの嫌でしょ?あの人たちと」



 あまりのことに頷く気にもなれず、イヅルは机上で手を組んで押し黙った。そんなの嫌に決まっている。でも、勝つためには戦わなくてはならず、勝つには最悪の場合、ロストさせることも考慮する必要がある。外見がほとんど同じなだけで、全くの別物だということは解っているつもりだが……もう一度彼らの死に立ち会わなければならないのが、イヅルには死ぬほど辛かった。


 でも、戦うのは俺じゃない。外部からの破壊と内部からの侵食に怯えながら、命を削って必死に戦ってくれているのはSA-00型の十人だ。そんな彼らに、あの人たちを殺さないでくれなんて言えるはずもない。



「でも、」


「でも、やらなければならない。これはあの人たちじゃないし、ここにいる彼らの状態を少しでも改善するためには、勝たなきゃいけない」



 何か言おうとしていた百合恵を遮って、イヅルは力強く言う。そうだ、こんなところで絶望している暇なんてない。何のためにここに居座っているんだ。俺は俺で戦わなければならない。それが、この計画のきっかけを作った俺が果たすべき最低限の責任――。


 真っ直ぐにこちらを向く青い目を見て、百合恵は一瞬呆然とした。思った以上に鋭くて、失望している気配も自棄になっている気配もない。少しほっとしたけれど、寂しくもあった。彼は強いように見えるけれど、繊細で傷つきやすい。本人も殆ど自覚していないみたいだから、本当にもう、しょうがないなあって、宥めたり慰めたり時に諌めたりして、一番近くで彼の心を支える口実にしていた。


 それができる私が彼の特別なのだと自負して、優越感に浸ってさえいた。でも、その支えはもう必要ないのかもしれない。前の戦争が終わって以来、強くなったというか切り替えが早くなったというか。良いことなのに寂しくて、百合恵はなんだか釈然としない気持ちになった。



「本体が誰かに似せてつくった人造人間だってことはわかった。でも、それじゃあカメリアの機体は何だ?あいつからはアヤと同じ電気信号が検出された」



 電気信号は遺伝子のように、人が違えば必ず違う。だから本人でなければ照合することはないのだとイヅルは言うのだが、それは百合恵にも分からなかった。情報集めをしている時に、カメリアも確かに進めている、と言う話までは聞いた。


 でもその詳細を掴むことはできなかった。誰も知らなかったのだ。どんなに揺さぶっても『知らない、信じてくれ』と懇願するばかりで、遂に情報を絞りとることはできなかった。怯えた必死の形相から、隠しているわけではなくて本当に何も知らないのだと判断して調査は打ち切った。


 その決断は甘かったのか? でも、九割は無駄だとわかっている時間を浪費するわけにもいかなかったし……。大変な立場に立たされた義兄と想い人を支えると決めて粋がっていたくせに、全く役に立っていないばかりか、勝手に迷惑なことをしているような気持ちになってきた。私は間違ってしまったのだろうか、と思う百合恵は、膝の上で固く手を握り合わせて顔を俯けた。



「……ごめんなさい、カメリアの情報は得られなかったの」



 今、自分がどんな顔をしているのかはわからない。けれどきっと酷い顔をしているのだろう。俯けたまま顔は上げずに答えた。役に立たないと怒るだろうか。期待に応えなかったことに失望されるだろうか。沈黙が怖い。彼の顔を見るのも怖い。これからどう言葉を切り出そう。そう必死に考えながら更に強く手を握っているうちに、何かが頬を撫でた。


 ぴたりと動きを止めた百合恵を見て、イヅルは小さく微笑んだ。彼女の頬を撫でることはやめず、また俯けた顔を覗き込む愚かも犯さなかった。この子はどうも馬鹿真面目というか完璧主義者というか、そう言う融通の効かないところがある。


 今もきっと、カメリアの情報を得られなかったことを深く反省しているのだろう。ゲルマニアとブリタニアの情報を取ってきてくれただけでもかなり助かっているし、この二国の兵器は実装からまだ間もなく、まだ軍属の諜報員でさえまとめきれていない情報だ。


 公私ともに多くを犠牲にしながら持ち帰ったものに、文句をつけるつもりなんかさらさらない。百合恵の頬を撫でながら、イヅルはかけるべき言葉を探っていた。「気にするな」は逆効果だ、やっぱり役立てなかったかと余計に落ち込ませてしまう。次は……は駄目だ、これ以上百合恵に危険なことはさせたくない。どう言えば傷つけることなく伝えられるだろう。ああ、そう言えばまだ今回の礼も言っていなかったな……。



「有難う、百合恵」



 囁くような甘い声を聞き、頬を撫でるのがイヅルの手だと漸く気付いた百合恵は、全身がかっと熱くなるのを感じていた。一番熱くなっているのは目頭で、今にも泣いてしまいそうだった。


 その一言で全て報われた思いになって、がちがちになっていた全身からスッと力が抜けていくのを感じる。本当に単純だなあ、私……。百合恵は頬を滑る手を握って、静かに目を閉じた。



「それじゃあ、私そろそろ行くね。今日、火曜日だから……」



 この至福を数秒で終わらせて、百合恵はやにわに立ち上がった。火曜日は、未だ続いている兄夫婦の墓参りの日。背を向けて慌ただしく部屋から立ち去る百合恵を、イヅルは黙って見送った。


 俺は何をしているんだ。護りたいと思ったものも護らないで無理をさせて。自身の不甲斐なさを改めて痛感したイヅルは、百合恵の姿も見えなくなった廊下の奥を見つめながら大きく息を吐いた。


 SA-00型の連中も百合恵も、身を削って戦っている。だったら俺も、そろそろ腹を括らなければ。イヅルは机上の資料をがさっとひとまとめにして掴み、開け放された扉を抜けて颯爽と廊下を歩く。目的地は通信室。もうこの先に起こりうるマイナスの要素がどうだとか言っていられない。小難しい話をうだうだ一人で考えこむくらいなら、専門家に聞いてしまえばいい。生物学的な話は、俺よりずっとあいつのほうが詳しいのだ。



          ※



 今、廉也が対峙しているのは錦江湾。はやる気持ちを抑えながら、眼下に広がる青を見詰めていた。いつもあの施設から眺めては、いつか飛び込んで潜りたいと思っていた。


 そしてとうとう、それを実行できる日が訪れた。「いつも出撃で潜っているだろう」と煉に言われたが、俺は好きに潜りたいんだと反論してやった。いつもは戦闘を一番に考えなくてはならないし、あの姿では水温も潮の香りも感じられないから、つまらないし煩わしい。やはり生身の体が一番だ。


 切り立った崖から一歩踏みだそうとしたところで、空軍時代に入水自殺と勘違いされた苦い思い出が脳裏に過る。今度こそ間違われないようにしなければと、ギリギリで踏みとどまって慎重に辺りを見回した。あれは厄介だ、止められるだけならまだしも、「まだ若いんだから希望を捨てないで」とか「そう簡単に命を捨てちゃいかん」とか、変に説教されるというか……とにかく無駄に時間を食ってしまうのだ。別に死のうなんて思っていないのに「死ぬな」と言われることほど、困ることはない。


 本当は飛び込んで一気に深いところまで行きたいが、音で怪しまれる可能性を取り除くためにそろりと静かに入水する。肩まで浸かったところで、海の『生』を感じて心が湧いた。それをどう言い表していいか分からないが、潮の流れとか多数の生物が息づいている感じとか、そういったものが廉也は好きだった。


 堪らずに深く潜ったそこは暖かく穏やかで、潜り慣れたオホーツク海とは大きく違っていた。海底にはサンゴやイソギンチャクが、その近くには青や黄色などの色鮮やかな魚たちが泳いでいる。その綺麗で和やかな景色に、凝り固まった表情筋が綻んでいくのを感じていた。


 海は好きだ。ここには、私欲から始まる争いがない。廉也は海面を見上げながら全身の筋肉を弛緩させて海中を漂い、自分には無関係なはずの争いに巻き込まれてきた半生を省みた。


 陽炎廉也は、遥か昔から北海道に住み着いていた北方の少数民族であるウタリ族の、希少な男児として生を受けた。集落ごとの小さな小競り合いはあったものの、特に大きな争い事もなく、海とともに生きる平穏な幼少期を過ごしていた。……がその平穏もすぐに終わり、前回の大戦時に軍事施設建造のためにと、住んでいた稚内沿岸部から移住を強いられた。


 その手入れに抵抗した大人たちが、無残に殺されるのを間近で見せつけられもした。ひとり、ふたりと次々同胞を屠られながら最終的に流れ着いたのが南樺太だ。その立地的にか自身が下等民族とされていたからかは知らないが、特に徴兵されることも敵襲に遭うこともなく、戦火を知らないまま過ごした少年時代だったと思う。本土の人間は口を揃えて「あの戦争は悲惨だった」というが、廉也からしてみればその後の方が悲惨だった。


 敗戦したことで、極東は樺太の領有権を手放さなければならず、その影響で再度移住を強いられた。分割統治時代は何事も無く暮らせていたのだが、独立して新制極東国になってからは、急激に生き辛くなった。再び世界を相手にした戦争を視野に入れた極東国が、異民族排斥運動を推し進めたからだ。言語も文化も大きく異なるウタリがその対象にならないはずもなく、理不尽なまでの差別を受けたのも記憶に新しい。


 差別を恐れ、ウタリの血を薄めるために極東人との婚姻を進める集落もあれば、民族の誇りと文化を守るのだと、徹底抗戦を決め込んだ集落もあった。今後の民族の在り方を巡って、内部で大きな争いが頻発したのは言うまでもなく、廉也はそれが堪らなく嫌だった。



 どうして。どうして身内同士で争うの。


 そう聞いても、興奮しきった大人たちはあいつが悪い、いやあいつが悪いからいけないんだと言うばかりで要領を得なかった。その争いの度、廉也は喧騒から逃れるためにオホーツクの海中に逃げ込んでいた。


 流氷の浮かぶ極寒の海に飛び込んでは、お前は馬鹿かと良く言われていた気がする。その度に廉也は、「それを言いたいのは俺のほうだ」と思っていた。ウタリは数が少ないのだから協力し合わないと生き残れないのに。なのに仲違いばかりするなんて馬鹿だ。


 最終的に、名前を極東仕様に改めつつ民族を保存するということで話が纏まった。それぞれが妥協した結果で、廉也もレプンホロケウという長く付き合った名前を捨てざるを得なくなった。それは、ただ漁に出るか素潜って遊ぶしかしなかった脱俗者が、どういうわけか海軍省にスカウトされる直前のことだった。


 目を閉じて漂い、眠りかけていたところに、何かが優しく擦り寄ってくるのを感じた。ゆっくりと目を開けて覚醒したところで見たのは、数頭のイルカだった。


――お前たちの群れに突っ込んだか、悪かったな。そう思いながら擦り寄ってきたイルカを撫で、廉也は水を蹴ってその場を離れた。折角の海中なのに、嫌なことを思い出してしまった。それを振り切るためにも、深く、遠くまで泳ぎたい気分だった。


 兵器になったことで、人間だった頃よりもずっと長く息が続く。一旦海面に出る必要もないとなると……ずっとこのままでいてやろうかと思えてくる。もうこのまま、どこか遠くへ消えてやろうか。そう思った刹那、今最も信頼する人物の顔が浮き上がった。


 彼はきっと、自分がウタリだと気づいている。それなのに、別にそんなのなんてことないといった感じで振舞っている。それで救われているのは紛れもない事実で、この恩を仇で返すわけにもいかない。それに、生きて終戦を迎える朝潮アヤを見届けなければならない。


 そのためには、海戦の要としてこれまで以上の戦果を上げる必要がある。消息不明になっている場合ではないと思い返し、廉也は速度を緩めて方向転換した。いつの間にか付いてきていたイルカたちと対面することになったが、どれも愛嬌があって友好的な目をしていた。


《スサノオ》として潜っている時に対面するやつも、お前たちみたいな奴だったらよかったのに。廉也は苦笑しながら擦り寄ってくるイルカたちを一頭ずつ撫で、陸地へと引き返し始めた。



 

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